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「祈願成就」第5話(全10話)

進藤絵里


「影のことなんだけど」

 絵里は歩行器から椅子に移るなりそう切り出した。
 テーブルの向こうで実希子がきょとんとした顔をする。なんのことかと尋ねるわけでもなく、こちらの言葉を促すように黙って小首を傾げている。
 伝わっていないことに気づいてくれと言わんばかりの実希子の様子を見ると、奥歯の根がじわりと熱くなる。二十数年経ってもこの子は少しも変わらない。だからといって話をする前からこんな調子ではいけない。実希子を呼び出したのは自分なのだから。

 徹と共に実希子がお見舞いに来たのは一週間前のことだった。まだしばらくは退院できそうもないし、思い出したことがあるから話したい、と交換したばかりのSMSに送った。

 実希子だけに声をかけたつもりだったが、「徹は来られないって。私だけでもいい?」と返事が来た。そして何通にも分けて絵里と会おうと思う理由を述べた。
 徹も言っていたんだけど、呪いについては私もすんなりとは受け入れられない。突拍子もない話だと思う。だけど、影については知りたい。実は私も見かけたの。気のせいならそれで構わない。徹には見えないようだし、絵里ちゃんと話すしかないと思うの。純粋に懐かしい友達ともっと話したいという気持ちも大きいし。――そんなことを。

 手ぶらで来てと言ったのだが、実希子は、そういうわけにもいかない、整形外科なら食事制限もないんでしょ、とマカロンを持参した。そうして談話室に来て、自動販売機でカップの紅茶を買って、今はマカロンの箱を挟んで向かい合っている。

 実希子を呼び出しはしたものの、なにをどう話せばいいのか考えがまとまっていない。影のことなんだけど、と言ったきり黙る羽目になってしまった。マカロンをちびちびと齧って、おいしいねと呟いてみる。

 沈黙に焦れたのか、実希子が「おばさんの腰の具合はどう?」と聞いてきた。

「あんなに痛がっていた腰が、私が入院した途端に痛みがなくなったんだって。私に気を遣ってそう言っているわけじゃなくて、どうやら本当によくなったみたいなの。精神的なものからくる腰痛なんて聞いたことないけど、不思議なものよね」
「それはよかったね。親ってすごいね」
「ほんとに。母は強し、だよ」

 親という言葉を母と言い換えた。

 絵里にとっての親は母親だけだ。父親は絵里が小学生のころに失踪している。失踪の理由は本人にしかわからない。母にも失踪の理由は見当がつかないらしいが、いないにこしたことはないので探す気はなく、むしろ事を荒立てて戻ってくることを避けたかったようだ。

 当時幼かった実希子たちには、よそのうちの厳格なおじさんというくらいの認識しかなかっただろうが、家族は度を超えた厳格な態度に振り回された。
 父の帰りが遅い平日と、一日中在宅している休日では、気分も行動もかなり違うものになった。父の定めた門限が夕方五時だったため、休日に実希子たちと遊ぶことがあってもずっと時間を気にしていた。子供だったけれど――子供だったからこそ、父の決めた規則は絶対的だった。母の緊張も痛いほどに伝わってきた。

 ある時、父は大阪出張に行ったきり帰ってこなかった。先方で仕事を済ませて帰路についたところまではわかっている。その後、飛行機にも新幹線にも乗った形跡がなかったという。

 きっと母はほっとしたことだろう。けれども、父の同僚が親切心から警察に失踪の相談をしてしまった。それで母は行方不明者届出を提出せざるを得なくなった。
 だが幸いにも成人男性の失踪はそれほど重要には扱われず、父は見つからないまま月日が経ったのだった。

 ゴトン、と大きな音がした。見ると、自動販売機の前に人が立っていた。かがんでペットボトルを取り出しているところだった。

「影の話、私は信じるよ」

 実希子があまりにもはっきり言うものだから、思わず瞬きを繰り返してしまった。

 黒猫の影をよけた拍子に転倒したのは事実だが、二十数年前の猫が子猫のまま現れたという解釈まで信じるとは思わなかった。

 すると案の定、実希子は言葉を継いだ。

「ただ、それが昔いた黒猫だというのは、ちょっとわからないかな」

 それはそうだろう。絵里だって、自分の見たものに疑念を抱かずにはいられない。
 絵里は紅茶をひと口飲んでテーブルに置いた。マカロンを食べる時以外は両手で包み込んでいた紙コップからようやく手を離した。姿勢を正して実希子の目を合わせると、実希子も慌てて紙コップをテーブルに置く。

 話すなら実希子しかいない。そう思って呼び出したのだ。ほかのことであれば、実希子になど話したいとは思いもしない。でもこれだけは別だ。あのことに関わっていないのは実希子だけだから。
 影の話を信じるという実希子の言葉を信じるしかない。

 今話しておかないと、絵里の身に起きたことがまたどこかで繰り返される予感がした。

「〈影〉って名前だった」
「……え?」
「猫の名前」
「ああ、猫」
「そう、猫。真っ黒だから影。みきちゃんは覚えてる?」

 実希子はぷるぷると首を振って、かすかに笑いを含んだ声で尋ねた。

「そのセンスがあるんだかないんだかわからないような名前、誰がつけたの?」
「ドワーフよ」
「ドワーフ? 物語に出てくるあのドワーフ? そんなのいるわけないじゃない」

 この子はなにも覚えていないんだなと心の中でため息をつく。やはり話したところでどうにもならないのかもしれない。
 だけど、郁美がいなくなった今、誰かに知らせておくべきだと思った。

「本物のドワーフのはずがないじゃない。あだ名よ、あだ名」
「あだ名?」
「そう。いたでしょ、髭がもじゃもじゃのおじさん。おじいさんだったかな。雑木林の中の防空壕に住んでいて」
「防空壕は覚えてるけど」

 さすがに実希子も防空壕の横穴があったのは覚えていたようだ。絵里たちが生まれたのは戦後四十年まであと少しというころで、ドワーフと出会ったのも終戦から五十年と経っていなかった。当時は四十年前、五十年前というのは気が遠くなるような昔だと思っていたが、大人になった今、その時代がいかに戦争の時代と近かったのかわかる。祖父母は戦争の記憶も新しいようだった。

 さすがに絵里が小学生のころには戦争の気配は薄れていたが、空き地や放置された山も多く、そういうところには横穴が残っていた。大人だと腰をかがめないと入れないような洞窟から、車が入りそうなほど大きな洞窟まであった。崩れる危険があるため格子状の扉をつけているところもあった。そうかと思うと、大きい洞窟はガレージとして使われていたりもして、その扱いに特に規制はないように思えた。

 ホームレスが防空壕跡に住み着いているのは珍しいことではなかった。洞窟の入口に柱を立ててブルーシートを張ってひさしにしていたり、一斗缶で枯葉や小枝を燃やして煮炊きをしていたり。そこで生活している人はいずれも髪も髭も伸び放題で恐ろしい風貌だったが、キャンプみたいなその生活には少し憧れたりもした。大人たちの話からすると、戦後からそのまま住み続けている人もいたらしい。真偽のほどは不明だが、子供のころはその話を信じていた。

「まあ、ドワーフと接していたのは郁美だけだったかな。私も会えば挨拶ぐらいはしたけど、それって親しいからじゃなくて、警戒しているってことを悟られないように、平気で接している振りをしていた感じ。郁美以外はみんなそうだったと思うよ」
「……だめ。全然覚えていないや」
「そっかあ。覚えていない方が幸せかも。ただ、影には気を付けて」

 実希子は頷いたが、どこかおざなりに見える。それも仕方のないことだ。

 歩行器につかまりながらエレベーターホールまで実希子を見送る。乗り込んだエレベーターの中から「お大事に」と手を振る実希子に笑顔でお礼を言いながら、扉の閉まるのを見届けた。

 実希子との面会で思った以上に体力を奪われたらしく、ベッドに戻るといつの間にか眠りに落ちていた。

 看護師に起こされて夕食を済ませた後は、ノートパソコンを広げメールチェックをした。仕事のメールはCCに宛名の入ったものが午前中に二件あっただけで、午後は一件もなかった。受信したのはすべてメルマガであるのを確かめると、まとめて削除した。
 入院直後は頻繁にあったメールや電話も今はほとんどない。自分がいないと回らないと思っていた仕事はいとも容易く復旧していた。払った対価は骨折だけではなかったということか。それだけでは安すぎると。

 消灯時間にはまだ間があるが、同室の人たちはすでにカーテンを引いている。明かりが透けているからテレビでも観ているのかもしれない。絵里も窓側だけを開けたままにして、通路側のカーテンを閉めた。

 窓の外には岩倉台の夜が広がっている。駅向こうの巨大団地のほかは一戸建てがひしめく街。小さな明かりは低い位置に集中していた。普段見ていた夜景からしたらここは暗くて寂しい。

 絵里が一人暮らしをしている自宅は都内にあるが、実家付近で救急搬送されたため岩倉台で入院することになったのだ。こういう時に頼れる親しい友人も恋人もいない身には母の存在はありがたいが、岩倉台には近づきたくなかったというのが正直なところだ。

 岩倉台に来ると、どうしてもあのことを思い出す。

 あれは子供の遊びだ。そんなものを信じ続けていたわけではなかった。それでも父がいなくなったことで信じざるを得ない気がしていたのも確かだ。真相などわかるはずもなく、罪悪感を持つべきかどうか迷いつつここまで来た。

 けれども、影を見てわかった。あの祈願――いや、呪詛は、有効だった。子供だましのおまじないなどではなかったのだ。

 小学生のころ、女の子の間では占いやおまじないが人気だった。絵里も一時期は夢中になった。不確かな神秘性に魔法のような魅力を感じていた。

 今の少女向け雑誌にどのようなものがあるのか知らないが、当時は占い専門雑誌があって、少女漫画さながらの可愛らしいイラスト付きで様々な占いやおまじないが載っていたものだ。専門雑誌を読んでいても、多くの子は軽い気持ちだった。朝のテレビ番組内の〈今日の運勢〉をチェックする程度のもの。

 そんな中で〈魔女〉と呼ばれるほど占いに詳しかったのが郁美だ。長い黒髪や口数の少なさが一層ミステリアスな雰囲気を醸し出していた。
 郁美は占いやおまじないを頼まれる時以外は一人でいることが多かった。話しかけられれば丁寧に受け答えをするが、自分から話しかけることはほとんどなく、ほかの女の子のように群れたりもしなかった。

 そんな凛とした郁美の姿は、絵里の憧れだった。自分はといえばクラス替えのたびに、もっとも華やかなグループに紛れ込んでいたから。グループの女王を褒め称えていればそこからはじかれることがないという安心感があった。孤高の存在に憧れながらも、自分はなれないと知っていた。

 郁美と秘密基地で一緒にいられるのが誇らしかった。学校では自分のせいで郁美のイメージを崩してはいけないと思い、なかなか話もできない。けれども秘密基地なら気兼ねなく話せた。

「郁美ちゃんはなんで呪いが得意なの?」

 どこで仕入れた知識なのか、郁美は占いからおまじないまで、たいていの要望に応えていた。おまじないは確実に成果が得られるわけではなかったが、評判はすこぶるよかった。特に呪詛の成功率が高かった。

「自分では特に呪いが得意なつもりはないんだけどなあ。私は道具をそろえて手順を教えるだけだもん」

 そう言いながら土の中に呪具を埋めていく。小さな瓶に詰めた粉や、和紙に包み赤い糸で結んだなにか。貸し出して使用済みとなったものだ。
 呪具を自分で用意できない子には郁美が自らそろえてあげていた。終わったら必ず返すようにと言って。

 返却率はよかったように思う。よくない結果を生むおまじないに使ったものなど誰だって手元に残しておきたくはない。それも出どころのわからないおまじないだ。誰にでも試せるわけではないということが、なおさら神秘性を高めていた。

 占いやおまじないならば雑誌などでも知ることができたが、呪うことに関しては知る方法がないに等しい。白魔術に対する黒魔術のような、おまじないの裏の面を扱う郁美は、ただの〈魔女〉ではなく〈黒魔女〉だった。

「呪う方法って、どうやって調べているの?」
「ドワーフから教えてもらっている」
「ドワーフさん? 外国の人?」
「ううん。物語でそういう種族があるの」
 そのころ絵里はまだドワーフがなんなのか知らなかったのだが、郁美は占いやおまじないに限らず、本をよく読んでいたから詳しかったのだろう。
「そのドワーフっていう種族がこの辺りにいるってこと?」
「いるのかもしれないけど、私が知っているドワーフはあだ名よ。ほら、防空壕に住んでいるおじさんのこと」

 その人なら知っていた。縮れて広がった髪や髭のせいか、絵里には〈おじさん〉というより〈おじいさん〉に見え、少なくとも親よりは祖父母に近い年齢だと思っていたのだが、実際はいくつくらいだったのだろう。尋ねたことはなかった。たとえ尋ねたとしても、本人にすらわからなかったようにも思う。

 秘密基地よりも奥に進んだところに、ひっそりとその防空壕はあった。そこに人が住み着いていることを絵里たちは知っていたが、誰も親に言わなかったはずだ。そのような素性のわからない大人の近くを遊び場にしていると知られたら、二度と秘密基地に近寄らせてもらえないと気づいていたからだ。

 それにしても、実希子がドワーフを覚えていないのには驚いた。どうしたらあれほど印象的な人を忘れられるのだろうか。疑問に思うと同時に、いかにも実希子らしいとも思う。あの子が覚えていることなどたいして多くはないのだろう。

 昔からあの子を見ると脳裏に浮かぶイメージがある。おもちゃの指輪を手に取ったら思いのほか軽くて、力加減を間違えた手が跳ね上がってしまったような、そんな感覚。淡い色合いで輪郭の定まらない姿。漆黒をまとい周囲から浮き立つように存在する郁美とは対照的だった。

 絵里のベッドサイドには、歩行器ではなく松葉杖が置かれるようになった。
 松葉杖での歩行はギプスで固定された右足の重さを際立たせる。松葉杖を半歩前に出し、左足を引き寄せる。少し浮かせた右足が振り子のように勢いをつけた。ギプスの重さがあるおかげで歩きやすくなっている気がして、なんだか納得がいかない。

 医師にも看護師にもなるべく歩くようにと言われている。
 安静にしていなければと思っていたが、動け歩けと言われたらその通りにした方がいいらしい。実際、手術を受けた患者などは傷口が開くのを恐れて動かないでいる人より、指示通り談話室や売店などをふらふらしている人の回復が早いという。なんとも人間の体というのはよくできていると思う。

 退院後もしばらくは松葉杖生活になるため、院内で歩行訓練をしておく必要もある。幸いというべきか、近頃は仕事のメールもCCすら外されているらしく、ほとんど届かないので、時間ならあまっている。たいして欲しくもない飲み物を買うためにわざわざ一階の売店に向かったりする。

 ペットボトルのお茶とチョコレート菓子、普段は立ち読みすらしないファッション誌と作家名だけは聞いたことがある文庫本を買って、病棟へ戻るエレベーターへ向かう。

 外来診療はほとんどが午前中で終わるため、院内はひっそりとしていた。患者が通らない廊下はひと気がなく、ガラス張りの壁面からは昼下がりのまばゆい光が差し込んでいる。
 ガラス際の植え込みの向こうは駐車場になっており、車のフロントガラスが日光を反射させて絵里の目を射る。松葉杖をついているため手ひさしで遮ることもできず、目を細めて廊下を進む。残効の一種なのか、焦点の合わない影がチロチロと視界をさ迷う。

 一足ごとにレジ袋がガサリと鳴る。

 遠くで診察の呼び出しアナウンスが響いている。

 駐車場は近所の人の抜け道にもなっていて、スーパーの袋を提げた女性や制服姿の学生が行き過ぎる。

 その中に、泥のような色をした塊がいた。

 こちらに向かってくる。やがてガラス越しにすれ違うだろう。

 崩れたドレッドヘアみたいな頭髪に原型が想像できない布が重なり合って体に貼り付いている。一見してホームレスとわかる姿だ。
 通行人は彼を刺激しないようにさりげなさを装って、しかし装いきれないあからさまな態度で足早に追い越していく。

 絵里も視線を逸らし、廊下の先を見つめて歩く。

 横目にも外の人波が途切れたのがわかった。男とすれ違う瞬間、視界の隅でなにかが動いた。つい視線を取られる。

 ガラスの向こうでは男がこちらに向き直り、知人へ挨拶するかのように片手を上げていた。
 男の袖が滑り落ちて左手があらわになる。汚れとは異なる、焦げのように黒ずんだ手首。その先は失われている。

 絵里は反射的に足を止めた。進みかけていたレジ袋が一拍遅れて戻ってくる。松葉杖にあたり、ガサリと鳴った。喉元がギュッと詰まる。

 男の口元を覆い隠している髭の塊がわずかに動いた。それが微笑みだとわかったのは、目が細められたからだった。

 男は手首から先のない腕を何度も振る。それでも絵里が反応しないのを見て取ると、やがて諦めてその場を立ち去った。

 ガサリ、コツン、と音がした。

 絵里の手にあったレジ袋と松葉杖が落下した音だった。絵里は壁に寄り掛かり、冷たいリノリウム床に尻をつけていた。

「まさかそんな……」

 間近に聞こえた囁き声にびくりと身をすくませたが、辺りに人影はなかった。どうやら自分の口から発せられたものだったようだ。

「まさか……ありえない……」

 今度は意識して声にした。

 焦げたように失われた左手――。

 絵里ははっきりと自覚する。

 その手を、私は知っている。

 一度だけ、郁美が泣いているのを見たことがある。

 日が暮れ始めると、雑木林の中は街より早く夜が訪れる。手元に集中していると、明るさの変化に気づかないことが多い。ふと顔を上げると薄暗くなっていて、時空を飛び越えたかのような不安に襲われた。

 みんなに声をかけ、五人で道路まで出ると、街にはまだ昼の名残りがあった。ほっとして手を振り合い、家路を急いだ。

 一人になると、家々から漂う匂いにお腹が鳴った。焼き魚、煮物、フライ、ハンバーグ、生姜焼き……様々な匂いが入り混じっていてもどこからどの匂いが漂ってくるのか嗅ぎ分けられた。我が家の夕飯はなんだろう。カレーが食べたいと言ったことを覚えていてくれたかな。そんなことを考えながら走って帰った。

 けれども玄関を開けてもなんの匂いもしない。代わりに父の革靴があり、台所から苛立たし気な声が聞こえていた。絵里は「ただいま」と言いかけた口をつぐむ。

「世間では、専業主婦は三食昼寝付きだなんて言われるけどな、まともに家事をこなしていたら食事や昼寝をしている暇はないって、俺はことあるごとに言ってるんだ。会社の男どもはそんなことわかっちゃいない。俺だけが専業主婦もちゃんとした仕事だと認めているんだ。そうだろ?」
「……はい。ありがとうございます」
「な。そうなんだよ。俺は理解のある旦那だろ?」
「……はい」
「わかっているなら、ちゃんとやってくれよ」
「やってます……」
「だからさぁ、ただやるだけじゃだめなんだって。ちゃんとやれって言ってるんだよ、ちゃんとさ」

 見なくても父がどんな動作をしているのかわかった。テレビ台か食器棚か窓枠か、そのあたりを指でなぞって、かすかについた埃を見せているに違いない。
 母の声は聞こえないが、父は言葉を続けている。

「飯もさ、一品の量を増やすんじゃなくて、少ない量で種類を増やさないと栄養が偏るだろ。俺が自分のために言っていると思うか? 絵里のためだよ。子供にはちゃんとしたものを食わせろよ」

 自分の名前が聞こえたところで、そっと外に出た。自分の存在も母を苦しめる一因なら、このまま帰らない方がいいような気がした。東の空はすでに夜の色をしていたが、絵里は構わず歩いた。

 父は、声を荒げるわけでも手を上げるわけでもない。不満げな声色をしながらも、諭すように言葉を重ねる。だから母はいつも、自分がきちんとすればいいだけだ、と力なく笑う。

 家を出てきてしまったが、帰りが遅くなればまた父は責めるだろう。絵里のことだけでなく、母のしつけがなっていないとか言い出すに決まっている。
 そんなに不満なら、なぜ父は帰ってくるのだろう。自分の家だから? だったら母と娘を追い出せばいい。父のいない毎日を過ごしたい。

 いなくなれ、いなくなれ、いなくなれ。

 気づけば雑木林まで来ていた。

 秘密基地で少しだけ時間を潰していこう。父は帰宅後すぐに入浴するはずだ。その時間を見計らって帰ることにしよう。そう思い、暗い雑木林に足を踏み入れた。不思議と怖いとは思わなかった。

 手探りでクマザサを分け入っていると、林の奥からすすり泣きが聞こえてきた。

 空はまだ完全には夜の色に覆われていなかったが、わずかに残る明かりを木々の枝葉が遮り、秘密基地には一足早く闇が訪れていた。だから解散し、みんな一緒に帰った。

 それなのにいったい誰が? 

 自分も舞い戻ってきたくせに、ほかの子が同じ行動をとるとは思いもしなかった。

 地面には朽ちた葉ややわらかな土が積もり、足音を飲み込んでくれる。絵里はうっすらと認識できる幹に手を添えながら、秘密基地までの道を頭に思い描きつつ進んだ。

 次第に耳に届く泣き声が大きくなる。
 時おり、言葉を聞き取れないほどの低い声が泣き声に重なっている。

 木々のぽっかり開けた空間に、郁美の横顔が見えた。日の名残りか月の光か、眼鏡をはずした頬を白く浮かび上がらせていた。
 泣いている郁美の頭に、手首のない手が乗せられている。郁美は拒絶するように首を激しく左右に振っている。
 手首のない手が、頭から肩まで滑り降りてきて、郁美の細い体を抱き締めた。その手の先には大きな体がついている。崩れたドレッドヘアみたいな頭髪に、原型が想像できない布を重ねて体に貼り付けた男――ドワーフだった。

 遠く救急車のサイレンが聞こえる。次第に大きくなる音に、散らばっていた意識が目覚めて集まる。
 手を伸ばし、レジ袋を掴んだ。壁の手すりにつかまって体を引き上げてから、腰をかがめて松葉杖を拾う。

 サイレンはすぐそこに迫る。駐車中の車越しに赤色灯が見えた。

 サイレンが止まり、救急搬送口に横付けされるとすぐにストレッチャーが引き出された。
 突如慌ただしくなった光景に視線が引きずられる。
 患者には年配の女性が付き添っている。絵里の母と同じくらいの年齢だろうか。一方、ストレッチャーに横たわる体は小さかった。

「なおくんっ、なおくんっ!」

 女性の悲痛な叫びが廊下に響く。よほど危険な状態なのだろうか。
 絵里は顔をそむけた。できれば耳も塞ぎたかったが、両手は松葉杖で塞がれている。飛び交う音と声から逃れて、急ぎ足でエレベーターホールを目指した。


「祈願成就」全10話
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