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「死ねない死者は夜に生きる」第7話(全14話)

「調子はどう?」

 ランコはサキのベッド脇で腰を屈めた。

 狩りの後からサキは躰が重いと訴えている。次第に動きも緩慢になり、数日前からはほとんど伏して過ごすようになっていた。

 ヒガンに長く棲むランコだが、サキのような状態をどう扱えばいいのか見当もつかない。ランコも死せる者の中では特異体質だが、サキはさらに特異だといわざるをえない。このような個体が発生することがあるのは知識としてあるにはあるが、遭遇したのは初めてだ。

 既に死んでいる躰だ。怪我も病気もない。これ以上傷むこともない。だから心配する必要がないのはわかっている。だが、存在に影響がないからといって苦痛がないわけではない。

 自らの躰が苦痛を感じているわけではないのに、腹の奥が軋むように痛んだ。ひどく懐かしい感覚だ。こんな感覚があるということすら忘れていた。

 サキの気怠そうな視線がランコに届く。

「痛みがあるわけじゃないの。ただ力が入らないだけ。わかるでしょう?」

 ランコは頷いたが、想像はつくものの記憶にある限り経験がない。想像がつくということは、記憶の底に埋もれてはいるのだろうと思う。きっとシガンの記憶だ。サキは自分と同じタイプの死せる者だと思ったが、意外にも異なることの方が多い。

 とはいえ、共に死せる者である以上、基本的な体質は同じはずだ。ランコも、知性を持たない死せる者どもも。
 サキが動けないのは単に血気不足だ。生ける者を口にすれば回復するだろう。
 ランコ自身はいつも血気補給のつもりで狩りをしているわけではない。生ける者の香りや味に惹かれるから自ずと狩りたくなるのであって、いちいち肉体維持に必要だからと意識はしない。

 なるほど、と今さら気づく。シガンでの存在権利を失った死せる者は、当然存在し続けるためのエネルギーは持ち合わせないというわけか。存在権利は生ける者から摂取するほかない。

 幾星霜もヒガンで過ごし、自分なりにヒガンやシガン、死せる者や生ける者について調べたり考察したりしてきたが、サキと共にいるようになってから気づくことも多い。

 会話がどういうものであったか、そんなことまで忘れかけていた。サキと出会わなければ、ほかの死せる者どものように言葉を失うのも遠くなかっただろう。

「私、そんなに情けない様子かしら」
「え? あ、いや」
「すごく眉間にしわ寄せてるわよ」

 からかうようなサキの声に思わず眉根に触れると、たしかに深い凹凸を感じた。

「私もこんな表情をするんだな」
「ランコったら、なに他人事みたいに言ってるのよ。おかしな人ね」

 人というものは、自らが不調を抱えているというのにこうも他人の気分を軽くさせようと振る舞うものだっただろうか。そうだった気もするし、そうではなかった気もする。生ける者だった頃の記憶も薄れつつあるが、その時の感情なんてものはもっと早くに失われている。

 当然ながら既に生ける者ではないが、死せる者にもなりきれない半端者。だけど、半端者に同類がいれば、それはなにかの異端ではなく、ひとつのしゅになりえるのではないか。咲という同類を得た今、そんな希望が湧く。

 サキが寝返りをうつ。

「私は次の満月までベッドで過ごすわ。だからランコ、そばについていてくれなくても平気よ。あなたはこれまで通り過ごして」

 サキはそう言うが、この状態では次の満月に狩りをする力すらないはずだ。血気を補充しなければならないのに、そのための血気が欠乏している。悪循環だ。どこかで仕切り直さなければ永遠に苦痛が増していくだけだ。ランコが狩り、獲物をサキに与えるしかないのかもしれない。

 一人の頃は時間を持て余すことに悩んでいたが、二人になったらなったで別の悩みが出てくるものなのだなと思う。そしてそれは案外悪くない。ただ、こんな時に相談できる相手がいないのがもどかしい。

 ヒガンに独りぼっちの存在だったが、独りぼっちが二人に増えたところで状況は変わらない。死せる者の中でランコとサキは異端であることに変わりはない。二人程度では新たな種とはなれないことくらいわかっている。

 それでも。

 ランコは手を伸ばし、サキの目元にかかる前髪をそっと整える。

 それでも、ランコにとってサキは、ようやく得た仲間だ。

「そうだな。そうさせてもらうよ。ちょっと出てくる」
「うん。いってらっしゃい」

 ランコはスカートを翻し、夜の中に飛び出した。

 あの場所はまだあるだろうか。
 シガンに来てしばらく経ってから見つけた部屋。あの頃はただの暇つぶしで訪れていたが、今夜は目的をもって訪れる。改めて知っておかなくてはならない。今はもう一人ではないから。
 サキを失いたくない。再び一人にならないためにも、久しぶりにあの部屋へ行かなければならない。

 ランコは時の砂に埋もれた記憶を掘り起こし、どうにかその部屋への道を思い出した。

 路地を行く。数十年の時の流れに取り残されたような地域。道幅は狭い。車が通れないどころか人がすれ違うのも肩を傾けなければならないほどだ。区画整理がされる以前からの町並みらしく、細い路地がくねくねと這う。道なりに歩んでいてはたちまち方角を見失いそうだ。道の両側には大人の背丈ほどの板塀や竹垣が並び、一帯に木造の日本家屋がひしめき合っている。

「たしかこの辺りだったか」

 最後に訪れてからどれほどの時が経ったのだろう。部屋の主がいなくなってからもしばらくは忍び込んでいたが、それでもかなりの時が流れているはずだ。あの頃はまだ国道沿いにコンビニなんてものもなかったし、夜はもっと深かった。それほどの時を経ているにもかかわらず、この地域は大きく変わることなく残っていた。

 町並みは変わっていないのに、目指す部屋へ至る道筋はランコの記憶に蘇ってこない。

 永遠に変わらない身体を持ちながらも記憶だけは時の流れの影響を受ける。

 記憶を呼び覚ますものがないかと路地を見渡していると、正面から歩いてきた猫と目が合った。猫はランコを認めた瞬間、びくりと身をすくめ、足を止めた。

 そのまましばし硬直していたが、我に返ると突然弾き飛ばされたように身を捻った。一瞬でランコの脇をすり抜けられるか目算したが、水平方向には逃げ道がないと判断したらしい。猫はひどく慌てた様子で板塀を飛び越えていった。

「そうか。視えるのか」

 動物は人より勘がいいようだが、それでも死せる者を視覚で認識するものは多くない。たとえ相手が猫であっても、自分の存在を認められると気持ちが綻ぶ。

 死せる者同士は互いの存在は認識できてはいるが、猫ほどにも意識を払うことはない。彼らにとって己以外はただの障害物でしかない。たとえそれが自らの意思で動くものであっても。

 他の死せる者のことを自分と同類だと理解しているのかどうかも怪しい。走行する車や風に転がされるごみと区別できていないのではないだろうか。あるいは区別する必要もないのかもしれない。

「それはそれで幸せかもな」

 そう呟いてはみたものの、彼らに幸せの概念すらないことに気づいて苦笑した。

 夜は静まり返っている。

 サキと出会った頃には名も知らぬ虫たちの鳴き声がいくつも重なり合っていたのに、いつしかなにも聞こえなくなっている。木々は葉を落とし始め、夜風は濁りなく澄んでいる。

 冬が近い。生ける者なら肌寒さを感じる頃だろう。

 ランコも気温の変化は感じるが、暑さや寒さで服装を変えることはない。どれほど暑くても、どれほど寒くても、ただそうとわかるだけで、身体への負担は感じないのだ。もはや汗をかくとか凍えるとかがどのような感覚であったのか思い出せない。知識として残るのみだ。

 知識。知っているということは心に安定をもたらす。

 他の死せる者のように思考を手放しているのなら、不安もないだろうから目の前のことだけわかればいい。日中は暗闇に身を潜め、満月の夜に狩りをする。それだけでいい。この先どうなるのかなんて考えもしないだろうし。

 だが、思考能力が残った死せる者は世の中を知りたくなる。自分が世のどこに在るのか知りたくなる。わからないままでいるのは、ずぶずぶとぬかるんだ地面の上に立っているようなものだ。足元の悪い場所からは抜け出したい。しっかりと踏みしめられる道に立ちたい。それが叶えられたのがあの部屋だ。

 狩りの途中、偶然立ち寄ったあの書斎でランコはこの世の仕組みを知った。いや、知ったつもりの仕組みが正しいという確証はない。真実を調べようがないのだ。生と死で隔たれたこの世界を俯瞰する存在でもない限り、正誤は不明だ。

 だからランコが知っているヒガンとシガンの関係も、すべては推測であり、仮定だ。武雄と共に見つけ出した仮定だ。

 仮定だが、ランコは信じている。この仮定があるから、ランコはこの地に立っていられる。

 そして今また新たな異端者について考察しなければならない。

 まだ武雄がいたなら一緒に調べ、考えてくれただろう。それはもう叶わない。だけど、せめて武雄の書き残した資料を見たい。なにかの助けになるかどうかわからないが、ヒガンで頼れるものはほかになにもない。

 あの部屋は、武雄の書斎はまだ残されているだろうか。故人の部屋など片付けられてしまっただろうか。

 ランコは長い間変わらない町並みにわずかな望みを抱く。変わらない場所もきっとある。

 気付けば小さな数寄屋門の前に立っていた。風雨にさらされ消えかけた木製の表札の文字はかろうじて「井口」と読める。

「そうだ。ここだ」

 ひとまず家があったことに安堵すると、ランコは身を引き絞るように腰を落とし、それから軽々と飛び上がる。数寄屋門の屋根をトンと蹴って庭に降り立った。

 問題は、個人の書斎が生前のまま残されているかどうかだ。
 広い日本家屋の裏へと回り込むと、母屋と短い渡り廊下で繋がる離れが目に入った。
 見覚えのある外観で、建て替えた様子はない。だとすれば、あの頃と変わらず、六畳間と次の間、それから和式のお手洗いがあるだけのこぢんまりとした間取りのはずだ。渡り廊下からの戸口は次の間と繋がっている。

 ランコは裏に回り込み、障子硝子の框に手をかけ、小刻みに戸を揺らした。ガラスがカタカタと鳴るが、たとえ誰かに聞かれたとしても風で揺れたと思うだけだろう。様子を見に来たところで、ランコの姿は見えない。

 しばらく揺らしていると、カタッと小さな振動があった。この掃き出し窓は捻締ねじしまじょうが緩んでいて、揺らすなどして振動を与えると捩じらなくてもはずれるのだった。
 以前よりも建付けが悪くなっている。戸を敷居から浮かせるように持ち上げて、開いた。

 室内を見て、ランコは面食らった。記憶にある部屋と違いすぎて、思わず庭に戻って離れの外観を確認したほどだ。だが、間違いなく目指す場所だった。

 ランコが入ってきたのは、六畳間の掃き出し窓だ。たしかにこの部屋は六畳ほどの広さに見える。間取りはそのままに、内装を変えたということなのだろう。

 死せる者は夜目がきく。部屋の明かりをつけずとも充分に観察することができる。
 次の間と隔てる襖はすり硝子の引き戸になり、畳は板張りになり、文机は椅子と机の組み合わせになり、ベッドまで置かれている。なにより大きな違いは、大量の書き付けが見当たらないことだった。部屋は整然としており、殺風景といってもいいほど物がない。目当てのものがないのは一目瞭然だった。

「あるわけないか」

 考えてみれば、いや、考えるまでもなく、個人の書き付けの束など残っているわけがないのだ。しかも中身は、知らない人にとっては妄想か小説の構想でも練っているかのような奇妙な世界なのだから。武雄も遺すつもりはなかったのではないだろうか。それに、用紙のサイズもバラバラだったし、隅を紐で綴じただけの簡易的な書き付けだった。誰かの目に触れることを意識したものではなく、ただ自分の考えを整理するための覚書だったのだと思う。あれに価値を見出すのはランコくらいだ。部屋の主が変われば処分されて当然だろう。ランコは、武雄の生前に譲り受けておかなかったことを悔やんだ。

 しかし、あの頃は、改めて武雄の考察を見直す日が来るとは思いもしなかったのだ。ずっと独りだと思っていたから。世界がどうなっているのか知ったところでどうにもならない。何も考えず、何も感じず、粛々と日々を過ごすしかない。永遠を生きるとはそういうことだ。

 ずっと独りだった。武雄と出会うまでは。そして武雄と別れてからは。武雄は特別だった。

 武雄は、視える人だった。


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