見出し画像

「死ねない死者は夜に生きる」第8話(全14話)

 あれは何年前だろう。先の戦争が終わり、世の中が貧しくも平穏な日々が訪れた頃だった。町中に子供が溢れていた。後に聞いたところによると、町だけではなく、全国的に子供が増えた時代だったようだ。ともかく子供が多かった。そのおかげで獲物には困らなかった。幼い血気はまださらりと淡白で、おいしいとは言えないが、豊富にあるのはよかった。
 ただ、子供には死せる者の姿が視えることがあるらしい。ほとんどの者は成長と共に視えなくなり、記憶からも薄れていくようだ。覚えていても、現実だとは思わないらしい。
 しかし、武雄はいつまでも視えていた。

 武雄と出会ったのは、彼が小学生の頃だ。
 だが、その最初の出会いをランコは覚えていない。幼い獲物の一体としか認識していなかったからだろう。
 ところが、武雄の方ではランコを覚えていた。多くの死せる者は身なりなど構わず、ヒガンに属した時から変わらぬ衣類を着たままだ。当然服は汚れ、破れ、擦り切れ、ぼろ布をまとっているような姿になる。それならまだいい方で、ほとんど裸体のような者が大半だ。その中でランコだけが西洋人形のミニドレスみたいなワンピースを着ていた。それが目を引いたらしい。

 互いに認識したのは昭和の半ばのことだった。
 当時は夜間に出歩く人などなかった。街灯は既にあったが現在のような煌々とした明るさではなく、丸太でできた電柱に笠をかぶった裸電球がくっついているものだった。当然ながらコンビニなどというものはないばかりか、夜間に営業している店舗などなかった。自家用車も裕福な家庭だけのものだった。
 夜は死せる者の世界だった。狩りは待ち伏せするものではなく、獲物の巣穴を襲うものだった。忍び込む手間はあるものの、獲物は眠っているため狩りやすかった。

 ある満月の晩、ランコが狩場に選んだのはこの一帯だった。ほかの死せる者との縄張り争いを避けられると思ったからだ。

 この辺りは当時から狭く入り組んだ路地で、猪突猛進の死せる者にとっては自在に動き回れない窮屈で魅力のない狩場だったのだと思う。それに、あいつらには、同類間での奪い合いを避けようという発想はまるでなく、むしろ死せる者が群れているところに引き寄せられていく。その習性はランコにとって都合がよかった。

 夜間に出歩く生ける者はいないせいもあって、狩りをする死せる者もいなかった。ほかの死せる者たちは来たものを襲うという発想しかないが、ランコは違う。棲み処に入り込んだ。施錠されている建物の中に入るのはそれなりに骨が折れた。音を立てたところでこちらの姿は見えないし、万が一気づかれたところで身体能力では死せる者が勝っている。だが気づかれれば面倒であることには変わりない。しかも狭い住居は動きが制限される。狩場として条件がいいとはいえない。だが、それでも、このあたり一帯がランコの狩り放題だということは魅力だった。

 獲物にありつくまで多少手間はかかるが、無秩序な死せる者どもと争いながら狩るよりはずっと気楽で気分もよかった。そのおかげでランコの食欲は早くも満たされた。

 狩りへの昂りが静まりつつある中、最後の一口にしようと、最も近い家に立ち寄った。それが井口家だった。

 母屋の雨戸はぴしりと閉められ庭先も整然とし、木造ながら堅牢な印象を受けた。勝手口ならばもしやと思い、裏に回ったところで、離れを見つけた。こちらは非常に簡易な造りだった。掃き出し窓に戸袋がついているにもかかわらず雨戸を立ててもいない。硝子障子に手をかけると抵抗なく横に滑った。

 ランコはするりと忍び込み、その刹那、とっさに半歩後退った。

 暗闇に青年がいたのだ。

 生ける者はみな寝静まっている刻限だろうに、寝巻の浴衣を着た青年が畳に敷いた布団の上に正座をし、こちらを見ていた。その視線は、ランコの視線をとらえていた。

 そのことにたじろいでいると、青年はかすかな笑みを浮かべ、口を開いた。

「やっときてくれたね」

 それが、武雄青年だった。

「食うか?」

 武雄は首を傾け、首筋をさらした。最後の一口のために忍び込んだはずなのに、驚いたせいか食欲は失せていた。

「今は、結構、です」

 久しく出していなかった声は嗄れ、言葉は我ながらたどたどしかった。

「そうか。食いに来たのだと思ったのだがな」
「そのつもりでしたけど、驚いてそれどころではありません」
「おや。どうして」
「どうしてって……だって、えっと、あなたが」
「ああ、私は武雄。井口武雄という。おまえは? 名前はあるのだろう?」
「名前……」

 呼ばれることも名乗ることもなくなって久しい。頭の芯がちりちりとして小さな火花が散った。

「思い出した。蘭子。そうだわ、私は蘭子です。花の蘭です」
「蘭子さんか。華やかな名前だ。それで?」
「それで、とは?」
「どうして驚いたのかって話だろう」

 会話とはこれほど難しいものだっただろうか。相手の言葉を理解し、それに対する言葉を発することの繰り返し。ただそれだけのことが、いちいち意識して集中しないと成すことができない。吐き出された瞬間に消える言葉を追うのに必死だ。いくつか前の言葉など覚えていられなかった。

 ほかの野蛮な死者とは違うという思いがあったけれども、生者と接することで、その自尊心はあっけなく打ち砕かれた。同時に、自分がいかに生から遠ざかっていたのかも突き付けられた。比較対象が異なれば自分の評価も変わる。そんなことも気づかないほど生前の感覚が鈍っているのだ。

「蘭子さん」

 思考に潜ったまま浮上しないランコの意識を武雄の声が釣り上げる。

「はい。あ、えっと」
「私に会って驚いた理由を訊いているのだよ」
「ああ。そう。私は驚きました。私を待っていたと言ったから。いいえ、違う。そうだわ、あなたが、武雄が、私のことを見ているから。生きている人に私たちは見えないと思っていたので」

 今までの生者も死者に気づいていたのだろうか。気づいていながら襲われることに甘んじていた? とてもそうは見えなかった。それとも、これもまた私の感覚が鈍っているせいなのだろうか。
 再び深い思考に潜りそうになるランコの様子に、武雄はふっと笑った。

「いや、すまない。困らせたかな。どの程度意思の疎通ができるのか確かめてみたくて、少々いじわるをしてしまった。うん、どうやら、蘭子さんは久しぶりに話をするみたいだね。言葉を忘れる前に会えてよかったよ」

 そして武雄は語った。自分は人ならざる者が視えてしまう人だということを。そしてそれは生者の中ではごくわずかだということを。
 死者の中で異端であるランコは、生者の中の異端である武雄に共感を覚えた。

「どうして武雄は私たちが視えるのですか?」
「さあ、どうしてかな。子供と老人はあの世に近いとはいうけどね」
「死後の世界に? ご老人だけでなく、子供も?」
「死んだあとも生まれる前も、この世でないところすべてだよ。こういう世界は無数にあるのだと私は思っている。そしてその中で重なり合っている部分があって、それが今ここのことだ」

 なにを言っているのか、さっぱりわからない。言葉や会話を忘れかけているから理解が追いつかないのか、そもそも武雄がおかしなことを言っているのか、ランコには判断がつかない。頭を整理したいが、もやもやしたものを掻き混ぜるだけで透明度が上がることはなかった。言葉が不自由だと思考も停滞するようだ。
 武雄から見てもランコが理解していないのは明白だったようで、反応を窺いながら話を進めてくれる。

「ええと、そうだな……。あわいとか境界という考え方はわかるかい?」

 ランコが首を横に振ると、武雄は言葉を探るようにして話を続けた。
 それによると、生者の世界と死者の世界だけでなく、ほかにも世界はいくつもあって、一点が接していたり、一部が重なり合ったりしているという。それを間とか境界というそうだ。
 たしかに生者から死者は視えないが、同じ風景を共有している。重なり合った、境界だ。
 その境界を認識できるかどうかは、その人物が境界に属するかどうかによるのだという。

 「生」から始まり「死」で終わる一生は、一直線の一方通行ではない。「生」からぐるりと描いた円が、「死」で終わる。円であるから、「生」と「死」は円を閉じる点と点。生まれてもいなければ死んでもいない、その点と点の間が境界である。よって、子供と老人は共にあの世に近いといえる。
 そして、その境界にいるのがランコなのだという。

「それから、私もだ」と武雄が言った。

「武雄は生きている。だから、もう生まれているし、まだ死んでもいない。そこは境界ではない。違いますか?」
「うん。たしかにそうなんだけどね。ああそうだ、蘭子さんは『こぶとりじいさん』の話を知っているかい?」

 ランコは頷いた。
 お伽噺などこの数十年の間に一度も思い出したことはなかったけれど、たった今、記憶の海から釣り上げられた。頬に大きな瘤のある老人が、鬼の宴会に出くわし、瘤を取ってもらうという話だ。

「あの話は『宇治拾遺物語』という古典文学の中の一編がもとになっている。そこにも『右の顔に大なる瘤ある翁ありけり』とある。先ほど話したが、老人というのは死に近い。つまりこの世の端の方に存在しているんだ。それから、瘤。あれはおそらく尋常ではない大きさの瘤だ。異形と言っていいだろう。これがどういうことかわかるかい? 鬼の世界は通常は繋がることのない異界だ。だが、翁であり、さらに異形であったために、人としての境界領域に存在していたことで、異界に踏み込んでしまったんだ」

「なるほど」

 完全に理解はできないが、言いたいことはわかった気がする。

「それにだ、『丹後国風土記』には『浦島太郎』と類似した話がある。それには、浦の嶋子、いわゆる浦島太郎に当たる人物のことだけど、その人のことを『為人ひととなり姿容かたち秀美すぐ風流みやびなることたぐいなし』としている。この上なく美しく優れているということだ。人並外れてな」
「多くの人と異なることが、境界に接しているということですか? それで竜宮城へ行けたと?」
「まさしく」
「では、武雄が私のことを視れるのは……子供でも老人でもないので、なにか他人と異なる点があるのですか?」
「ああ。幼い頃に何度か死の淵に立っているね。どこが悪いというわけでもないのだが、なんというか、虚弱でね。すぐ熱を出すし、腹を下す。おかげでいまだに親の脛かじりさ」
「境界への道筋ができてしまったということでしょうか」
「その通り。蘭子さんは聡明だ」

 そこで武雄はひどく咳込んだ。絶え間なく咳が出続けるため、息を吸う間もない。一瞬の隙をついて吸い上げた息はひゅうと竹笛のような音を立て、そのわずかな空気の流れがさらに咳を激しくさせた。

 ランコはなすすべもなく、畳に蹲る武雄の揺れる背をただ見下ろしていた。

 ようやく呼吸が落ち着いた頃には、武雄はすっかり憔悴していて、這って部屋の隅まで行くと、角の柱に背を預けた。

「横になった方がいいのではないですか? お布団を敷きましょうか?」

 押入れの襖に手を伸ばすと、武雄は首を垂れたまま右手をひらひらと振った。

「いや、いい。このまま寝るよ」
「え。でも」
「こうなってしまうとね、横になる方が苦しいのだ」

 ランコは押入れから掛布団だけ取り出し、武雄の膝にかけた。

「寒いでしょう。私にはよくわかりませんが」
「ああ、ありがとう。そうか、お前たちは寒さを感じないのか。なるほど話してみないとわからないものだな」

 武雄はそう言ったが、ランコを視えることといい、目の前にしても驚きもしないことといい、境界についての知識といい、充分すぎるほどに二つの世界の関係を理解しているように思える。ランコが寒さを感じないことなど些細なことだ。

「蘭子さん、文机の上に書き付けがあるだろう」

 掠れた声で示された紙の束を手に、ランコは武雄の傍らに膝をついた。

「これ?」
「ああ、そうだ。私の考察を記してある。もし興味があるのなら、これをご覧。すまないが、私は眠らせてもらうよ。好きなだけここで読んでいくがいい」

 それだけ言うと、武雄はまるでこと切れたかのように脱力した。先ほどの咳でよほど体力を消耗したらしい。武雄のこけた頬は血の気がなく、死者であるランコよりもずっと死者みたいだった。

 渡された書き付けは、右肩を紐で綴じた紙の束だ。何度も開いたり閉じたりしているようで、紙は毛羽立ち、よれている。
 大きく書かれた表題をランコは指先でなぞり、読み上げた。

「『ヒガン考』……か」

 その『ヒガン考』は、多くの人が思い描いている此岸と彼岸を武雄なりに考察した事柄が記されていた。釈迦の説いた此岸や彼岸と区別する意図で、シガンやヒガンと表記されていた。ふたつの世の関係、死せる者の生態など、サキに教えたことはすべて武雄の受け売りだ。

 武雄は考察と言ったが、ただ観察して辻褄の合う理由をつけているだけであって、『ヒガン考』に書かれていることが正しいとは限らない。研究ではなく創作に近いのかもしれない。ただランコには納得できる内容だった。

 それを改めて読みたい。読んでからかなりの時が経っていて、ランコの記憶は薄れていた。武雄は、サキのような例について書いてあったかどうかも記憶にない。

 武雄がいてくれたら。そう思わずにはいられない。直接、考えを聞きたかった。だが、その願いは叶わない。だからこそ『ヒガン考』を手に入れたかったのに。

 ランコは暗い室内を見渡した。

 完全なる闇ではないが、光は硝子格子戸から差し込むはかない月明りだけだ。そのことは死せる者であるランコの視覚に支障はない。むしろ都合がいい。月光にまで弱いサキほどではないが、ランコやほかの死せる者も光に対する耐性は低い。

 ふと、押入れの天袋が目についた。内装や家具は変わっているが、押入れと天袋は変わらずそこにあった。扉が合板のものに変わっているだけだ。遺族が処分しきれなかったものが天袋に残されているのではないか。そんな気がした。

 まずは押入れを開けた。片側には寝具がしまわれていたが、もう片方は洋服箪笥として使われていた。中段に足をかけ、天袋の引手に触れた、その時。かちりと音がして光が溢れた。

 突然の眩しさに足を滑らせ落下したが、片膝立ちで着地した。

 次の間に少年が立っていた。右手の指が、まだ六畳間の入り口にある照明スイッチに残っている。
 少年は寝巻姿だ。髪は濡れ、頬が上気している。首にはタオルをかけており、どうやら風呂上りのようだ。

 明かりもなく人も不在だったから、てっきり普段は使われていないのかと思い込んでしまった。
 無理もない、と自らに言い訳をする。生活感のない殺風景な部屋だし、第一、生ける者が暮らしている気配すらしなかった。
 それでも実際に寛いだ様子で部屋に入ってくる者があるということは、現在、ここは少年の部屋で、たまたま入浴中でいなかっただけなのだ。

 どうにも腑に落ちない気分で少年の様子を窺う。ランコの外見と同じくらいの年頃だろう。となると、中学生か。

 少年が明かりのついた部屋に足を踏み入れた。と同時に、びくりと肩が跳ね上がった。目が合った気がした。しかし、少年はすぐに首にかけたタオルでごしごしと髪を吹き始めたため、顔が見えなくなった。

 目が合ったように感じたのは気のせいだろう。見ず知らずの者が自室いると気づいたなら、のんびり髪を乾かしてなどいられないはずだ。

 だとしても、長居は無用だ。とはいえ、出ていくには硝子格子戸を開けなければならず、そんなことをすれば、少年の目には戸が勝手に開閉しているように見えてしまう。どうしたものかと悩みかけ、少年にどのように見えようと不都合はないではないかと思い直した。

 だが、その迷っていたわずかな間に、少年が硝子格子戸をカラカラと音を立てて開けた。換気のつもりなのか、しばし冷たい夜風を浴び、戸を開け放したまま部屋の奥へと戻っていく。

 ランコは、折よく開かれた出口から、夜の中へと飛び出した。


次話↓


マガジン