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「死ねない死者は夜に生きる」第14話(全14話)

 颯は鼻をひくつかせた。
 体が臭い。化膿した傷口のような、腐臭とも生臭さともつかない臭いが鼻につく。
 手のひらで首回りを撫で回すと、ポロポロとかさぶたのようなものが剥がれ落ちた。

 首筋の流血は止まっている。痛みもない。指先のすり傷や切り傷でさえ鬱陶しいほどに痛みを主張するのに、噛み切られても支障がないとはどういうことだ。咲に似たなにかに襲われたのは夢か錯覚だったのだろうか。それにしてはあまりにも鮮明な記憶だ。

 室内を見回すと、赤茶色の染みがそこかしこに飛び散り、いくつかの肉片と思しきものまで落ちている。とりあえず夢ではないようだ。

 警察に通報した方がいいのだろうが、あれがもし本当に咲だったらと思うと、犯罪扱いするのは躊躇われる。それに、外と関わるのが億劫でもあった。もっと言うならば、この身のあらゆる動作を放棄したいほど怠惰な気分だ。

 痛みも苦しみもないが、ひどく朦朧とする。壁に背を預けて床に座ったまま、うつらうつらと意識のあわいを漂い続けた。

「こんな中途半端な……」

 呟きが聞こえた。

「一口で済ませるか、変化するまで噛み続けなければならないのに。このままじゃ、きっと……」

 ひとり言が続いている。颯は聞こえていることを伝えるために、眼球に吸い付いたように重い瞼を、なけなしの意思の力で引き上げる。すっかり暗くなった部屋で、颯の面前に少女が屈み込んでいた。

「――あ。意識はあるんだな?」

 颯の目を覗き込んできた。

 この子は誰なのだろう? 玄関は施錠されているのにどうやって入ってきたのだろう? ああ、ベランダの窓が割れたままだったからな……いや、そうだとしても、ここは五階だぞ? ……でも、咲もベランダから入ってきたっけ。

 つらつらと思考が滑る。

「……咲は……どうしてる?」

 もっとも気がかりなことを尋ねた。なんとなく、彼女は咲を知っている気がした。

 少女は泣きそうな顔で笑った。

「そんな状態でもサキのことが気になるのか」

 ほら。やっぱり知り合いだ。

「そんな状態? うん、そうだな、ちょっとだるいけど、これと言ってつらいところはないよ。――それより、あれはやっぱり咲だったんだな。生きていたのか。よかった」

 少女は曖昧に微笑んだ。

「生きているっていうのとは違うが。――ところで、お前、すごい臭いだぞ。その臭いのおかげで見つけることができたんだが」
「ああ。やっぱり臭う? 昨夜は風呂に入らなかったせいかな」
「そういうことじゃないと思うがな。もしかして、わかっていないのか?」
「なにを?」
「言っても……いいのか?」
「聞いてみないとわからないな」

 少女と話している間だけは、意識を繋ぎとめておくことができた。手放せば穏やかな快感に包まれる予感がするけれども、そうすると二度と戻っては来れない気がした。また咲と一緒にいるためにはどこかへ行くわけにはいかない。

 少女は、あたかもそれが礼儀でもあるかのように、わずかな逡巡をみせてから言った。

「――お前、死んでいるぞ」

 逡巡とは裏腹な率直な言いざまに、颯は思わず笑った。

「そうか。俺は死んでいるのか。うん、そんな気はしていたよ。それなら、君は死神ってことかい?」
「違う。いや、違わないのかもな。お前がこうなったのはサキのせいで、サキがそうなったのは私のせいだからな。そうだな、私はお前の死神かもしれない」
「君のせいで咲がどうしたのか知らないが、俺が思うに、君が咲と出会ったのは彼女が海に落ちた後だ。違う?」
「違くない」
「うん、それなら、君たちが出会ったのは僕のせいだ。その論法でいくなら、俺の死神は俺自身ということになる。つまり、自業自得ってことだな」
「……めんどくさいことを考えるんだな」
「そうか。めんどくさいか」

 颯は自嘲の笑みを浮かべた。

 そのめんどくさい考えのせいでこんなことになっている。咲とずっといっしょにいるつもりなら、余計なことは考えずに結婚でもなんでもすればよかった。咲の望むものなら、俺の望むものでもあったかもしれないのに。

 やり場のない思いを拳に込め、腿を叩く。またかさぶたのような、木の皮のような乾いた破片が剥がれ落ちた。埃を払うように腕や胴をはたくと、やはりパラパラと剥がれ落ちるものがある。玉ねぎの皮のような薄いものも混じっている。幼い頃にひどい日焼けをして皮膚が剥がれ落ちていったのに似ている。深い考えもなく、はたいたりこすったりしていると、「やめろ」と少女に言われた。

「あ、ごめん。汚いよな。臭い上に汚くてごめんな」
「いいや。臭いは生ける者にはまだ感じられない程度だと思う」
「生ける者?」
「ああ、そうか。わからないよな。説明した方がいいか? 知りたければ話す。知ったところで、この状況を改善する役に立つとは思えないけどな」
「この状況って、つまり――」
「つまり、お前が二度目の死を控えている状況ってことだ」
「二度目の死? それってどういう――」

 そこまで言いかけたところで、ベランダに立つ黒いローブを羽織った人影に気付いた。

「サキ――!」

 少女が人影を振り仰ぎ、人影は室内へと足を踏み入れた。彼女を追うように、凍てつく夜風に乗って降り始めの小さな雪が吹き込んできた。


「……この前話しかけてた二つ目の話って、それ?」

 サキが問うと、ランコは目を伏せた。およそ彼女らしくない仕草だった。
 答える気配のないランコを素通りして、壁際に座っている颯の側にしゃがみこむ。

「咲……」

「颯……」

 ひどく緩慢な動作で互いの体に腕を回した。
 颯の首筋に顔をうずめると、噛みつき、引きちぎり、咀嚼した肉の感触が思い出され、身体の中心に甘くまろやかな熱が発生した。

「……ごめんね、颯。謝って許されることじゃないけど」
「なに?」
「なにって……颯がこんなふうになっちゃったのは、私のせいなんだよ?」
「ああ、そうか。でも、そんなこと言ったら、咲がそんなことをするようにしてしまったのは、俺のせいなんだよ?」
「それは」

 言葉に詰まったサキは、体を離し、颯の顔を正面からとらえた。乾き、ひび割れた皮膚がめくれ上がっている。労わるように唇でそっと押さえた。

 満月は過ぎたというのに、口に含みたいほどの芳しい匂いを感じてしまう。
 けして食欲を刺激する類の匂いではない。腐臭、なのだと思う。化膿した傷口のような、生ごみのような、朽ちていく臭い。
 それさえも、颯が漂わせているというだけで、サキの中が甘く疼くのだった。

 このままでは、またいつ理性を失って颯に襲いかかるとも知れない。
 サキは我が身を引き剥がす思いで颯に触れている部分を離していく。

「サキ……?」

 颯が不安げな声で呼ぶ。その声までも香りと味を伴ってサキのもとに届けられる。颯のすべてを欲している。狂おしいまでに飢えている。きっとまた、颯のことを食べてしまう……。

 伸ばされた颯の手を見つめ、サキは首を横に振ることしかできない。

 この強い欲求が、食欲なのか恋情なのか自分でもわからなかった。欲することは死せる者の本能によることであり、律することは生ける者の心に寄るものであると思えた。これ以上触れればきっと自分を止められなくなる。確信があった。

「……あのな」

 静けさをかき分けて、ランコの声が届いた。

「サキはまだ狩りの経験が少ないからわからないと思うが、獲物に対する欲求って、お前が思っているのと違うぞ。少なくとも私はそんな欲求に支配されたことはない。欲して吸い寄せられるというより、もっとこう、義務感のような、そうしなければいけない……いいや、そこまでですらない、そうした方がいいというくらいで、抗えないような強い欲求じゃない。だから一口でやめることもできるわけで」

 ランコは一旦言葉を切って、サキを真っ直ぐ見つめてから、力強く言った。

「サキのは、死せる者の本能とは違うものだと思う」

 うん、とサキは頷いた。

 ランコにされたことを許したわけではなかった。許せるわけなどなかった。それでも、今は、目の前にいる颯のことがすべてだった。ほかのことなど、なにもかも些細なことだ。

 結婚だなんて、ずいぶん小さなことで揉めたものだと思う。二人の世界が隔てられることに比べたら、どうでもいいことだった。気付くのが遅すぎた。世界の亀裂はさらに深まっていく。

 ベランダから冷たい風が潮の香りと細雪を乗せて吹き込んで、部屋の中央のローテーブルのところまで白銀の粉を撒いている。

 風が、サキの髪をかすかに揺らしながら颯に辿り着く。そんなささやかな風に触れただけでも、颯の肌は静かに剥がれていった。

「……私のせい? ねえ、ランコ。これって、私のせいなの? 私が一口で済ませていれば……それとも、もっとしっかり噛みついていれば、こんなことにはならなかったの?」

「さあ……どうかな」

 背後から息遣いのような小さな声で返される。

「このケースは私も見るのは初めてだ。たしかに、一口で済ませていれば、傷も記憶も残らなかったはずだし、逆にもっとしっかり噛みついていれば、死せる者になったはずだ。だが、噛みつきが足りなくて死せる者になり損ねるだなんて、私も知らなかった……こんな話、なんの慰めにもならないと思うが」

 サキは返事をしなかった。ただ、颯のことをじっと見つめていた。颯も無言でサキを見つめ続ける。

 しばらくすると、かすかに衣擦れの音がして、ランコの気配が消えた。

「咲……おいで……」

 颯がボロボロの腕を差し出すから、サキは躊躇いながらも側に寄っていった。恐る恐るその手に触れると、乾燥し浮き上がった皮膚や、干し肉のような繊維が剥がれ落ちていく。触れれば進行を早めてしまいそうで、サキが手を離そうとすると、颯の手が指を絡めてきた。意外なほど力強く引き寄せられた。

 生ける者であった頃と変わらぬ強さに、サキはその手を握り返した。颯が微笑むと同時に、握っていた指のひとつがポクッと脆くも折れた。人差し指が床に落ちていた。あいている手で摘まみ上げる。力を入れ過ぎたのか、サクッと崩れて粉々になった指の残骸が手のひらに残った。

 破片と呼ぶにも小さな欠片たち。颯の一部であったものたち。顔に近づけ、じっと見る。生ける者であったころの颯の匂いがした。

 気付けば口元に運んでいた。舌を走らせると、粉はしがみつくようにして張り付いた。上顎にすりつけつつ味わう。優しく甘い。手のひらに残るわずかな粉末も舐めとる。

 その一部始終を颯は見ている。軽く微笑むその頬も、乾いた繊維が剥がれるのを待っている。

「おいしい?」

「うん、おいしい」

「そうか。よかった」

 大きく微笑むから、目元と口元がひび割れて、大きく剥がれる。剥がれるのを見ていることしかできない。

 颯に抱き寄せられて、サキは腕の中に納まる。背を胸に預け、頭を肩に乗せた。乾ききり、硬くなった体なのに、感じるのは温かく弾力のある肉体だった。そんなの、錯覚だと知っている。死せる者となってもなお失われない記憶が愛おしくて苦しかった。

 ――忘却って、私たちに残された貴重な能力だと思うのよね。

 ランコが言った言葉。死せる者ならば忘却が進むはずなのに。あの満月の晩、颯の匂いに呼び覚まされた記憶は失われるどころか、ますます鮮やかに甦ってくる。

「咲、泣いてるの?」

 ごわついた指先がサキの目元をぬぐうように滑った。

「泣いてないわよ」

 死せる者は一切の排泄をしない。

「なら、よかった」

 颯の指先がサキの頬を伝い、口元に差し掛かる。顔を傾け、パクリと咥えた。舌先にざらりとした感触が伝わる。指にグイッと力が籠められ、ぽきりと折れた。そして、口腔内にころんと転がった。颯の一部を吐き出す気にはなれず、そのままじっとしていると、頭の上で声がした。

「おいしい?」

「うん、おいしい」

「おいしいなら、全部食べていいよ」

「……」

 おいしいと答えたのは本心だった。けれども満月の影響が及ばない状態では、抗えないほど欲するというほどでもない。むしろ、颯を傷つけたくないとの思いの方が勝っている。

 答えに窮していると、颯の声が耳をくすぐった。

「俺はね、咲でできているんだ。こんなこと知られたらかっこ悪いと思って言わなかったけど、なにかをするたびに、なにかをしないたびに、咲が知ったらどう思うだろうって考えた。嫌われたくない、咲に好かれる俺でありたい、って、なにをするにもそういう基準で考えてきた。だからね、俺は、咲でできているんだ」

 かっこ悪いだろう? と笑うから、そんなことない、と首を振る。だって、同じだから。同じだったから。

「――食べて。咲でできた俺を食べて。俺がいなくなった後も、咲は俺でできているんだと思ったら、救われる気がするんだ」

 サキは颯の残る指を一本ずつ丁寧に口に含んでいった。生ける者だった颯を食べた時のように咀嚼するまでもなく、指は口の中でほぐれて溶けた。腕も、足も、舐めたり齧ったりして食べていく。優しい甘さだった。熟れた桃を食べているようだった。

 口づけをしようとして、躊躇った。頭部はさすがに抵抗がある。とはいえ、乾いた腐敗は進み、サキが触れていない部分も自然に崩れ始めている。左目はいつの間にか失われていて、眼窩も輪郭がはっきりとしないほどだった。

「颯……」

「なあ、咲。生まれ変わりってあるのかな?」

 颯が明るい声で問う。
 サキは還りし者にはなれない。永遠に死せる者のまま。

「さあ。どうかしら」

「もし、生まれ変わったらさ」

 颯もきっと還りし者にはなれない。還りし者になるのは、生ける者が自然死した場合と、死せる者が満期を迎えた者。颯はそのどちらでもない。生ける者ではなくなった、できそこないの死せる者。

「もし、生まれ変わったら?」

「生まれ変わったら、今度こそ結婚でもして、ずっと一緒にいような」

「――うん。必ず」

 颯はサキと唇を重ねた。サキは受け入れる。舌先で歯列をなぞり、歯を一つずつ飲み込んでいく。舌をずるりと吸い込み、唇を舐めとった。話せるはずのない口から颯の声が聞こえた。

「ありがとう――」

 食べるより朽ちるほうが早かった。
 颯であったモノが塵となって積もっている。掃き寄せた枯葉の山にも見える。サキは掻き集めようとして両手で触れる。だがそれは、感触すらない灰のように、触れたそばから消えていく。

 塵の傍らに小さな箱があった。箱にかけられたリボンに小さなメッセージカードがはさまれている。抜き出して開くと、颯の下手な字が並んでいた。

《咲へ 誕生日おめでとう 颯》

 ぽたり、ぽたぽたと滴が床に落ちる。
 涙――?
 そんなはずはない。死せる者は一切の排泄をしないのだから。

 サキは床にうつ伏し、かすかに残る匂いを深く吸い込んだ。
 口の中にはまだ食感が残っている気がして、罪悪感と恍惚感が入り乱れた。

 雪がやんでいる。空が白み始める。
 朝が近い。
 世界は途切れることなく続いていく。
 いつまで続くのだろう。いつまでも続くのだろう。
 時の概念が存在しない世界での暮らしがどのようなものなのか、思い描くことなどできやしない。残された時間におびえていたシガンでの自分が懐かしくすらある。

 サキはローブを羽織り直し、フードを深くかぶると、窓の外へと飛び出した。


 海辺の町はひと気がない。街灯もまばらな路地は闇の支配下にあった。
 日中はずいぶんと春めいてきたが、まだまだ夜は冷える。要はコンビニで買ったペットボトルのホットティーで暖を取りながら国道を渡った。

 満月だというのに、どうしたことか今夜はまだ死せる者を見かけていない。

 コンクリートの階段を降りて砂浜を歩きだすと、車の走行音は波音にかき消された。
 対岸に点々と灯る街の明かりを眺めながら、波打ち際を辿り、浜辺の端までやってきた。切り立つ崖を見上げれば、古めかしい洋館が建っている。洋館の海側は庭になっているらしく、腰の高さの柵が張り巡らされているが、そこに、黒いミニドレスの少女の姿はない。

「蘭子ー!」

 口元に両手を添えて呼びかけてみるが、姿を現すでもなければ、返事もない。

 要は新年度から中学校に戻ることになった。通い続けられるかはわからない。けれども、もしまた通うのがつらくなったら帰ってくればいいと祖母が言ってくれたから気が楽だ。離れも要のためにあのままにしておくと約束してくれた。

 この町を去る前に蘭子にひと目会えたらと思ったのだが、狩りに出ているのかもしれない。

 対岸の明かりに手を伸ばす。あそこが要の帰る場所だ。

 ふとオゾン臭を感じ、辺りを見回したが生ける者も死せる者もいない。要は砂を力強く踏みしめながら海から遠ざかっていった。

      ♢

 今宵は満月。
 ランコが狩りに出ようと庭に出たところで呼び声が聞こえた。

「蘭子ー!」

 柵の上に立ち崖下を見下ろすと、砂浜に立つ要が見えた。
 ランコは岸壁を蹴りながら駆け下り、要の前に立った。

「やあ、要。狩りの夜に死せる者の前に現れるとはいい度胸だな」

 軽口を叩いてみたが、要はランコと視線を合わせることなく去っていった。

「……ふん。なるほどな。大人になりやがって」

 ランコは対岸の明かりに手を伸ばす。兄の残り香を捕まえた気がした。

「なにしてるの、ランコ?」

 隣に立ったサキがランコを真似て海に向かって手を伸ばした。腕時計の文字盤が月明りを反射してきらりと光る。颯からの誕生日プレゼントだ。

「綺麗な満月ねえ」

 月明りで波頭が白く煌めいている。

「なにしてるんだ、手を出すな。ローブで覆え」

「はいはい」

 サキはおとなしく闇色のローブの下に腕を引っ込めた。

 揃いのローブに身を包んだ死せる者たちは狩場へと走った。いつものコンビニ前には既に多くの死せる者が集まっていた。

「よし、行くか。サキ」
「お先に、ランコ」
「ちっ。調子に乗りやがって」

 二つの影が、獣と見紛う俊敏さで闇夜を走り抜ける。
 あとには、夜の静寂しじまに海鳴りだけがいつまでも響いていた。

(了)


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