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「祈願成就」第6話(全10話)

岩本健二


「だめですよ、岩本さん。そんな手でハンドルは握れないでしょう」

 警官の声に、健二は、はっとして車のドアから手を離した。両手が激しく震えている。左手を右手で掴んで抑えても震えは止まらない。それどころか膝上の筋肉までも痙攣し始めた。顎周りの筋肉も恐怖に支配され、食いしばっていないと上下の歯が音を鳴らしそうだ。

「でもすぐに行かないと」

 健二は再びドアに手を伸ばした。

「岩本さん。とりあえず今は落ち着くことが先決です。新たな事故を起こしては大変ですよ」

 事故と聞いて、衝突の瞬間にハンドルとシートに感じた小さな感覚が蘇ってくる。
 バックした瞬間に息子を撥ねた、あの感覚が。

 いつもは直紀なおきを保育園に預けてから出勤している。が、今朝の直紀はずっとぐずっていて、検温したら微熱があった。食欲はあるし、病院に行くほどではなさそうだが、妻が里帰り中では家に置いていくわけにもいかない。その上、今日は社外打ち合わせの予定が入っていて休みもとれない。
 仕方なく、職場には直行直帰の許可を取り、息子の直紀は実家に預けることにした。

 昼ごろ母に電話をかけると、直紀は昼食もしっかり食べ、熱も下がったようだと言っていた。ひとまず安心したが、すでに直帰することになっていたし、少し早いが実家に向かった。

 こりゃあ半休扱いだなとか、今日中にあの書類を片付けておきたかったななどと考えつつ、実家のカースペースにリアから入れていった。父が亡くなって実家の車は処分したため、カースペースは庭の延長のように扱われていて、隣家との境にはいくつかのプランターが並べられて狭くなっている。そのため何度か切り返し、ようやく納得のいく角度になったところで、前に向き直りゆっくりとバックした。

 その時、フロントガラスを大きな影が横切った。カラスでも通り過ぎたのだろう。バックしているのだから前方の視界が遮られたところでたいして困りはしないのだが、いきなりのことで驚いた。それで「おうっ!」と声を上げた拍子にアクセルを踏み込んでしまった。

 直後、軽い衝撃があった。障害物に直接触れたわけでもないのに、それが弾力のあるものだとハンドルを握る手に伝わってきた。瞬時にブレーキを踏んだせいで車体が弾む。上体がハンドルに当たり、短くクラクションが鳴った。

 しばらくはなにが起きたか理解できず、両手でハンドルを握ったまま、前方を凝視していた。夜中にふと目覚めた時のような淡い痺れが脳を満たす。

 クラクションを聞きつけた母がつんのめるように玄関から出てくるのがミラーに映った。車の後方を見るなり、口元を両手で覆う。そんな母の姿が目に入ると、全身の血液が抜けていく感じがした。

「なおくんっ!」

 悲鳴のように鋭い母の声で、ふいに意識の回路が繋がった。ドアを開けようと焦る気持ちのまま、力まかせに押したり引いたりしていたがびくともしない。ロックを解除してようやく外に転がり出た。

 フロントを回り込むと左後方タイヤの影から小さな足が二本飛び出ていた。見える範囲では傷ひとつなく、戦隊ヒーローの靴も脱げずにあった。

 先に立ち直ったのは母だった。年の功なのか母性のなせる業なのか。いずれにせよ、ただ立ちすくむだけの息子など存在しないかのように振舞った。家の中にスマホを取りに行き、救急に電話をし、簡潔に事態を伝えた。そのまま動かさないようにとでも言われたのか、その時だけは健二の方を向いて「なおくんに触れちゃだめよ」と強い口調で言った。

 今思えば、あの時の母は、息子に対して怒りを覚えていたのかもしれない。頼りがいのある凛々しい表情は、憤怒か憎悪の表れだったのかもしれない。かわいい孫を傷つけた息子を責める表情だったのかもしれない。

 母は救急に電話したはずだが、先に到着したのは警官二名だった。彼らが無線でどこかに連絡を取っている間に救急車のサイレンが近づいてきた。指示されるままにゆっくりと車を道路まで出した。

 姿があらわになった直紀は、顔を歪めるでもなく、出血しているでもなく、服が乱れているわけでもなかった。ただそこで居眠りをしてしまったかのようだった。

 直紀は救急車に乗せられるまで一度も動かなかった。健二が、同乗した母に続こうとすると、肩をつかまれた。警官の手だった。

「申し訳ないけどね、岩本さん。状況を教えてください」
「あの、でも息子が」
「あちらはおばあちゃんに任せて、ね。なにかあれば病院からこっちにも連絡入るようになっているから」

 なにかってなんだよ。なにかあってからじゃ遅いだろ。そう思うが、そばについていたところで健二になにができるわけでもない。それでもそばについていたいと思うのが父親だろうが。

「まずね、免許証を出して」

 言われるままに免許証を差し出し、書類にいろいろと書き込まれるのをぼんやりと眺めた。

「はい、じゃあこれ、一旦返しますね」

 免許証を受け取り、財布にしまっていると、続けて声をかけられた。

「で、息子さんを撥ねちゃったんだって?」

 顔を上げると、警官はこちらを見ずにメモを取っていた。
 そうだ。親なのに、息子を傷つけたんだ。そんな親はそばにいる資格などないのかもしれない。
 健二は直紀に付き添うことを諦めてうな垂れた。警官はそれを首肯と解釈したらしく、

「そうか。もちろんうっかりだよね?」と続けた。

「当り前じゃないですか! 自分の息子ですよ? 撥ねようと思って撥ねるわけないじゃないですか!」

 そんなふうに疑われてはたまらないと、健二は必死に否定したが、走り去る救急車のサイレンにかき消された。

 もう一人の警官は車の周りを念入りに撮影したりメモを取ったりしている。

 健二は聞かれるままに、今朝のことから母が救急車を呼ぶまでの出来事を話した。話しているうちに、たしかに自分の過失ではあるものの、釈然としない思いが強まってきた。
 健二は車をバックで入れるために、一旦カースペースを通り過ぎている。その時になにも障害物がないことを確認したはずだ。いや、特にそうと意識したわけではないが、なにかが視界に入ればわかるに決まっている。道に面している玄関から直紀が出てきて、車より先にカースペースに入り込む隙があったとは考えにくい。その動線のどこかで健二の視界に入るはずだ。

「そっちどう?」

 健二を質問攻めにしていた警官が、車の奥へ声を投げた。ひょこっと頭が持ち上がると、こちらへやってきた。

「いやあ、特に血痕もへこみもないですね。撥ねたといっても軽く当たっただけかもしれません」
「軽かろうが重かろうが当たった子供にしてみれば相当な威力だ」
「はあ……」

 どうやら健二を擁護してくれたらしい警官は、あっさり言い負かされて申し訳なさそうに眉尻を下げた。

「しかしまあ、過失による事故であることには間違いなさそうだな。――岩本さん、今日はもういいですよ。病院に行ってあげてください」

 そうして車に乗ろうとして遮られたわけだ。

 自分で運転できないからといってパトカーに乗せてもらえるわけでもなく、健二はバス停まで出た。バスかタクシーか早く来た方に乗るつもりだ。

 バス停で待ってまだ五分と経たないうちに電話がかかってきた。病院にいる母からだった。

「今からそっちに向かうとこなんだ」

『健二は来なくていいわよ。私ももう帰るから』

「え? なんで。行くよ」

『来ても直紀は眠っているから。一度ね、処置室に入った途端に目を覚ましたのよ。脳震盪だろうって。一応CTは撮ったけど、大きな異常は見当たらないそうよ。明日あらためてMRIとかほかの検査もするからとりあえず入院ってことになったわよ』

「そうか。とりあえず無事ならよかった……。せめて顔だけでも見に行くよ」

『来なくていいってば』

「なんでだよ。俺の子だぞ。父親が息子の様子を見に行くは当然だろう」

 大事に至っていないと聞いても、やはり顔を見て安心したい。スマホを耳にあてたまま、車道に身を乗り出してバスかタクシーがやってこないか目を凝らす。

 電話越しに、母のため息が聞こえた。

『……会いたくないって言ったのよ』

「え? どういう……」

『処置室で意識が戻って、なにがあったか思い出したんだろうね、あの子、急に泣き出して。怖い、パパが怖いって。健二が運転する車に撥ねられたからかしらね。先生も今はあまり興奮させない方がいいっていうし』

 言葉が出なかった。
 だが、ショックを受けたためではなかった。とてつもない悲しみと後悔が押し寄せてはきたが、やっぱりな、という思いの方が強かった。

 健二は、深呼吸をひとつしてから声を発した。

「……それ、本当に直紀が言ったの?」

『……』

 今度は母が口をつぐんだ。しばらく待ってみたものの、話し出す気配がないので言葉を続ける。

「俺のことを怖がっているのは母さんでしょ? 自分の子供を殺しかけた俺のことが怖い? 正確にはそれだけじゃないよね? 母さんは子供のころから俺を怖がっていた。違う?」

 今までこんなふうに問い詰めたことはなかった。けれども今日はあんなことがあったせいで健二の中の留め具が緩んでいるらしく、十代のころから慎重に閉じ込めてきた感情が封印をこじ開けて出てこようとしている。

 母の恐怖心を健二が気づいていないとでも思っていたのだろう。無言の受話口から緊張が伝わってきて――やがて切れた。肯定と受け止める。

 ディスプレイに表示される通話終了の文字を見ていたら、病院へ急ぐ気持ちは失せていた。直紀のことは心配だが、同時に、もしこのまま直紀が死んだら母はどんなに打ちひしがれるだろうと想像するのは気持ちが昂った。誰かに絶望を与えられるのなら、自分にどんな苦痛が襲い掛かろうと構わない。こんな気持ちになったのは久しぶりだ。

 直紀のことは里帰り中の妻にも知らせるべきなのはわかっているが、ひどくためらわれる。留守中の失態に対する申し訳なさではない。むしろ連絡を受けた妻の動揺や心痛を思い浮かべると、喜びに鳥肌が立つほどだ。だが、その情報を後日知らされたならどうだろう。妻に対し、より一層の打撃を与えられるのではないか。
 より大きな快楽のために、知らせたい思いを今はぐっと抑える。

 健二はスマホをポケットにしまい込んだ。

 もちろん、直紀を故意に傷つけたわけではない。あれは間違いなく事故だ。もう長いことこの感情を封印してきたし、封印すら意識することもなくなっていた。俺は変わったのだ。そう思っていた。隠し続けていた俺の芯は、いつしか消えてなくなったのだ。そう思っていた。

 だが、この昂る気持ちをどうしようか。

 幼いころはこの感情に抗えず、欲望のままに虫の足を引き千切り、羽をむしり取った。その行動を疑問視する大人もいなかった気がする。快く思っていない人はいたに違いないが、少なくとも強く叱責されるようなことはなかった。母もそうだった。わんぱくな子供だと思われていたのだろう。成長と共に減っていく行為だと。

 成長と共に、露わにしてはならない行為だと気づいた。だから減らした。周囲が思うような自然に興味を失っていく変化ではなく、自制によるものだった。
 欲望を抑えつけたせいなのか、心身の成長と共に増幅していくものなのか、行為の減少と反比例して健二の中の熱は膨れ続けた。

 その持て余した欲求を満たしてくれるのが郁美だった。健二が自らの手でできないことを代行してくれる気がした。
 郁美の方には健二のためなどという思いは微塵もなかっただろう。健二の胸の内など知る由もないし、郁美は自分のやるべきことをやっていたにすぎないのだから。

 健二が周囲の目を気にしてやめた行為を、郁美はやすやすと行っていた。呪具作成と称して生き物を殺めていたのだ。

「なにかを願うなら対価が必要なの。ただでもらおうなんて都合がよすぎると思わない? そんな願い方をするから叶わないのよ。叶えたいなら相応の対価を支払わなくちゃ」

 同級生の依頼で呪具を用意する郁美に対して、実希子と絵里はあからさまな嫌悪の表情を見せた。その二人に対し言った言葉がこれだった。

 その理屈でいうなら、呪具は本人が用意すべきだと思うのだが、願いが些末であれば対価はそれほど厳密ではないのだという。些末な願いとはつまり、好きな男子が教科書を忘れるようにとか、その程度のもの。なぜそんなことを願うのかといえば、理由もまた些末なもので、一緒の教科書を覗き込んで授業を受けたいだとか、感謝されたいだとかなのだそうだ。

 その些末な願いだか呪いだかの対価が、バッタの死骸やトカゲの干物であるのは、妥当なのかどうか健二にはわからない。だが、生物の命を奪う工程を間近で見て自分を投影することで、どうにか内なる昂りをおさめることができた。

 破壊。

 それは健二にとって愛情の形だった。

 かわいいと感じるものほど壊してしまいたくてたまらなかった。特に人間を含む動物の子供などは強く握りしめて捻り潰したい衝動にかられた。いつか存分に俺なりの愛情を示してみたい。そんな機会が訪れることなどないとわかっていても、優しく撫でる、そっと抱き締める、といった、ほかの子たちにとっての愛でる行為は、健二にはもどかしくてならなかった。

 ともするとたちまち顕在化してしまいそうな欲望を抑え込むためには、生半可な態度では制御できそうもなかった。だから、ステレオタイプの明朗快活な人物になり切ったのだ。闇など寄せ付けないほどの光をまとった人物に。

 意外にもその言動は健二の気分を楽にさせた。取り繕っていたはずの人格は、いつしか健二そのものになっていた。

 そうだ。ここまで作り上げてきた〈岩本健二〉を崩すわけにはいかない。周囲へのアピールであり、自分自身への暗示でもある。

 やはり病院へ行こう。自分の過失を猛省し、息子を案じる、そんな父親でいよう。
 健二は近づいてくるタクシーに向かって右手を高く上げた。

 タクシーは健二の前を通り過ぎた。表示板は〈迎車〉になっていた。
 少し考えればわかることだった。ひと気のない住宅街を流すタクシーなどあるわけがない。健二はため息とともに右手を下ろした。

 バスの本数もずいぶんと少ないことだし、高台の下の道まで出た方が早いかもしれない。あの道ならバスの本数も多いし、岩倉台駅へ向かうタクシーも多いはずだ。ただ下の道まで歩くのが億劫だ。雑木林の横の階段を使えば近道ができるが、あの場所には近づきたくない。

 未練がましく、通り過ぎたタクシーの後ろ姿を目で追う。すると、タクシーを呼んだ本人が乗り込むところだった。その人物の手に白杖が見えた途端、健二はタクシーに向かって走り出した。

 閉まりかけのドアに手を伸ばして止める。

「下の道まで、乗せてくれないか?」
「お客さん、困りますよ。ほかのタクシーを拾ってください」

 ドライバーの口調から、不審人物と思われているのがわかった。いや、むしろ危険人物か。たしかに赤の他人がこんなふうに同乗を迫ってきたら警戒するに決まっている。
 健二は息を整えつつ、長い年月で身につけた朗らかな笑みを浮かべた。

「違うんです、やだなあ、誤解されちゃったかなあ。彼とは知り合いなんですよ――なあ、圭吾」

 圭吾がこちらに向き直り、眉根を寄せた。引き結んだ口の奥から「誰?」と不機嫌な声が聞こえてきそうだ。圭吾が拒絶の言葉を発する前に畳みかける。

「圭吾、俺だよ、健二だよ」
「……健二、くん?」
「そう。岩本健二。ほら、この前も会ったよな?」

 ドライバーが体をひねって後部座席とドアの外のやり取りを真剣な眼差しで見ている。

「なんだ、健二くんか。……運転手さん、大丈夫です。この人は知り合いです」
「そうですか。それならいいんですが」
「でさ、圭吾、悪いんだけど、下の道まで一緒に乗ってもいいかな? さっきからバスもタクシーも通らなくて」
「ああ、タクシーは呼ばないと無理ですよ。どうぞ、乗ってください」

 そう言って、圭吾は奥へ移動した。

 健二の乗り込んだタクシーは、雑木林に沿った大きな弧を描きながら下っていく。

「ありがとう。助かったよ」
「いえ。僕はなにも。それより、本当に下の道まででいいんですか?」
「ああ。そこまで行けばバスもタクシーもいっぱいあるだろうし」
「ちなみに、どちらへ?」

 一瞬言葉に詰まるが、ことさらに些細な用事であるような軽い口調を心がけ、わずかばかり声を高くした。

「ちょっと病院へね」
「病院ってもしかして岩倉台総合病院?」

 圭吾は、健二が目指す病院名を口にした。

「うん。まあ、そうだけど」
「ならちょうどよかった。僕もこれから行くところなんです。眼科の定期健診で」
「あ。そうなの?」
「ええ。じゃあ病院まで乗っていってください」
「いやあ、悪いね。助かるよ」

 それから健二は、いつ圭吾から病院へ行く目的を尋ねられるのかと構えていたが、ぽつぽつと街並みの今昔について語り合っているうちに目的地に到着した。

「では、僕はここで」
「ありがとう。運賃、いくらだった? 半分出すよ」
「いや、いいですよ。どのみち一人で乗るはずのタクシーだったんですから」
「そうか。悪いな」
「それでは絵里ちゃんによろしくお伝えください」

 圭吾はそう言い残し、再診受付機の並ぶロビーへと向かっていった。

 絵里……?

 健二は圭吾の去り際の言葉の意味を考えた。
 圭吾と共通の知人で絵里といったら進藤絵里しかいない。絵里がどうしたっていうんだ? 郁美の通夜でも見かけなかったし、今ごろなぜあいつの話になるのかさっぱりわからない。「絵里ちゃんによろしくお伝えください」あいつはそう言った。健二が絵里と会うことが決まっているみたいに。

 新たなタクシーがやってきて、見舞いの花束を持った見知らぬ女性が降りた。その場に佇んだままだった健二は慌てて道を譲る。院内へ入っていく女性の後ろ姿を見るともなしに見送っていると、ふいに鼻詰まりが解消したみたいに頭の通りがよくなった。

「……あ。そうか」

 声が漏れる。
 圭吾が俺の目的を聞かなかったのは気遣いや遠慮ではなく、絵里に関するなにかのために病院を目指していると思っていたのか。
 絵里はここに入院している。だから通夜にも来なかった。それを知った俺が見舞いに来た。そういうことか? そういえば、少し前に徹から絵里がどうとか連絡があった気がする。保育園の迎えの時間が迫っていて、いい加減な受け答えをしたが、それが入院の話だったのかもしれない。

 郁美の死からこの方、どうも小学生時代に繋がり過ぎていやしないか。それとも、郁美のことがあったから、小学生時代を思い出しているだけなのか。おそらく後者なのだろう。そうは思っても、過去は影のように貼り付いて、どこまでもついてくる気がしてならなかった。

「やってみる?」

 郁美は組み合わせた両手を健二の前に差し出した。呪具にするために捕まえたトカゲを手のひらに閉じ込めたばかりだった。

「え?」

 言われた健二だけでなく、マンガを読んだりおしゃべりをしたりしていたほかの三人も声を上げた。郁美はみんなの反応の大きさが予想外だったらしく、照れたように肩をすくめた。

「しっぽを切るだけ。殺すわけじゃないよ」

 郁美としては、殺すわけじゃないならと、ためらいを払拭するための言葉だったのだろうが、健二には警告に聞こえた。あんたは殺したいんだろうけど、そこまではしないで、と。

「しっぽを切るのだって、充分怖いよ」

 実希子が心底恐ろしそうに顔を歪めて言った。

「そんなことないよ。結構簡単に切れるよ」

 郁美が差し出した手を見た実希子は、高い声で叫んで絵里に抱きついた。

「絵里ちゃんは? 徹くんは?」

 律儀にも郁美は全員の意思を確認している。みんなが首を横に振ると、そう、と傷ついたように目を伏せた。それを気の毒に思ったわけでもないが、とつめて軽い調子で言ってみた。

「俺、やってみようかな」

 実希子と絵里は、信じられないというように、さらにしかと抱き合い、徹は「すげーな」と感嘆の声を上げた。
 郁美は珍しく大きな笑みを浮かべると、慎重にトカゲを健二の手へと移した。トカゲを受け取った健二は、人差し指と親指で頭を押さえ、手のひらで胴を包み込む。小指側から飛び出た尾が激しく動いている。

「あまり根元で切らないであげて。死んじゃうこともあるし、新しいしっぽが生えても次は前回より根元じゃないと切れないから」
「うん。わかった」

 健二は失敗した振りをして、極力体の近くを摘まんだままトカゲを地面に下ろした。トカゲは必死にもがき、尾を残して走り去った。残された尾は健二の指に摘ままれたまましばらく動いていたが、やがてゆっくりと動きを止めた。

 実希子と絵里は秘密基地にしている開けた空間を離れ、トカゲのことを意識から追い出そうとしてなのか、雑木林の中でなにかを摘んでいた。徹は郁美と並んで健二のやることを見ていたが、トカゲの尾が郁美の手に渡ってもまだ視線を外さなかった。
 そして、やけに真剣な面持ちで郁美に問いかけた。

「やっぱこういうのって、願いごとをする本人がやった方が効果あったりするわけ?」
「うん。そりゃそうだよ。それだけ念がこもるからね」
「じゃあ本当に叶えたい願いがあるときは自分でやってみようかな」
「いいね。教えてあげるよ。って言っても、私もドワーフから教わっているんだけどね」

 離れた場所から「きゃあ」と笑い声が聞こえて、目を向けると、実希子と絵里がじゃれ合っていた。視線を戻した時には、郁美はトカゲの尾を紙に包んでいて、徹はマンガを開いていた。トカゲの尾が力尽きていく様を何度も思い返しているのは、たぶん健二だけだった。


「祈願成就」全10話
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第10話 

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