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「死ねない死者は夜に生きる」第1話(全14話)

【あらすじ】
《生ける屍の孤独と純愛の物語》
「生ける者」が棲むシガン。「死せる者」が棲むヒガン。二つの世界は重なって存在する。そのシガンとヒガンに別れ棲む一組の恋人と、幾星霜も孤独に死んでいる少女の物語。
アンデッドたちの視点で描く現代日本が舞台のダークファンタジー。


 今夜は雲が多い。薄雲に覆われた満月が朧げに灯る。その淡い月光は、浜辺をそぞろ歩きする人影を見下ろしている。
 防風林の向こうの国道は、夜更けでも交通量が多い。だが、連なり疾走する人工物の騒音は、絶え間なく打ち寄せる自然物の轟音に飲み込まれ、夜と海が世界を覆い尽くしているのだった。

 遠く湾の対岸の明かりが、薄雲に覆われた星々の代わりのように瞬いている。
 人影の歩みが止まり、夜空に低く並ぶ星に目が向けられた。
 すいと伸びた手が宙に浮かぶなにかを捕まえるかのように握られる。しかし、開いた手にあるのは磯の香りだけだった。たとえ近く見えようとも、手に取ることは叶わない。小さな明かりへ続く道を隔てるのは、粗暴な波音が満ちる黒暗々たる世界。

 風が鳴る。雲が流れ、月があらわになり、波頭が白く光る。
 間を置かずして、単調だった波音に乱れが生じた。
 人影は、音につられて岩場に顔を向けた。
 砂浜の一端は磯になっており、その岩場の先で波を乱す水音が聞こえたのだった。波音に紛れるかすかな音ではあったが、空耳ではない。
 岩の影になって月の光が届かない場所があった。遠目にも、その黒い波間から光る杭のようなものが突き出しているのが見える。光るように見えるのは、薄月の明かりに照らされているだけで、それ自体が発光しているのではないのかもしれない。

 光るものの正体を近くで見極めるべく、人影はゆらりと磯へ向かって歩み始める。
 杭は波が打ち寄せるたびに揺れ、浮沈を繰り返し、やがて消えた。とぷんと音が聞こえそうな沈み方だった。

 人影は疾風のように夜を走り、光る杭を追って波間に身を沈めた。
 寸刻の後、闇色の人影が浮上した。人の形をしたものを抱えている。光る杭と見えたものは人の腕だったようだ。
 闇色の人物の腕の中で、おもてと腕が月光に白く浮かぶ。ガクリと折れた首筋は一段と映えている。その白い首筋に、黒い人影が覆い被さる。

 風が吹く。流れてきた厚い雲が月にかかると、夜の海は再び闇に飲み込まれる。二つの人影も闇に紛れ、後には荒ぶる波音だけが残された。


「もういいっ! ばかっ!」

 玄関のドアが開かれると、ひんやりとした夜風に乗ってコオロギの声が吹き込んできた。

「迎えになんか行かないからな!」

 部屋を飛び出していくさきの背に向けて、そうは鋭く叫んだ。投げつけた言葉は、閉じたばかりのドアに当って砕けた。颯の声が咲の耳に届いたかどうかはわからない。届いていようがいまいが、追いかける気など微塵もなかった。
 静まり返ったマンションにパタパタと軽い足音が響いている。昼間なら聞こえるはずがないくらい小さな音だ。廊下を走り、エレベーターではなく階段を使ったのだろう、音は止まることなく徐々に小さくなって消えた。

 初めての喧嘩だった。これまで一度も言い合いにさえなったことがないことを友人たちはきっと信じていない。実際に「それだけ一緒にいて一度もってことはないだろ」と笑われたこともある。だが、本当なのだからしかたがない。
 咲とは、学生時代にバイトで知り合った。付き合うようになったのは、社会人になってからだが、それでもかれこれ十年近くになる。どれほど馴染んでも不思議と飽きることはなく、今でもふとした表情をかわいいと思うし、手をつないで歩くだけでワクワクする。だから、今の関係を変える必要を感じたことはない。
 これだけ長く一緒にいれば、今までに結婚の二文字が一度も頭をよぎらなかったわけではない。ただ、頭に浮かんでも、それが二人にとってなにかを与えるものには思えなかった。

 今日、どうしてそんな話になったのか、颯には思い出せなかった。話の流れは自然だったから、いつものように、颯の部屋で夕食をとったあと、まったりとした空気の中で甘い言葉をささやき合っていた延長だったのだろう。経過は思い出せないが、問題の会話ははっきり覚えている。

「結婚は約束なのよ」と咲は言ったのだ。
「法的には契約なんだろうけど、気分的には堅い約束って感じがするの。ずっと一緒って言葉だけじゃ不安になる時もあるもの」

 颯が返事の代わりに曖昧な笑みを浮かべると、咲は不服そうに口を尖らせてから身を乗り出した。

「じゃあさ、こういうのはどう? ほら、赤い糸ってあるでしょう? その糸がね、蝶々結びになっているとするじゃない。それををこぶ結びにするようなものかしら。もちろん、ほどいたって、切ったっていいのよ。でも、軽く引っ張るだけでほどけちゃうような蝶々結びよりは、こぶ結びの方がほどくつもりはないって意思表示になると思わない?」
「言いたいことはわかるよ。だけど、俺はとっくにこぶ結びになっていると思っているんだけど。咲はそう思ってないってことだよね?」

 寂しい気分になったのを訴えたつもりだったのだが、咲はそうは取らなかったらしい。

「颯はどうしても私と結婚したくないのね」
「いや、そういうわけじゃ……」
「じゃあ結婚するの?」
「いやいや、そういうわけじゃないっていうのは、つまり、咲と結婚したくないって意味じゃなくて、結婚そのものが――」

 颯が話している途中だというのに、咲は立ち上がった。そして、部屋を出て行ったのだった。

 追いかけないのは怒りなどではなかった。単に、追いかけたところで意味はないと思っただけだ。颯自身はこの話はもう終わらせていいのではないかと思ったし、咲がまだ話し足りないのなら冷静な状態で話してほしかった。今、咲を追いかけたところで、彼女の昂った感情を宥めるすべなど思いつかないし、ならば気持ちを落ち着けて自ら戻ってくるのを待てばいい。

 部屋の隅にあったバッグがなくなっていた。なんだ、意外に冷静じゃないか。きっとコンビニにでも寄って、すぐに戻ってくるだろう。――そう思ったのだった。

 だが、咲は戻ってこなかった。
 一夜明けての週末、数時間後に咲と観るはずだった映画のチケットが無駄になったことを少しだけ腹立たしく思った。
 咲は、昨夜の喧嘩に気まずくなって、そのまま自宅へ帰ったのだろう。初めて知る咲の意地っ張りなところが妙に心をくすぐる。

 ただ、なんの連絡もないことに一抹の不安を覚えた。が、すぐに連絡がないのは何事もなかったということではないかと思い直す。
 自分から連絡するのが気恥ずかしいのだろうか。気まずいのだろうか。俺はそんなこと気にしないのに。同い年のくせに子供っぽいやつめ、と微笑ましく思った瞬間、なぜ昨夜急にあんなことを言い出したのか、その理由に思い当たった。
 昨日は咲の誕生日だった。すっかり忘れていた。いや、覚えていたとしても特別なことはなにもしなかったけれど。

 颯は咲に対して、これまで一度も祝いらしい祝いをしてあげたことがない。それはべつに颯が不精だということではなく、咲が望まなかったからだ。祝えば喜ぶのだろう。だが、祝わなかったからといって咲が不機嫌になることもなかった。我慢しているのではなく、本当にどうでもいいと思っているようだった。咲はそんなおおらかさを持っている。
 二人は常に対等な立場ではあったけれど、咲が大きく広げた翼に包まれるような感覚は、いつだって颯を穏やかな気持ちにさせ、世界中が味方であるかのように感じさせてくれるのだった。

 そんな咲だから、誕生日を祝わなかったことで機嫌を損ねたわけではないだろう。
 三十五歳の誕生日だった。たぶんその数字こそが咲を急き立てたのだと思う。
 先月、一足先に誕生日を迎えた颯に対し、咲は「四捨五入して四十歳だね!」と茶化した。人に対しては冗談で済んだ言葉も、自らに降りかかると重みを増したのではないだろうか。男と女でも年齢に対する意識は違うだろう。それで急に将来を身近に感じて、結婚だなんて言い出したに違いない。
 一度思いつくと、それは間違いないことに思えた。

 そして考える。咲は、二人の関係をそんなに儚く危ういものだと感じているのかと。胸の奥が、目の粗いやすりでこすられたように痛んだ。
 むろん、先のことなど誰にもわからない。だが、颯は咲のいない未来を想像することなどできない。だからこそ、結婚などという形式ばったものなどなんの意味もなさないと思うのだ。

 とはいえ、咲と暮らすのも悪くない、と颯はにんまりした。結婚はさておき、一緒に暮らそうと言ってみたらどうだろう。咲は嬉しそうに抱き着いてくるかもしれない。それとも驚いて黙りこくってしまうだろうか。咲は実家暮らしだが、三十五にもなれば、家を出ようという娘を引き留める親もないだろう。

 颯は自分の思いつきに、居ても立ってもいられなくなった。咲の笑顔はいつだって颯の心を温かなもので満たしてくれる。
 子供みたいに意地を張って連絡を寄越さない咲に、こっちから連絡してやろう。そして言うんだ。一緒に暮らそうって。ずっと一緒にいようって。
 颯はスマートフォンに手を伸ばした。


「もういい! ばかっ!」

 そう捨て台詞を吐き、颯の部屋を飛び出した。
 このまま帰ってやる!
 そう思って颯の部屋を飛び出したのに、咲は国道の明かりが見える頃にはもう後悔していた。道端の草むらからコオロギの鳴き声が立ち上り、ここのところ急に冷えはじめた風は秋の匂いを運ぶ。

 季節の匂いや天気の匂いは誰でも感じるわけではないと知ったのはいつだっただろうか。まだ日が射していても雨の匂いがして、何の気なしにそのことを呟くと、友人たちは笑った。季節の変わり目に風の匂いが変わるのも共感は得られなかった。その時期の花の香りじゃないのと軽くいなされて、そうではないと言えずに曖昧な笑みを返した。
 たいしたことではない。共有できない感覚を残念に思ったこともない。なるほどそういうものなのかと納得もしていた。

 だけど、颯は感じる人だった。水の匂いがすると言ったすぐ後に雨が降り出した。夜の匂い、週末の匂い、静電気の匂い、虹の匂い、夕日の匂い。あらゆるものの匂いを同じように感じた。それらの匂いをわかるという人は他にもいたけれど、どこかピント外れだった。
 どうでもいいことだ。そんなこと共有する必要もないし、求めてもいない。
 それなのに、颯とならわかり合えるとわかった時、突然ひらめきのように咲の心が叫んだ。
 ここにいたんだ! と。
 まるでずっと探していた人のように。やっと出会えた人のように。
 季節や天気の匂いなんてどうでもいい。そんなどうでもいいことまで共感できる人が存在していることに、そして、出会えたことに、咲は指先まで痺れたのだった。

 国道沿いのコンビニの煌々とした眩しさに物思いから解き放たれる。意識が現実に帰ってきた途端、音が溢れた。国道を走る車の音、コンビニ脇の雑木林の葉擦れの音、ここまで届くはずのない波音まで聞こえる気がした。深く息を吸い込むと、夜の匂いがした。草木の湿った匂いや昼間より深い潮の香り。颯ならきっと夜の匂いだって共感してくれる。

 飲み物でも買って、颯の部屋に戻ろうか。
 店内を見ると、スーツ姿の男性がドリンク売り場で悩んでいるようだった。アルコール飲料にするかソフトドリンクにするか迷っているらしい。あの様子ではまだ時間がかかりそうだし、なんだか入りにくいなあと思っていると、国道から赤い軽自動車が左折してきて、雑木林のそばの駐車スペースに停車した。女性二人組が談笑しながら店に入っていく。ドア開閉時の音楽と店員の「いらっしゃいませー」の声を聞きながら、咲はコンビニに背を向けた。
 買い物をする前にもう少しだけ頭を冷やしておこう。
 咲は道路を渡って、海に近づいていく。

 結婚だなんて、颯にとっては突然の話に思えただろう。
 咲は元来それほど結婚願望なるものが強い方ではない。その契約の意味するものがどうにも理解できない。それなのに願ったのは、やはり心の拠り所がほしかったのだ。目に見える糸の結び目がほしかったのだ。今日が三十五歳の誕生日だからかもしれない。

 歳を重ねることに、それほど抵抗はない。若さを失うことを嘆いたりはしないが、生命の終わりが近づくのを感じて少しばかりの恐怖を感じる。三十を越えるまではそれさえ気にならなかった。けれども年々時の流れを早く感じるにしたがって、未来は意外と短いのではないかと思うようになった。老いや死に対する恐怖ではない。もちろんそれも皆無ではないが、主たる感情は、悲しみだった。やっと巡り会えた人と過ごす時間に限りがあることへの悲しみ。永遠がないことへの痛み。大切な誰かの存在は安寧と等しく憂慮も増殖させる。

 印があれば、少しは静穏な心でいられる気がしたのだ。
 それが逆に穏やかな空気を乱すことになるなんて。当然ながら、強要するつもりなどなかった。それなのにどうしてあれほどに食い下がってしまったのだろう。同じ匂いを感じるなどというささやかな感覚の共有までできるのに、大きな感覚ほど隔たりがあったことに気落ちしたのかもしれなかった。

 つい勢いで飛び出してきてしまった今、最大の気がかりは、凡庸なつまらない女と呆れられたのではないかということだ。考えるだに恐ろしい。颯に嫌われるのだけは耐えられない。

 またしても物思いにふけっていたら、知らず知らずに磯の岩場を歩いていた。月には薄雲がかかり、闇の濃い夜だ。車道を照らす街灯や流れる車のヘッドライトの明かりが、防風林越しに漏れてくる。そのおかげで磯は完全な闇ではないものの、音ばかりで見ることの叶わない波が、今にも咲を飲み込むのではないかという錯覚に陥る。

 夜の海はどこか粗暴な感じがする。闇に取り込まれそうな。波音は深く大きく響き、潮の香りも強い。日が沈むと湿度や気温などによって起こる変化なのか、日中と比べると視覚が制限されるからそう感じるだけなのか、咲には判断がつかない。
 夜の波音は海の咆哮のようだ。飲み込まれそうな恐ろしさがある。恐怖なのか寒さなのか、肌の表面が縮み上がる。咲は自らを抱き締めるようにして腕をさすった。

 戻ろう。颯のもとへ。

 不安定な足元を照らすためにスマートフォンをバッグから取り出した。
 風が吹く。髪が頬にかかり、反射的に掻き上げた。その拍子にスマートフォンが手から滑り落ちる。
 ひやりと冷たいものが胸の奥を掬ったが、幸い海には落下せず、岩の上で拾われるのを待っていた。安堵して腰をかがめる。

 指先がスマートフォンに触れようかという時、また風が吹いた。うつむいた顔に髪がまとわりつく。髪は頬を叩き、唇に挟まり、目元を覆った。刹那、視界を奪われ、咲の体は均衡を崩す。体勢を立て直そうとした拍子に右足首を捻り、痛みに耐えきれず再び体が傾く。
 次の瞬間には粗い岩肌に体が打ち付けられた。うっと短く呻いたあとは、歯を食いしばって息をとめた。そうでもしないと痛みに耐えられなかった。いくつもの硬く鋭い凹凸が強く当たり、全身の痛みに感情が支配されていた。
 痛みは治まらないが、多少なりとも慣れてきて、ようやく自分の状態について考えを巡らせることができた。派手に転倒したが医者にかかるほどではなさそうだ。とはいえ、お転婆な幼い子でもあるまいし、三十五の大人の女性としては怪我の痛みより羞恥心の方が勝る。人目の多い昼間でなくてよかった、などと考える。さらには、明日の映画には行けないな、いや、なんとか傷を隠せばいいか、いやいや、見た目を誤魔化せても痛みはあるしな、などと考えつつ体を起こす。

 とりあえず、颯に迎えに来てもらおう。痛みのせいでほかのことの重要度が下がっているのが、我ながら少しおかしかった。感情的になったことを謝って、この状況を説明すれば、颯は心配して飛んできてくれるに違いない。私がちょっと靴擦れができた程度でもひどく心配してくれるのだから。

 あれは初めてのデートだった。美術館の展示を見終わって、ミュージアムショップに寄った時のことだ。おろしたての靴だったせいで踵が靴擦れをしてしまったのは気づいていたが、言い出せずに痛みをこらえていたのだった。けれど颯に気付かれてしまった。私の靴の縁から血がにじんでいたらしい。

「咲、血が出てるよ!」
「ああ、靴擦れしちゃって」
「もう、なんで早く言わないの! 痛い? 痛いよね? 救護室とかあるのかな?」
「そんな大袈裟な。あとで絆創膏を貼るよ」
「いや、でも痛そうだよ。あ、そうだ、どこかベンチのあるところまでおんぶしようか」

 店員やほかの客にもくすくす笑われ、靴擦れの痛みよりもそちらの恥ずかしさから慌てて店を出たっけ。

 咲は、いたた、と呟きながら、岩の上に投げ出されたスマートフォンに手を伸ばした。が、取り損ね、指先に弾かれたスマートフォンは海に向かって滑っていく。
 間に合うはずはないのに、とっさに体が動いていた。伸ばした右手は空を掴み、傷ついた体の痛みもあって両膝と左手は全身を支えられなかった。

 頭から海に落ちる。落ちる瞬間、まずいと焦ると同時に、頭部って本当に重いんだなとどうでもいいことが浮かんだりもした。けれどもすぐに水の冷たさに感覚のすべてが集中した。次に感じたのは、傷口にひどくしみる海水の塩分だった。同時に様々な刺激にさらされ、咲の頭の中は痛みの恐怖で満たされた。

 だが、息が苦しくなり始めると、ほかのことはどうでもよくなった。
 揺れる水に方向感覚が失われた。上も下もわからないまま、無我夢中で手足を動かす。
 苦しい。水中に空気などあるわけもないのに、息継ぎを求めて口を開いた。

 かつて一度も感じたことのない恐怖を吸い込み、咲の心を満たす。それは、もう二度と颯に会えないという恐怖だった。

 咲は黒い海に沈む。そして、闇に吸い込まれていった。




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