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「死ねない死者は夜に生きる」第2話(全14話)

 雑木林を抜けると、途端に視界が開けた。すかさず身を伏せる。膝を折っただけで十三歳の少女の小さな体は完全に茂みに覆われた。フリルの多いワンピースの裾をまとめて膝の間に押し込んだ。
 フッフッと短く息を吐き、リズムをとる。呼吸に合わせて上体が揺れる。タイミングを計り一気に飛び出す。次の瞬間には近くに停車している赤い軽自動車の陰にすばやく移動していた。車体に背を預け、はやる心が静まるのを待つ。

 警戒する必要がないのはわかっている。誰も自分のことなど見ていない。生けるものからは見えないし、死せるものは他者のことなど意識の外だ。だがそれでも、自ら感情をコントロールできることを確かめずにはいられなかった。
 大丈夫、理性は働いている。そのことを噛み締めて、ようやく状況確認する気になれた。光の及ばないところからそっと覗き見る。

 ガラス張りの四角い建造物は今夜も煌々と明かりをともしている。二十四時間、三百六十五日、欠かさずだ。
 店内には、若い女二人組と、帰宅途中の会社員らしき男が一人、そして店員が一人いるだけだった。

「獲物は四。とりあえずはこんなものか」

 呟くと、口内に溢れた唾液が糸を引いて垂れた。満月の夜の生理現象だ。

「生理現象だ? まるで生ける者のようじゃないか」

 自分の脳内の声を鼻で嗤う。なおも溢れる唾液を袖で拭った。

 ガラス越しの明かりが駐車場を照らし、店内を窺う群れを浮かび上がらせている。体形こそ人間のものだが、姿勢や動きは明らかに異なる。二足歩行している個体はなく、両手を前足のように地につけていたり、不格好に腰を曲げて両手を垂らし、伸びきることのない膝で体を揺らしていたりする。体の内部からの力ではなく外部の、たとえば見えない巨大な何かの力によって操られる人形のような動きだ。

「死せる者は五体か。今夜は少ないな」

 再び呟く。意識して声にしないと言葉を忘れてしまいそうだった。

 言葉は思考を司る。思考を失えば、あいつらと同じになる。それは避けたかった。いや、論理も理性も失って、本能のまま狩りをするだけになれたら、ずっと楽なのかもしれない。そんなことを考え、胸に手を当てる。そこに鼓動はない。しかし自分の状態に違和感を覚えていた。

 唾液はだらだらと垂れ続けるものの、本来ならあるはずの抑えがたい衝動はいまだに起こっていない。

「おかしい。満月だというのに、今夜の昂りはそれほどでもないな」

 空を見上げて得心した。

「ああ、道理でな」

 空一面に薄雲が広がり、星は見えなかった。満月もおぼろげだ。そのせいで狩りをする死せる者が少ないのかと気づく。本能しか持たない者は月の影響を受けやすい。

 のどかな電子音が鳴る。ガラスドアが開き、光の中から獲物が出てくるところだった。男だ。
 駐車場で待ち構えていた者どもが一斉に飛び掛かった。五つの影が男に食らいつく。首筋に、脇腹に、腕に、尻に、足に。そのままそれぞれの部位を味わっていればよいものを、互いの部位を奪い合い、獣のようなうなり声をあげている。獲物そっちのけで喧嘩を始める個体もある。
 かなりの騒ぎなのだが、襲われている当人はまったく気づいておらず、歩みは止まらない。ただ、体が重そうな足運びだ。しかしまさか自分が食われているとは思いもよらず、疲れだと感じていることだろう。

 男がふらついた。自覚はなくても、食われすぎれば体は反応する。
 獲物の体が傾いだことに驚いて、影が一斉に飛び退いた。その隙を狙ったわけではないはずだが、身軽になった男は疲れた足取りで路地に消えた。

 五つの影は男を追うことなく、新たな獲物に狙いを定める。すぐさま続いて出てきた女二人に飛び掛かった。
 五体が食し始めたのを見届けて、歩道に目をやる。コンビニには立ち寄らず路地に折れようとする女がいた。
 今ならこの獲物を独り占めできる。ほかの者と争ってまで獲物を得る気力はなかった。同じになってなるものか、という思いもあった。

「よし。行くか」

 両手の指先を軽く地面につけ、弓を引き絞るように腰を低く落とした。女が角を曲がると同時に茂みから飛び出す。夜風を割り、一瞬で女の肩口に噛みつく。当然、女は気づかない。蚊に刺されたほどの自覚もないはずだ。
 歯を立てると張りのある皮膚の弾力を感じた。さらに噛み締めると、弾かれそうな抵抗力はぷつりと失せ、歯は皮膚を突き破った。肉に達したが、見た目より硬い。一旦肩からは口を離し、すぐさま二の腕を噛み直した。今度は甘く口当たりのいい風味が口内に広がる。

 ふと、女と目が合った。勘のいい獲物だ。慌てて口を離し、身を伏せる。こちらから見えてもあちらからは見えないはずではあるが、絶対にないとは言い切れない。今までに一度たりとも姿を見られたことはないが、まれにこの女のように気配を感じとる者がいる。
 だが、女はさして気にした様子もなく軽く腕をさすっただけで、なにごともなかったかのように歩き去った。

 伏せていた体を起こす。気づかれなかったことに安堵すると同時に、かすかな落胆をも感じていた。こちらからは認識できているのに、あちらは重なり合う世界があることなど知る由もない。恐怖でも怒りでも憎しみでも、拒絶でもいい。誰かになにかの感情をぶつけてほしい。そんなものは永遠に与えられないのだと受け入れなければならないのに。望むだけ苦しくなる。

 夜の空気が粗く波打つ。飢えた死せる者の唸り声が空気を震わせていた。細やかな波動の虫の声とは混ざることのない粗野な振動。死せる者の声は先ほどまでよりも騒がしい。見れば、黒い影が増えている。

 いつのまにか月にかかる雲が薄らいでいた。光があるほどに闇は深まる。闇が深まると、明かりに群れる羽虫のように、狩るために死せる者が深夜のコンビニに集まってくる。

 まさしく虫だな、と脳裏に浮かんだ表現に自ら同意する。動物であれば多少の意思疎通もできようが、それもかなわない者どもは虫と呼ぶにふさわしい気がした。虫のような者どもを蔑み、無意味な優越感に浸ると同時に、いっそ知性など持たずにいられたらどれほど楽だろうかと羨望を抱いたりもする。

「ああ、まただ」

 日に何度も同じようなことを考えてしまう。望んだとしても変えられるものではないのに。そのくせ、人間らしい感覚と知性が薄れていくことを恐れている。どれほど時が経っても自分の望みさえわからないでいる。

 知性を持たぬ者は自分たちが群れていることすら自覚していないのだろう。協力して狩りを行う個体が見られないの証左だ。

 激しくなる狩りをしばし眺める。死せる者が食欲を増す様子を見ているうちに、こちらは食欲が失せてきた。知性があろうがなかろうが、狩りを始めてしまえば自分もコンビニの明かりに群がる虫の一匹なのだと思うとますます熱が冷めていく。

 常に営業しているガラス張りの店がコンビニという名だということは、店に出入りする人々の会話からそれと知った。コンビニというのがコンビニセンスストアの略称だと知ったのはさらに後のことだった。
 あれはいつのことだったか。記憶をたどろうとしてみても、写し取ったように代わり映えのない日々が脳裏に浮かぶだけだ。昨日と今日どころか今年と昨年がいれかわったとしても気づかないだろう。

 年月の感覚はとうに失っている。今がいつなのか知る方法はいくらでもある。どこかで新聞なりカレンダーなりを入手すれば知ることなどたやすいだろう。だが、知ったところでどうなるものでもない。虚しさがますだけだ。昼か夜か、満月かそうではないか、それがわかれば充分だ。

 ぐおっと声がして、はっと目をやる。獲物に飛び掛かろうとした個体が勢いあまって飛んできている。挨拶でもするようにスカートを二箇所摘み上げる。ぶつかる直前に死せる者の腰のあたりを蹴り上げると、捕食中の群れまで吹っ飛んだ。食事を邪魔された者どもが苛立ちもあらわに争いを始める。騒動の源がここにいることを誰も気づかない。しかも今しがたまで襲っていた獲物が去っていくにも見向きもしない。獲物もまた、自分が襲われていたことも、解放されたことも気づいていない。

「愚かだ」

 呟いてみたものの、それが誰に向けたものなのか自分でもわからなかった。生ける者なのか、死せる者なのか。どちらにも属さない自らのことなのか。

 見上げた夜空には月が薄雲をまとっている。

 二本の足でアスファルトを踏みしめ、車の流れを縫って国道を渡る。死せる者の身体能力をもってすれば、一般道を走る車の速度など人の歩行速度と大差ない。
 防風林となっている松林を抜ければ、波の音が大きくなる。国道より三メートルほど低い砂浜に飛び降りるのは容易だが、あえて生ける者のようにコンクリートの階段を一段ずつ踏みしめて下りていった。

 海はいい。幾星霜が過ぎようとも陸ほどには変化しないから。
 いましがた下りてきた階段もかつてのものとは異なる。だが同じ場所に作り替えられただけだ。あとは海に流れ込む河口がコンクリートで補強されたのと、遊泳禁止の看板が何度か新しくなった。変化といえばそのくらいだ。
 波打ち際に立てば、兄と並んで歩いた風景と変わりはない。

 毎年夏は家族そろってこの海辺の別荘で過ごした。時には兄と二人、夜中にこっそり抜け出して砂浜を歩いたこともある。日中にもずっと耳にしていたはずの波音は、夜になると荒々しさを増していた。波打ち際から離れていても波にさらわれそうな気がしてことさら強く砂を踏みしめながら歩いた。

「兄さま、星は見えませんね」

 今夜のように空一面雲がかかった夜だった。月明りもおぼろで、いつもの夜の散歩よりも闇が深いのが怖くて、兄のシャツの裾を強く握っていたのを覚えている。

「星なら、ほら、あそこに」

 兄の指は水平を指していた。夜の海と空はどちらも黒くて境界がわからなかったが、一本の横線を這うようにいくつもの明かりが並んでいるのが見え、そこがどこかの街なのだとわかった。

「あれは町の明かりでしょう?」
「おっと。騙されなかったな」
「それくらいわかります。子供だと思って馬鹿にしないでくださいな」
「それはすまなかった。では、どこの町かわかるかい?」

 今明かりが見えるのだから、日中も見えていたはずである。けれども、海はどこまでも海で、見える距離に陸地があるとは思いもしなかった。

「さあ。どこかしら」

 答えられずにいると、兄は得意げに頷き、左手の方を巡って正面までぐるりと指先で弧を描いた。

「ここは大きな湾なんだよ。あちらは半島になっていてね、その町の明かりが見えているんだよ」
「近いの?」
「いや。鉄道で行ってもだいぶかかるだろうね」
「でもすぐに辿り着けそうに見えるわ」

 届きそうなほど近くに見えてつい手を伸ばしたが、当然夜風を掴んだだけだった。

 風が強く吹き、意識が現在へと吹き戻される。思い出しながら手を伸ばしていたらしく、胸の前に軽く握った拳があった。そっと開いてみても当然ながらそこにはなにもない。

 風が鳴り、髪が頬を叩いた。風上に顔を向けて顔にかかった髪をよける。吹き続ける風で雲が流れ、月が現れた。月明りで波頭が白く光る。

 ただの一度も同じ雲が流れることはなく、ただの一度も同じ波音が鳴ることはないのに、夜の浜辺は今もあの頃と繋がっている気がする。兄の気配を思い出しながら、絶えることのない波音に包まれながら沖を眺める。同じ波はなくとも、打ち寄せる波は単調なリズムを生む。

 その波音がわずかに乱れた。

 なにごとかと考える前に岩場を見ていた。岸に寄せる波と沖に帰る波がぶつかり合うのとは明らかに異なる動きが生じた音は砂浜の先にある磯から聞こえたのだ。
 たかが波音だ。特別気にかかったわけではない。だが、変化に飢えていた。時間はたっぷりあるのに、日々は一つの絵画の模写の枚数が増えていくようなものだった。重ねれば些細な差はあるに違いないのだが、一枚一枚を眺めていては気づけない程度のものだ。
 そんな日々の中では、波音の乱れでさえ暗闇に浮かぶ小さな光だった。

 目を凝らしてみる。磯の一角に小さな闇があり、闇に慣れた死せる者の目をもってしてもよく見えない。岩の影になって月の光が届いていないのだ。岩に打ち寄せる波も黒々としている。その黒い波間から光る杭のようなものが突き出している。光るように見えるのは、薄月の明かりに照らされているだけで、それ自体が発光しているのではないのかもしれない。

 光るものの正体を近くで見極めるべく、ゆらりと磯へ向かって歩み始める。
 杭は波が打ち寄せるたびに揺れ、浮沈を繰り返し、やがて消えた。とぷんと音が聞こえそうな沈み方だった。
 それを認めるなり、走り出していた。

 獲物を狩るのとは比べようもないほどに全身が熱くなっている。流れてなどいないはずの血が駆け巡る感じがした。体は軽く、走りは風に乗る。

 磯に着くやいなや足場を見極め、軽快な跳躍を繰り返して岩場を上る。先端に至るなり岩を強く蹴った。光る杭が沈んだ辺りを目指して海に飛び込む。

 黒々とした海の中で、髪が海藻のように揺れながら沈んでいくのが見えた。水を蹴って闇へ潜っていくと、やがて伸ばした手のひらをくすぐるように髪が触れた。指にからめとって引き寄せる。相手の痛みなど考慮している余裕はない。第一、痛みを感じるほどの意識もないだろう。投網を手繰り寄せるようにして沈もうとしている頭部を掴んだ。顎に指をかけてさらに引き寄せ、両脇を抱えた。女だった。

 今度は水面に向かって水を蹴る。水中から見上げた水面は、波で月光が散り、星が瞬くようだ。

 水から顔を上げると、ずしりと持ち重りがした。再び沈まないようにと慎重に女の体を抱え直す。
 首筋に手を当て、顔や胸に耳を当ててみる。どれもかすかな動きさえ感じられなかった。
 落とさないように気を付けながら、片腕で女を支え、もう一方の手で水をすくっては顔にかかった髪をよけた。支えのない頭部が、がくりと後方に垂れ下がり、喉元がさらけ出される。

「間に合ってくれ」

 願いを込めて女を抱き締める。顔をうずめた首元はまだほんのりと温かい。口づけのように首筋の滑らかさを味わうと、生の名残の味がした。

「大丈夫だ。きっと大丈夫だ」

 このままでは沖へ流される。早く岸に上がりたい。とはいえ、自分より大きな女を抱えて岩に上ることはできそうもない。

「しかたない。遠回りだが浜に回るぞ」

 女に話しかけながら抱え直すと、浜を目指して水を蹴った。

 次第に風が強まり、波が高くなる。風に流された厚い雲が月にかかると、波頭は白い輝きを落と始めた。そして海は再び闇に染まった。


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