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「死ねない死者は夜に生きる」第12話(全14話)

「なあ、サキ。いったい、なにがあったんだ?」

 ランコは眠るサキに問いかける。返事がないのは承知の上だ。月光を浴びたのだから、またしばらくは目覚めないだろう。
 狩りに出た時はあんなにも上機嫌だったのに、別行動をとったわずかな時間になにがあったというのだろう。死にたいと望むほどのなにが。

 この終わりなき日々を断ち切ることができたら、どんなにいいか。
 ランコ自身、武雄と共に考察を進めていた当時は、ランコは永遠に死せる者のままだろうという結論に落ち着いた。永遠は絶望だ。絶望が永遠に続くのだ。

「私が死んだら、噛みつくといい」

 自らの死期を悟った武雄はそんなことを言った。

「だって、そんなことをしたら武雄まで……」

「わかっている。だから言っているんだ。このまま死んだら、私はおそらく還りし者になるだろう。そうしたらヒガンに属するのは四十九日だけだ。お前はまた独りになってしまう」

 当時の平均的な寿命といわれる年齢にはまだ届いていなかったが、武雄に命が穏やかに尽きようとしているのは蘭子にもわかった。寿命。短くても与えられた命を全うしたら、その者は死せる者になることなく、還りし者となって次の生に備える。武雄はその流れに乗るはずだ。

 還りし者は精神を支える気であるコンだけの存在だ。塵ほどの存在すらない、宙を漂う風や光のようなもの。死せる者であっても、その存在を感知することはできない。四十九日間は辺りを漂っているが、ランコにはそれを知るすべはないし、おそらくコンとなった武雄にも命の核のようなものしか備わっておらず、なにかを思考したり、意思をもってなにかを行ったりすることはないだろう。
 それはつまり、永遠の別れを意味する。蘭子が孤独に帰ることを意味する。

「だからって、武雄が私のために死せる者になることはない。あなたは知らないのよ、永遠というものの絶望を」

「だからこそ永遠の絶望とやらを分け合おうと提案しているのだが」

「お断りよ」

 そう一言返すので精いっぱいだった。それ以上口を開いたら、武雄の提案を受け入れてしまいそうだった。
 そうして、武雄のコンは夜明けとともに抜けていった。武雄の最期を看取ったのはランコただひとりだった。それ以来、井口の家には近寄らなかった。

 深く眠るサキを部屋に残してランコは再び外に出た。
 狩りが済んでしまえば、あの熱に浮かされたような感覚は失われる。

 熱、か……。
 体温を失って久しい。ヒガンの者は年月を数えるすべを持たないため、数字で示すことはできないが、シガンの街並みどころか海岸線の形状まで変化するくらいには時が過ぎた。

 その短くはない時の中で、誰かと行動を共にするのは今回が初めてだ。
 サキが独り立ちするまでは面倒をみようと決めたのは、月に薄雲がかかった晩だった。あの晩、ランコは一人の女を救った。

 ――いや、本当は救われたのはサキではない。私だ。私は、私自身を慰めるために、見ず知らずの女をヒガンに引きずり込んだのだ。

 狩りをしていれば、他の死せる者と遭遇することも少なくない。狩りの最中であれば、互いの存在に気付いても特に思うところはないが、満たされた後は言葉を交わすこともある。言葉といってもかつてのような流暢なものではない。発声も言語も記憶から薄れゆく中でかろうじて残っている喃語のような言語だけで意思疎通をはかるのだ。

 死せる者はコミュニティなど作らないのだから、他者と関わる必要もない。それが、狩りの後は誰からともなく集まり、ボソボソと言葉を交わすのだった。

 生ける者の成分を取り込むことで、その性質の一部が発現しているのではないかとランコは考えている。生ける者はなにかと群れたがる。狩り直後の死せる者たちはそれに似ていた。

 狩りの晩の交流でいろいろな情報を得ることができた。一口だけなら生ける者への影響はほとんどないこと。満足するまで食してしまうと、その獲物は死せる者になること。などなど。

 後に、そこで得た情報は残さず武雄に伝えた。既に武雄が知っていたり仮説をたてていたりした事柄もあったが、多くは『ヒガン考』に新たに記載された。

 彼らの変化もまた貴重な情報だった。他者の変化を観察できる者はいないようだった。他者が変化する頃にはまた自らも変化しているからだ。ランコだけが、変化から取り残された。

 何度か顔を合わせるうちに、言葉を失っていく者もあった。忘却の作用が働いているらしい。彼らは忘却し、生ける者であった頃の記憶のみならず、その性質も忘却していった。使わない知識や能力は退化していくようだ。
 そして、やがて還りし者となり、ヒガンを去った。
 その後のことはわからない。還りし者となるという話も伝聞に過ぎず、どこか信仰めいた思考にも思えた。

 幾度となく繰り返される出会いと別れの中で、ランコの脳は機能し続けた。記憶は失われず、知識は蓄積されていく。

 他の死せる者たちとはなにかが違う。早い時期にそう感じた。コミュニティを形成しないとはいえ、特異な存在は排斥されるのではないかとの警戒心が働いた。今思えば、他の者たちにそこまでの思考能力は残されていなかったのだが。当時はまだヒガンについて知らないことばかりだったから、怯えるように過ごしていたのだ。

 違うということを隠さなければ。頑なにそう信じ、ことさらに無感情を装った。それはランコの生前が影響しているのかもしれなかった。

 ランコは生ける者であったころ、蘭子といった。

 父母は優しく、暮らしは豊かだったように思う。周囲の大人からは、蘭子の容姿は西洋人形のようだと言われた。ただし、それは純粋な褒め言葉ではなかった。
 西洋人形――整ってはいるものの、その愛らしさは日本人のものとは異なっていた。陶器のように白い肌、明るい栗色の髪、はしばみ色の瞳。両親のどちらにも似ていなかった。

 間違いなく両親の子だと言われて育ったし、蘭子も疑わずに過ごしてきた。
 それでも周囲、殊にクラスメイトたちの好奇と疑念の目にさらされた。中には蘭子に直接心ない言葉を浴びせる者もいた。言葉以外のものまで浴びせられたり投げつけられたりすることもあった。

 十三歳の頃、兄が亡くなった。町中で暴れる酔っぱらいをなだめようとして突き飛ばされ、打ちどころが悪く帰らぬ人となった。あまりにも突然の不運だった。周囲の慰めはありがたくも疎ましく、ひとときでも善意の喧騒を抜け出したくて一家は数日を別荘で過ごすことにした。その別荘滞在中、蘭子はシガンを捨てた。

 兄のもとに行きたかった。兄がいた頃は、外での悲しみを癒してもらえたけれど、相談相手がいなくなって負の感情がたまっていく一方だった。両親も優しかったが、自分を産んでくれた両親に娘の容姿について相談するのは憚れた。

 別荘は高台に建ち、庭の先は崖だった。真夜中に起き出して、そこから飛び降りたのだった。思いつめた挙句というよりは発作的な行動だった。
 ある満月の晩のことだった。

 事故の瞬間はスローモーションなどではなかったとサキは言ったが、まったく同感だ。ランコも崖から落下した際の記憶はないに等しい。生ける者としての最後の記憶は、低い柵を蹴った瞬間だ。

 それに続く記憶は、喉元が引き上げられるような感覚だ。思えば、あれは死せる者に噛みつかれていたのだろう。

「不味い。死んでやがる」と耳元で声がした。

 ああそうか。私はもう死んでいるのか。
 他人事のようにそんなことを思った。
 すぐさま何者かの気配は去り、しばしの後、ランコは目覚めた。それはまさに「目覚め」としかいいようのない感覚で、長い夢から浮上するような心地だった。

 ランコを死せる者にしたのが何者なのか、もはや知るすべはない。意図してランコをヒガンへ招き入れたとは考えにくい。おそらく生きている獲物と間違えて思い切り齧りついてしまった、行きずりの死せる者なのだろう。

 次第に、死せる者たちの話や自分の経験からヒガンの仕組みがわかってきた。
 多くの者はほぼ同様の流れを辿っている。シガンの生ける者は誰しも必ず死を迎える。その死には三つのパターンがある。本人の意思とは無関係に訪れるもの、自ら招くもの、死せる者によってもたらされるもの。

 一つ目がもっとも多くみられるものだ。自然死や病死など。この場合は、すぐさま還りし者となり、輪廻の流れに乗る。再び生ける者として生を受けることになる。

 二つ目は自死と他殺。自らの肉体を死に至らせる行為だ。また、他者によってもたらされる死もここに含まれる。殺意の有無は関係しないと思われる。これらが死せる者となる。

 三つ目は死せる者が襲うことにより、襲われた側も死せる者になるケース。その仕組みについては不明だ。分析が難解だということではなく、おそらく誰も解こうとしたことがないのだろう。死せる者は極めて動物的だ。生ける者であったころに近い知性は残しているものの、ランコ以外の死せる者は、知識欲のようなものは持ち合わせないとみえる。また、もしそのようなものがあったとしても、彼らにその調査・研究・分析にかける時間も手段もなかった。時を計れないながらにもランコの感覚でいうならば、早くて数日、遅くても数年以内には還りし者へと変化している。

 死せる者が還りし者へとなるのは、いわば第二の死である。生ける者における自然死に類似する。異なるのは、ただ姿が消滅するという点だ。なにも残らない。一切の痕跡を残さない。
 シガンではシガンに生きる者のことしか把握できないように、ヒガンでもヒガンに棲む者のことしか把握できないのだ。このような考察をしているのはランコくらいなものだろう。

 そして、そのランコ。
 死せる者でありながら、このような知識欲を残してしまったのはなぜか。いつまでも還りし者へと変化しないのはなぜか。

 推測の域を出ないが、おおよその見当はついている。シガンでの死を遂げた後で、死せる者に襲われているというレアケースであることが原因ではないだろうか。ランコの場合も、まだその魂が肉体に残るうちに死せる者に襲われたからだと考えるのが妥当ではないか。

 死せる者に襲われるとなぜ襲われた側も死せる者となるのか、その仕組みについて断定はできないものの、感染のようなものだと考えるとわかりやすい。

 そこで、ランコは考えた。
 死んでから襲われた者は感染力が弱いのではないかと。完全なる、死せる者にはなれないのではないかと。いわば、欠陥品。
 ランコは忘却ができない。ランコは知識を求めて思考する。ランコは感情を持つ。それは、死せる者としては欠陥品である。つまり、還りし者不適合。だから、いつまでも死せる者であり続ける。欠陥品であるがゆえに。

 終わりのない暮らし。どれほど平穏な時間であろうと、それはもしや地獄と呼ぶのではなかろうか。

 ――サキ。

 あの子に出会えたことは幸運だった。武雄と違い、サキはずっといてくれる。同じ死せる者。そして、同じ異端。

 生ける者であった頃、ランコはけして社交的な方ではなかった。兄以外の人と深くつながる必要を感じなかった。煩わしいとさえ思っていた。だけどそれは、自らが望みさえすれば人との繋がりが手に入ると信じていたからなのかもしれない。ヒガンでは……特に異端の死せる者では、どれほど臨もうとも友人や仲間はおろか、知人でさえ得ることはできないのだ。永遠に。

 東の空が白み始めた。
 波頭が光りはじめ、磯の粗い岩肌に当たって砕ける。

 サキに告げねばなるまい。あの薄月の晩のことを。

 ランコは気鬱な思いで、朝日に追われるようにサキの待つ別荘へと帰っていった。

 部屋に入ると、サキは静かにベッドに腰掛けていた。しばらくひとりにしたからだろうか、だいぶ落ち着いたように見える。

「サキ、具合はどうだ?」
「死んでいる人に、具合を尋ねるなんて、変なの」
 サキの軽口にランコは肩をすくめた。
「まあ、痛みはないだろうが」
「うん。大丈夫。終わりにしようとしたくらいだし」

 わずかに口角を上げて笑顔に似た表情ができるほどに落ち着いたサキを見て、今なら冷静に話ができそうだと安心した。

「……昨夜、私と離れている間になにがあったのか聞いてもいいか?」

 サキは頷いて、狩りを始めたところから語りだした。本題に辿り着くにはかなりかかりそうだと思ったが、口には出さなかった。おそらく、語らなければならないと思いつつも、思い出したくもないという忌避感から先延ばしにしているのだろうと見当がついたからだ。
 本題に辿り着くまでは詳細な内容だったのに、肝心の部分はあっさりしたものだった。

「妙に惹かれる匂いにつられて狩ったら、その獲物には私の姿が視えたの。視られたのよ。信じられる?」
「まあ、まれにいるな」

 話を遮らないように冷静を装ったが、内心では少し驚いた。ランコでさえ会ったことのある視える者は武雄だけだったからだ。

「死せる者からしか視えないのかと思っていたわ。その獲物もね、生ける者なのに私のことが視えるの。名前を呼ばれたの」
「名前?」
「そう。『咲』って呼ばれたわ」
「知り合い……なのか?」
「知り合いっていうか、名前を呼ばれて思い出したの。この人は大切な人だって」
「大切な人?」
「うん。恋人。ずっと一緒にいたいと思っていた人」
「それを思い出したのか」
「うん、そう。――襲った後にね」

 その口調に悲壮感はなかった。だからといって、昨夜の出来事がなかったことにはならないだろう。
 サキは生ける者である恋人を襲ってしまった我が身を責め、消し去ろうとまでしたのだ、今は平静を装っているだけかもしれない。

 それでもサキに告げなければならない。サキと共にありたいと願ったがゆえのランコの行為を告白すれば、サキは離れていくかもしれない。そのことがランコを躊躇わせていた。

 そうだとしても。サキはどうやっても還りし者にはなれないのだと理解させなければ、またいつか、今夜のように終わりを求めて自分を痛めつけるだろう。どんなことをしても苦しむだけで終わることなどないのだとわかってもらわなければならない。たとえそれでサキとはこれきりになるのだとしても。それがランコの負うべき責任だと思った。

 ランコからサキに対して話すべきことは二つある。さて、どちらから話すべきか。
 どちらの話もサキを苦しませる。だが、起きてしまったことは変わらない。いつかは伝えなければならないことだ。

 ランコはひとつ深い息を吐くと、意を決して口を開いた。

「話があるんだが」

 サキは、うん、と短く返事をした。

「あ、その前に。一つだけ約束してくれ。私がなにを話しても、外には飛び出さないで。もう夜が明けている頃だ。日の光の影響は月の光の比ではない。せめて話が終わるまではここにいてほしい」
「よくない話ってことね。うん、わかった。話は最後まで聞くわ」
「ありがとう」

 ランコはもう一度、大きく息を吐いた。

「まずは、私自身のことを話す」

 ランコが死せる者となった経緯、そして還りし者になれないであろう原因を語り終えるまで、サキは声を発しなかった。

「――と、まあ、ここまでが私のことだ」

 そう区切りをつけても、サキは黙って頷くだけだった。

 もしかして、既に察しているのではないだろうか。たとえそうだとしても、私の口から言わねばなるまい。白状しなければなるまい。告白を。懺悔を。けして許されるはずなどないけれども。

 ランコは再び語り始める。

 薄月夜のことだった。
 満月を過ぎたばかりで、次の狩りまでは特にすることもなく、相も変わらず時を持て余していた。

 ランコはあてもなく夜の浜辺をそぞろ歩く。夏の頃は夜でも人がいることも少なくなかったが、秋風が吹く頃には訪れる人はいなくなった。

 空一面の薄雲は月の明かりをかすかに映すのみで、星さえ見えなかった。代わりに瞬くのは、湾の向こうの小さな明かり。地名さえ知らない町だ。

 終わりのない時を過ごすのなら、ほかの土地に行ってみるのも悪くはないかと思ってみたりもする。海の向こうでありながらすぐ目の前にあるようにも見え、なんとはなしに手を伸ばしてみたが、当然掴めるはずもない。なにも掴み取れなかった手を広げれば、ごわついた皮膚が見えた。

 波音が力強く打ち寄せる。

 ランコにはなにも得ることができず、なにも捨てることができない。気が遠くなる。しかし、その遠のいた気よりもさらに遠い日々がランコを待っているのだった。

 風が鳴る。

 間を置かずして、波音に乱れが生じた。
 音は磯の方で聞こえた。魚でも跳ねたのだろうか。
 砂浜と続く岩場を見やる。波間から棒状のものがまっすぐ空に向けて突き出されている。淡い月明かりにも白く光る。ランコはその美しさに惹かれた。導かれるように磯へと向かう。視線は海面に向けたまま。それは黒い波間に消えたり現れたりと繰り返す。そして、沈んだきり浮かんでこなくなった。

 とっさにランコは走った。それから、黒い海に飛び込むと、白光していたなにかを探した。探し出した。人だった。生ける者だ。抱えて浮上する。

 ――事故か。自死か。

 事故ならば、還りし者となって、新たな生ける者として生を受ける。だが、自死だとしたら、死せる者として過ごした後に還りし者と同じ道を辿る。いずれにしても、このままならばヒガンを通り過ぎるだけの命だ。

 ランコはサキの顔を見られなかった。

「……の?」

 サキのかすれた声の語尾だけが耳に届いた。反射的にサキを見た。サキは床をにらみつけていて、ランコのことなど見る気もなさそうだった。

「え? 聞き取れなかった。もう一度、」
「どうして私を死なせたの! 見殺しにするなんて!」
「違う。そっちは私のせいじゃない。辿り着いた時にはもう息がなかったんだ」
「待って。……そっちは、ってどういうこと?」
「あ、いや……」

あの夜を思い出し自責の念に駆られていたところだったから、思わずそんな言い方をしてしまった。

「死んだのはランコのせいじゃないというのなら、他のなにかはランコのせいだというの?」
「サキ。まだ言ってないことがある」

 ランコは早くも悔やんでいた。やはり秘しておくべきだった。永遠にランコの記憶だけに留めておけばよかったのだ。甘かった。心のどこかで、サキは今さら過ぎたことにこだわったりはしないはずだと決めつけていた。

 今となっては、なぜそんなふうに思っていたのか自分でもわからない。
 たぶん、慕われていると感じていたのだ。だからすべて告白し、懺悔し、赦されたかった。自分が楽になるためだけに。
 浮かれ、舞い上がっていたのだ。永い孤独から解放されたことに。
 すべてがうまくいっていると思ってしまったのだ。サキと過ごすようになってからは、夜の世界が古い記憶の中の昼の世界のように煌めいていたのだ。

「ランコ。話して」

 サキの声が冷たく射る。
 ランコは頷き、首を垂れたまま口を開いた。

「……死者のみで構成されるこのヒガンにあっても、死んだばかりの者と行き合う機会など皆無に等しい。このまま行かせてはならない気がした。……いや、正直に言おう。側に置きたかったのだ。ひとりきりで永遠をゆくのは苦しすぎた」

 こんな絶好のタイミングに出会う機会は滅多にない。新鮮な死。何者でもないひととき。生と死のあわい
 ランコはひと思いに齧りついた。今宵は満月で狩りの夜ではあるが、食欲はない。それでも常より長く白い首筋に歯を立て続けた。
 そして、我が身より大きな体を背負って、ねぐらである別荘へと帰って行ったのだ。

「……私は、死んでいたのよね?」
「あ、ああ。抱き上げた時には、もう」
「それって……死んでから狩られるってことは、つまり……」
「そうだ。いつまで経っても還りし者にはなれない。……私と、同じだ」

 ついに告げた。
 サキを失うであろう不安や恐怖と同時に、ずっと抱えていた後ろめたさが解消されて爽快な気分にもなっていた。

 サキは静かにうなだれていた。だからといって、サキが冷静に受け止めたと判断してはならないことくらい、ランコにもわかっている。

「……いって」
「え?」
「出て行ってよ! 私には外に出るなって言ったんだから、ランコの方が出て行ってよ!」

 咲は床に向かって泣き叫んでいる。
 泣く――いや、泣くことなどできやしない。声を詰まらせているだけだ。死せる者は一切の排泄をしない。体は生命活動をしていないのだから。当然、咲の顔の下の床に涙の跡がつくことはない。それでも泣いているように見えた。

 もう一つの話をまだ伝えていなかったが、ランコは静かに部屋を後にした。

 それからも別荘にサキのいる気配はあったが、その日以降、ふたりが顔を合わせることはなかった。


次話↓


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