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「祈願成就」第8話(全10話)

 夏休みに入ると、郁美は呪具を作らなくなった。今までも誰かに頼まれて作っていただけで、自分でまじないや呪いをかけることはなかったのかもしれない。だから学校へ行かないと呪具が必要にはならないのだろう。

 それに猫の世話があった。世話といっても、自宅からくすねてきた牛乳を飲ませていたくらいだが。徹たちの中にペットを飼っているうちはなく、子猫になにをしてあげればいいのかわからなかった。煮干しや鰹節を与えたこともあったが、匂いを嗅いだだけで口には入れなかった。まだ固形物が食べられないほど幼かったのだろう。

 あれ以降、徹の目にもしっかり黒い子猫に見えていた。あのときは慣れない至近距離のドワーフの姿と声に動揺していたせいで混乱していたに違いない。

 猫はおとなしかった。小さいながらもよちよちと歩けたが、遠くに行くことはなく、秘密基地の中をうろうろする程度だ。鳴き声も上げない。おかげで、秘密基地で猫を飼っていることは、外の誰にも知られていなかった。

 今までもそうだったが、秘密基地に集まる約束をしているわけではない。それでも平日は自然と全員集まった。けれども夏休みともなると、家族で出かける機会が増えるため、毎回全員がそろうわけでもない。むしろ、そろう日の方が珍しかった。

 そんな緩い集まりだったが、実希子は自分が秘密基地に行く日は、必ず徹を呼びに来た。徹も予定のない日は誘いに乗った。なにも誘われるのを待っていたわけではない。実際、ひとりでふらりと行くこともあった。

 だが、そこに郁美しかいないと落ち着かなくて適当な理由をつけてすぐに帰った。猫の一件以来、郁美と二人きりになる時間が息苦しく感じられるようになっていた。だからといって家にいても兄の修に気兼ねしてゲームやテレビを楽しむ気分にもなれない。三つ上の修は、高校受験のための勉強をすでに始めていたからだ。

 そんなわけだから、実希子が呼びに来てくれるのは嬉しかった。ただ、実希子の方は徹を誘うことよりむしろ、ひと目でも修に会えるんじゃないかと期待していることは明白だった。

 実希子はずっと修に憧れていた。本人は誰にも知られていないつもりのようだが、幼馴染みは四人ともとっくに気づいていた。修だってわかっていたのかもしれない。

 そのことで嫉妬したことはない。当時は実希子に対してだけでなく、恋愛感情などいうものは持ち合わせていなかったし、修は、弟の徹から見ても憧れの存在だったからだ。
 修は昔から勉強も運動もできた。それに、子供の多い岩倉台でも修と同い年の男子はほとんどおらず、幼いうちはよく徹たちの子守り役をしてくれた。優しく頼りになる、みんなのお兄ちゃんだった。だから、将来の夢を訊かれて即座に「お嫁さん!」と答える実希子が想いを寄せるのも当然だった。

 夏休みも終わりに近づいたある朝、徹がラジオ体操から帰ってくると、部屋で修が待っていた。個室があてがわれるのは、修が高校生、徹が中学生になってからだと言われていて、そのころはまだ二人で一部屋を共有していた。だから部屋に修がいることは不思議ではないのだが、いつもなら空腹を持て余して誰より先に食卓で待機しているはずだった。

「あれ? お兄ちゃん、もう朝ごはん食べたの?」

「いや。まだ。おまえが帰ってくるのを待ってた」

 その口調はまるで同級生に話しかけるみたいに聞こえ、徹は大人扱いされた気がして口元が緩んだ。にやけ顔を誤魔化すため、わざと不機嫌そうな声を出してみた。

「なんだよ。なんか用?」

「悪いんだけどさ、お願いがあるんだ」

 なんと、お願いときたもんだ。徹の顔はますますにやける。かつてこの完璧な兄に頼られたことなどあっただろうか。自分が力を貸せることなどあるとは思えないが、対等に扱ってくれたのが誇らしかった。

「なんだよ。言ってみろよ」

 力が入りすぎたせいか、心ならずも強い口調になってしまったが、修は気を悪くした様子もなく徹に向かって手を合わせた。

「金を貸してくれ!」

「え?」

「この前、ばあちゃんちでお小遣いをもらっただろ? おまえ、まだ使ってないよな?」

 先週は父がお盆休みで、家族そろって県内の祖父母宅へ遊びに行ったのだった。そのときに小遣いをもらった。祖母にとって孫は年齢に関係なくただ孫というくくりで、小学生だろうが中学生だろうが小遣いの額は同じだった。それは毎年のお年玉にも言えることだった。この前は二人とも五千円ずつもらった。

「うん。まだあるけど……」

 いずれはゲームソフトかなにかを買うつもりだけれど、今すぐほしいものがあるわけでもないから、そのときまで大切に貯めておくつもりだった。

「貸してくれないか?」

「え。お兄ちゃん、自分の分は?」

「まだ残っているけど、ちょっと足りないんだ。今日、学校の友達と映画に行くことになってさ」

 聞きたいことはいくつもあった。残っているのはいくらなのかってこと。今日は夏期講習があるんじゃないかってこと。映画館のある街はずいぶん遠いのではないかってこと。
 徹が戸惑っていると、修は台所か居間にいるであろう両親の気配をきにしつつ、徹の耳に口を寄せてきた。

「女子もいるんだよ。少しくらい奢ってやらないといけないだろ?」

 低くささやく声に、徹は飛びのいた。修が得意げな笑顔を見せている。すごく大人に見えた。疑問はなにひとつ解明されないし、女子に奢らないとならない理屈はわからなかったけど、そのためのお金を自分が貸すということがとても誇らしく感じた。

「いいよ。いくら貸せばいい?」

 貯金箱にしている空き缶を開けながら訊いた。祖母から渡されたのは五千円札だった。必要のない分はおつりとして千円札をくれるものだと思った。

「五千円。サンキュ」

 修は空き缶から直接五千円札を手に取って、ポケットに押し込み、台所へ向かった。

「お母さーん。ごはんまだあ?」
「もうちょっと待って。今支度してるから」
「おなかすいちゃったよー」

 母と話す修の声を遠くに聞きながら、徹は乱暴に空き缶のふたを閉めた。


 あの朝、修があんなことを頼んでこなければ、こんなことにはならなかった。
 よくある一日のように、実希子が呼びに来て、でも修は出かけた後で、だから実希子は少し不機嫌で、それで徹もおもしろくなくて、だけど秘密基地に着いたら珍しく全員揃っていて、徹も実希子もすっかり機嫌を直して楽しく過ごしていた。そして、郁美が言った。

「なにか願いごとをしてみない?」

 みんなが一斉に郁美を見た。
 魔女と呼ばれ、多くの依頼を受けて呪具を作ったりまじないの方法を教えていた郁美だったが、秘密基地のメンバーは誰も世話になったことがなかったからだ。今日は蝉の声がやけに賑やかだ。

「どうしたの、急に」

 誰もが聞きたかった言葉を発したのは絵里だった。
 郁美は猫を膝に乗せたまま不思議そうに首を傾げた。

「べつにどうもしないよ。ただ、みんなも願いごとくらいあるんじゃないかなと思っただけ。二学期が始まったら、またほかの人たちにいろいろ頼まれて手一杯になっちゃうし、今ならちょうどいいかなって」

「願いごと、する!」

 実希子が勢いよく手を上げた。
 絵里が「知ってるよーだ」と歯を見せて笑う。

「みきちゃんの願い事は『修くんのお嫁さんになれますように』でしょ?」
「えっ。やだ、なんでわかるの?」
「ばれてないと思っていることの方が驚きだよ」
「うそー。みんな知ってたの?」

 やっぱり隠し通せていると思っていたのかと呆れる。と同時に、女子と一緒に映画に行くと浮かれていた兄の姿を思い出して、実希子が少し気の毒になる。知らない女子よりはずっと知っている実希子を応援したくなるのは当然だ。

 徹も小さく手を上げた。

「俺もやってみようかな」

 すると「私も」「俺も」と絵里や健二も続いた。郁美が満足げに頷く。

「みんな参加ね。じゃあ各自ひとつだけ用意して。願いごとの対象の持ち物がいるの。つまり、みきちゃんの場合なら修くんのなにか」
「ええー。修くんの持ち物なんて借りられないよ。どうしてもなくちゃだめ?」
「うん。だって、願いを聞いてくれる神様が誰のことかわからないでしょ? 徹くんに頼めばいいよ。枕についた髪の毛とかでいいから」

「そんなのでいいなら任せとけよ」

 徹は腰に手をあてて胸を張った。

「自分のことの場合は自分の髪の毛でいいのか?」

 健二の質問に郁美は頷いた。

「そう。でも髪の毛にこだわらなくてもいいんだよ。普段使っている鉛筆とか消しゴムでも平気」

「おっけー。わかった」

 健二は自分のことで叶えたいなにかがあるのだろう。俺はなにを願おうか。
 徹の思考を読み取ったかのように、郁美が声を潜めて告げる。

「もちろん、呪いでも」

 瞬時にして、みんなの表情が消え、なぜか蝉の声までやんだ。今まで耳に入っていなかった葉擦れの音がざわざわとうるさいほど響く。

「……なーんてね」

 郁美がにやりと笑う。魔女のように。

「やだあ、郁美ちゃんが言うと怖いよー」
「やべぇ、まじかと思った」
「えへへ。ごめんごめん。でも、今までだって呪いの依頼は多いよ」
「へえ、どんな?」

 呪いに興味が湧いて聞いてみた。

「うーん。そうね、次の日の授業で当たりそうな時に、先生が風邪をひいて休みますように、とか」
「ああ、なるほどね」

 呪いと聞くと怖いイメージがあったが、所詮子供のまじないだ。叶うのはそんなものだろう。

「今、そんなもんかと思ったでしょ? これが結構叶うんだから」

「うん、わかったわかった。なにを願うか考えておくよ」

 それからしばらくはみんな夏休みの宿題に追われ、まじないの決行は新学期に入ってからということになった。

 そして、決行の日。
 クラスが違うはずなのに郁美以外の全員が昇降口でばったり会った。こんなことは初めてだった。四人で通学路を歩くのは不思議な感じがした。考えてみれば今までこんな機会が一度もなかったことの方が不思議なのかもしれない。

「みんな、例のもの持ってきた?」

 周りにほかの生徒がいなくなったところで、絵里が緊張気味に尋ねた。

「うん。これ」

 健二が握り締めていたのは驚いたことに歯だった。

「え? 乳歯? 自分の?」

「そう。集めてるんだ。その中から一本持ってきた。髪の毛より効果ありそうじゃない?」

 徹の家では下の歯は屋根の上に、上の歯は縁の下に投げていたから、集めている人がいるとは思いもしなかった。返事に困っていると、絵里が手のひらを広げた。飾りのついたヘアピンのようなものが乗っている。でも女の子が身につけるにしてはおじさんくさい柄だった。

「ネクタイピン。知ってる?」

 三人とも首を振る。

「みんなのお父さんはネクタイピンは使わないの?」

 そう言うからには絵里は父親のことを願うのだろう。なんだろう。出世とか? 給料アップとか?

「ねえ、徹くん」

 実希子が遠慮がちに服の裾を引っ張っている。

「あれ、持ってきてくれた?」

「ああ、うん。今、渡しておくよ」

 徹は、ランドセルを胸の方に回して、中から折りたたんだノートの切れ端を取り出した。中には修の枕についていた髪の毛が一本入っている。実希子は丁寧に受け取って「ありがとう」と大切そうに胸にあてた。

「徹くん、自分の分は?」

「俺のはこれ」

 ズボンのポケットから消しゴムを取り出した。

「なにそれ。自分の?」

「まあ、そんなとこ」

 自分のことを願うなら自分のものを用意したが、これは修の消しゴムだ。昨日のうちにこっそり机から盗んでおいた。

 修に貸した金はまだ返ってこない。大金だからすぐには返してもらえそうもないと覚悟はしていたが、昨日の態度には頭にきた。
 夕食のときに母と夏休みの話になり、祖母にもらったお小遣いをどうしたかと聞かれたのだ。修は貯金箱に入っていると澄まして言った。自分も同じように答えればよかったのだろうが、しらじらしく嘘をつく修の態度に驚いたせいで言葉に詰まった。
 すると、不審に思った母が「二人とも今すぐ貯金箱を持ってきなさい」と強い口調で言った。自分のせいで修まで窮地に立たせてしまい、申し訳ない気持ちと情けなさでずっとうつむいていた。
 母のもとで同時に貯金箱代わりの空き缶を開けると――修の方には五千円札が一枚入っていた。

「徹はなんで空なの?」

 とっさに兄を見上げると、出来の悪い弟に同情するかのような顔があった。

「徹! あんな大金、なにに使ったの!」
「……使ってない」
「使ってないのになくなるはずがないでしょ!」

 散々叱責された後、修が母に言った。

「徹のことだからきっと大事にどこかにしまい込んで忘れているんじゃないの?」
「……そうなの? 徹」

 しゃべれないくらいに泣かされた徹は、しゃくり上げながら頷くのが精いっぱいだった。
 部屋に戻ってから修は「ばかだなあ」と笑った。

「おまえも俺みたいにすっとぼけて『貯金箱にある』って言えばわざわざ確かめたりされなかったのに。明日、この五千円札を貸してやるから『机の引き出しにしまってあった』って見せて来いよ。で、見せたらちゃんと返せよ?」

 その瞬間、徹は兄を呪うことを決めたのだった。


 雑木林に足を踏み入れると、蝉しぐれで聴覚が麻痺しそうになる。時おりツクツクホウシの声が混じり、夏の終わりを感じて少し寂しくなる。風向きで盆踊りのテスト放送が聞こえる。今週末の祭りの準備をしているのだろう。

 秘密基地には今日も郁美が一番乗りだった。木々の開けた空間の中心に佇んでいる。ぴくりとも動かないので、木が生えているみたいだ。「郁美ちゃん?」と実希子か絵里が呼びかける声が聞こえた気がしたが、空耳かもしれないと思う。蝉がうるさすぎて、かえって静寂のようだった。四人で郁美のそばに歩み寄る。うつむいた郁美の視線の辿り、息が止まった。蝉の声か耳鳴りか、頭の中がうわんうわん鳴っている。

 郁美の足元には、黒い塊があった。
 触れずとも硬直しているのがわかった。そこに生気はない。あるのは拳大の黒い物体。
 蝉がうるさい。

「一人ずつ前に出て」

 囁き声なのに郁美の声が蝉の声を割ってしかと耳に届く。

「まずは健二くん」

 健二は言われるままに郁美と並ぶ。郁美の口が動き、健二が頷く。徹のいるところまで声は聞こえない。健二は郁美からなにかを受け取り、しゃがみこんだ。そしてすぐに手にしていたものを郁美に返し、逃げるように雑木林を出て行った。

「次。絵里ちゃん」

 絵里もためらうことなく進み、健二と同じ行動をとった。
 なんだこれは。健二や絵里こそがまじないで操られているみたいだ。

「次。徹くん」

 行くもんか。まじないなんかしなくていい。そう思うのに、足は徹の意思に関係なく交互に前へ出される。
 郁美に並ぶと、折りたたみ小刀が差し出された。三年生か四年生のときの教材で使っていたものだ。彫刻刀の授業に入る前に刃物の扱いに慣れるためのものだったと思う。たしかこれで鉛筆を削る練習をさせられたっけ。

「どこでもいいから小刀で切り裂いて。そこに持ってきたものを埋めて。大きくて入らないようなら傷口に触れるように乗せるだけでもいいわ」

 頭の中が痺れてなにも考えられなかった。言われるままに小刀を手に取り、足元に転がる黒い塊に突き刺した。見た目よりも柔らかく、刃先がぷすりと入る感触は少し気持ちよくすらあった。そのまま右に引くと、滑らかに切り口が広がった。消しゴムを押し込む際に、願う。兄ちゃんに罰が当たりますように。

 立ち上がり、小刀を郁美に返すと、もう一瞬たりともこの場にいたくなかった。雑木林を走った。出口はこんなに遠かっただろうか。走っても走っても辺りは木ばかりだった。もう一生雑木林から出られないんじゃないかと半ば本気で思い始めたころ、ふいに強い日差しのもとに躍り出た。気が抜けてその場に崩れ落ちた。

 人心地ついて、顔を上げると、すぐそばの地べたに、腰を下ろした絵里と健二がいた。手にはなにも持っていなかった。

 こいつらも願ったんだ……

 自分だけではないと思うと、少しだけ気分が落ち着いた。
 そこへ、実希子が飛び出してきた。勢いよくうつ伏せに転んだ。

「みきちゃん! 大丈夫?」

 絵里が走り寄る。徹と健二も実希子が起き上がるのに手を貸した。
 実希子の顔は涙と汗でびしょ濡れで、頬や額には砂がついていた。うえっ、うえっ、と吐きそうな声で泣く。その涙を拭う手に握られているものを見て、徹たちは動きを止めた。実希子の手にはノートの切れ端があった。徹が用意した修の髪が。

 実希子は、願わなかったのか……

 救われた気がした。落ちきらないで済んだような、すんでのところで躱せたような、安心感。

 ははっ……

 笑いがこみ上げる。

 あはははは……!

 徹は仰向けに寝転んで大声で笑った。健二や絵里も続く。アスファルトが焼けるように熱かったが、どうでもよかった。三人の笑い声と実希子の泣き声が、夏の終わりの空に蝉の声より大きく響き渡った。

 その後、なぜか全員で熱を出し、週末の祭りには誰も参加できなかった。


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