「祈願成就」第1話(全10話)
瀬尾実希子
雲が流れ、月を隠した。光を失った空と海の色が混ざり合い、境界が曖昧になる。
実希子は船尾の手すりにつかまったまま目を閉じた。潮が香り、波音がひと際大きく耳に届く。夏が近いというのに、夜の海上は風が冷たい。ストールを用意するべきだったかもしれない。そんなことを思いながら、体内の空気を入れ替えようと深い呼吸を繰り返した。
ふいに背後から馴染みのある温もりが覆い被さる。耳元を強く吹き抜けていく風の音も重なり、近づく足音に気づかなかった。
「実希子、大丈夫?」
耳元でささやく声は、少しワインの香り。そして、徹の匂い。
「うん。風にあたったら少し酔いが醒めてきた気がする」
「それはよかった。寒くない?」
「ちょっと。でも気持ちいい」
刈谷徹との交際は十年にもなる。今までに結婚を考えたこともなくはないが、徹からはかつてそんな話が出たことがなかったため、とうに諦めていた。それほど結婚という形式にこだわっていなかったというのもある。三十五歳の今に至るまで、ただの一度も子供をほしいと思ったことはなかったし、自分の幼少期をよく知っている人が義両親になるのも気恥ずかしかった。
「やっぱりワインはやめておけばよかったかな」
「ううん。とてもおいしかったよ。ディナークルーズなんて初めてだから緊張していたせいかも」
大きな手が頭を撫で、肩へとおりてきた。そのまま並んで暗い海を眺める。風向きが変わると、船内のざわめきがかすかに聞こえた。
徹と出会ったのは六歳のころだった。転居先でできた友達のひとりだ。
実希子の小学校入学のタイミングに合わせての転居だった。新居は、横浜郊外の山ひとつを開発した岩倉台という大規模な新興住宅地だ。
岩倉台には、防空壕跡の横穴がいくつか残っていた。宅地開発のために手つかずの山を切り崩したわけではなく、以前から人の住む土地だったようだ。瀬尾家は第一期の入居だったが、その後も開発は続いていて、日に日に街が広がっていく様に圧倒されたものだった。
住人の多くが若い世帯で、子供の歳も近かった。親同士が親しくなる中で、子供たちも自然と行動を共にしていった。
実希子はいつも五人で遊んでいた。構成は全員同い年の、男二人、女三人。その中に徹もいた。
中学に上がると、学校での友人との繋がりの方が強くなり、近所の五人で集まることもなくなった。学校の廊下ですれ違っても、声をかけもしなかったほどだ。
それ以降も変わらず近所に暮らしていたが、再び親しくなることはなかった。やがて、実希子は入社二年目に東京で一人暮らしを始め、しばらくして徹と再会したのだった。
突如、手すりから細かな振動が伝わってきた。モーターがうなりを上げる。首をめぐらせると、近づく街の明かりが見えた。船が接岸準備に入ったらしい。
「もうすぐ港ね。そろそろ中に戻った方がいいかしら?」
「そうだね。気分はどう?」
「もうすっかり平気」
「ほんとに? ……それなら言っちゃおうかな」
「なに?」
徹はひどく真剣な眼差しをしていた。普段は笑顔でいることの多い徹だけに、その表情は怒っているようにも見えて、胸の奥にさざ波が立つ。
「やだあ。なあに? 徹ったら、どうしたの?」
茶化すように問いかけたが、徹は真剣な表情のまま言った。
「実希子、結婚しよう」
汽笛が鳴り、舵が切られた。船の揺れによろめいた実希子は、徹によって素早く支えられた。
結婚――。
ディナークルーズに誘われた時から予感はあった。けれども、まさか今さらという思いの方が強く、当初の予感などすっかり忘れていた。
実希子はひどく狼狽し、視線を泳がせた。と、その時。
「あっ」
徹の肩越しに見える甲板に、小さな影が揺れていた。目が合った、と感じた。影は素早い動きでこちらへ向かってくる。実希子は体を硬くして身構えた。
「え? なに?」
異変を察した徹が、実希子の視線の先に目を向けた。同時に、影はふいと消えた。
実希子は震える声で呟く。
「……なにか、いた」
「なにかって?」
「わからない。暗いし。虫……かなあ。うん、フナムシだったのかも」
なぜ小さな影ひとつがこんなにも気になるのか、自分でもわからなかった。
「フナムシ? 磯にいるやつ? 船にはいないだろ」
「そうだよね。気のせいだったのかな」
徹は眉根を寄せつつ笑った。
「おいおい、ムードが台なしだなあ」
「あ。そうだったね。ごめん……」
甲板を走る影に敏感になるなんてどうかしている。ただの光の加減だろう。徹の言う通り、大切な場面を台なしにしてしまったことの方を気にするべきだ。
「まあいいさ。これはこれで記憶に残りそうだ。……で、返事はもらえるのかな?」
この日を待っていたわけでもないのに、心が浮き立っている。特に断る理由も見つからない。ならば。
「……よろしくお願いします」
うやうやしくお辞儀をすると、徹は小さく、しかし力強く、拳を握り締めた。
下船を促すアナウンスが流れ始め、余韻もそこそこにデッキを後にする。タラップを降りる際に再度甲板を振り向いてみたが、先ほどの小さな影はどこにも見当たらなかった。
*
「もしもし。お母さん?」
『やだ、あんた、いいところに!』
母の第一声を聞いて、実希子はこの電話で婚約の報告をすることを早々に諦めた。こちらから用事があってかけた電話だということは母の頭にないらしい。
「なによ。なんかあったの?」
『郁美ちゃんが』
「え? 誰?」
『郁美ちゃんよ。坪内郁美ちゃん。ほら、あんたたち、いつも一緒に遊んでいたじゃない』
「ああ……」
名前と髪の長い女児の姿が線を結んだ。幼馴染み五人組のひとりだ。たしかまだ実家で両親と暮らしているのではなかったか。もしや彼女も結婚するとか、そういう話なのだろうか。そんなことを思っていると、母は意外な言葉を告げた。
『亡くなったのよ』
「え? 亡くなった? 誰が?」
『だから、郁美ちゃんだってば』
「だって、郁美ちゃんって、私と同い年よ?」
『何歳だって病気や事故で亡くなることはあるでしょうに。まだ若いのに気の毒ねえ』
「病気なの? 事故なの?」
『お母さんもまだ知らないのよ。だって、そんなこと坪内さんに聞けないじゃない。明日、お通夜らしいから、あんた、行けるようなら行ったらどう? 徹くんにも伝えてちょうだいね』
まさにその徹の話をしようと電話をかけたのだが、訃報を聞いたあとで報告する話ではない。言葉にならない曖昧な返事をして電話を切ると、郁美のことを思った。
記憶の中の郁美は小学生のままだ。五人で過ごしたあの頃の記憶。ほかの三人の姿は思い描くことができる。郁美の顔だけが曖昧だ。なぜだろうとしばし考えて理由に思い至る。そうだ、後ろにいたからだ。郁美はいつだって実希子たちの後ろをついてくる子だった。でも。
にわかに記憶が鮮明になる。
でも、一度だけ、郁美が強く主張したことがあった。あの猫。みんなで猫を世話しようと提案したのは郁美だった。五人だけのあの場所で。
宅地開発の及んでいない地域に雑木林があり、実希子たちはその一角を秘密基地としていた。基地といっても、囲いや屋根などがあるわけでもなく、木々の間隔が開いていてぽっかりできた空間を秘密基地と称していただけだ。それでも〈秘密〉という名称がつくだけで、ただの空間はたちまち魅力的な場所に変わった。
秘密基地は、放課後の集合場所であり、遊び場だった。給食で食べきれなかったパンをかじったり、マンガを読んだり、それぞれが好き勝手なことをして過ごしていたものだった。
そこへ郁美がまだ目の開かない子猫を抱いてきたのだ。下校中にカラスに襲われているのを助けたとかなんとか言っていた気がする。郁美の顔と同様に、猫の姿も曖昧にしか思い出せない。薄汚れた白だったのか、黒だったのか、キジトラだったのか。覚えているのは、ただ小さく汚い塊だったことだけだ。それでも五人で大切に育てた。
あの郁美が。
驚きはしたものの、悲しみも寂しさも湧いてこないことに、仲らいを断っていた期間の長さを感じた。
*
翌日、実希子は仕事が終わると一旦帰宅して喪服に着替え、職場から直行する徹と落ち合うため岩倉台駅へと向かった。通夜は自宅ではなく、駅付近の斎場で行われる。
今は都内で暮らしているが、岩倉台駅までは一時間もかからずに行けるのだから、けして遠いというわけではない。けれども外出好きの母と会うのはいつも外だから、実家があるとはいえ、岩倉台に来るのはずいぶんと久しぶりだった。
駅前のロータリーの風景も様変わりしていた。ビルの壁面はくすみ、どこか寂れた雰囲気を醸し出している。道行く人の年齢層が高い。一度に同世代が移住してきたせいで、実希子や徹のように若い世代は街を出ると一気に街の高齢化が進んだのだろう。かつての新興住宅地に新しさは失われていた。
「お待たせ」
改札口を抜ける人波の中から徹が現れた。普段から着ているダークカラーのスーツに、ネクタイだけ弔事用のものに付け替えている。
「歩きでいいよな?」
「うん」
駅からバスも出ているが、歩いても十分足らずの距離だ。かつてバス通り沿いにはいくつかの店舗があるだけで空き地も多かったのだが、今は隙間なく建物が並んでいる。道は変わっていないはずなのに、暮れゆく街並みと相まって迷いそうになる。
斎場ではスタッフによって手際よく案内され、順路に沿って進むうちにあっさり焼香が済んでしまった。祭壇で遺影をじっくり見ることさえなかった。
焼香の順番が回ってきた際にちらりと遺影を見上げたが、懐かしさは湧いてこなかった。幼いころの面影があるのかどうかさえ判然としない。かといって見知らぬ顔というわけでもなく、記憶の上辺を掠めていくようなもどかしさだけが残った。
部屋の出口で配給のように香典返しを受け取り、先に焼香を済ませた徹と共に廊下を進むと、ざわめきに満ちた部屋に辿り着いた。長テーブルに寿司桶やビール瓶、ソフトドリンクのペットボトルなどが並ぶ通夜ぶるまいの席だ。飲食をしているのは身内が多いのだろうか、年配者の姿が目立つ。女性たちは故人とは関係なさそうな世間話に花を咲かせ、男性たちは酔っているのかがさつな笑い声を上げている。
供養のためには立ち寄るべきなのだろうが、どうにも居心地が悪そうだ。素通りを提案するために徹の腕に手をかけたところで、こちらに向かって手を上げる人が目に入った。徹と同時に「あ」と声をあげる。岩本健二だった。
健二のもとへ向かう徹についていく。
「健二も来てたのか。久しぶりだな」
「十年……いや、二十年振りくらいか? いやあ、わかるもんだな」
「すっかりオジサンの風貌なのにな」
「うるせえよ。お互い様だろうが。……で、こちらは、奥さん?」
健二が実希子に手を向けた。徹と顔を見合わせ、しばし見つめ合った後、同時に吹き出した。だが、すぐにここがどのような場なのか思い出し、慌てて笑いを収める。
「奥さんって、おまえ、それ本気で言ってるの? いや、まあ、そうなる予定ではあるけど」
「予定?」
「あ、いや、それはいいんだ。彼女は実希子だよ。瀬尾実希子。覚えているだろ?」
「実希子? え、あのみきちゃんか!」
健二の頭の中でどうにか過去と現在の姿が繋がったらしい。実希子は口元に小さく笑みを浮かべた。
「健二くん、久しぶり」
「おう、久しぶり。うんうん、言われてみれば面影がある……ような、ないような」
「えー。私、そんなに変わった?」
「ああ。全然わからなかったよ」
「オバサンになったとか言ったら怒るよ」
「言わない言わない……しかし、それに比べ……って言い方をするのもどうかと思うけど、郁美の遺影、見たか? ずいぶん老けてたな」
「ああ。実は俺もそう思った」
すかさず徹が同意したが、実希子は曖昧に頷くに留めた。
遺影に面影を見つけられなかったのはそのせいだったのだろうか。いつ撮った写真なのかわからないが、たしかにあれが最近の写真であったなら老けていると言わざるを得ない。ただそれは無気力そうな表情のせいではないかと思う。顔立ちの美醜の問題ではなく、好感の持てる顔ではなかった。あれよりほかにいい写真がなかったのだとしたら、郁美は満たされない毎日を過ごしていたのかもしれない。
喪章をつけた葬儀社のスタッフらしき男性が近づいてきて腰をかがめた。
「なにかお飲み物をお持ちしますか?」
徹と健二が互いに「おまえは?」と尋ねては首を振った。実希子も無言で首を振ると、徹が「ありがとうございます。結構です」と答えた。スタッフが立ち去るのを待って、健二が顎で出口を示した。
「……そろそろ行くか」
たまたま時間が重ならないだけなのか、斎場で同世代の弔問客を見かけていない。いるのは、明らかに郁美本人の知人ではなく、両親の関係者ばかりだった。
建物を出ても誰も別れの挨拶を口にしない。どこか腰を落ち着ける店でもないかと辺りを見渡してみるが、地元の飲み屋くらいしか見当たらない。けれども男性二人は場所にこだわりはないらしく、斎場に隣接したコインパーキングの隅で語り始めた。通りに面しているのに、少し奥まっているせいか、車の走行音は控えめにしか聞こえない。
連絡先の交換を終えると、健二が斎場を見やって言った。
「そういえば、絵里は来てないのかな?」
徹が首を振る。
「そういや見てないな。実希子は?」
「私も見てない。見かけても顔がわかる自信はないけど。とりあえず同年代の人はいなかった気がする。私たちより先に来ていた健二くんが見ていないなら、絵里ちゃんは来てないのかもしれないね」
子供のころは毎日一緒にいた五人だが、いまや散り散りだ。実希子、徹、健二、絵里、そして郁美。絵里は郁美の訃報を知らないのかもしれない。知っていたところで通夜に来るとも限らない。もう二十年近く交流を断っているのだから。
けれども健二はそうは思わなかったようだ。
「俺たちはずっと会わずにいたけど、親同士は変わらず近所なんだし、こういうことは連絡しているんじゃないのかな。俺も親から知らされたし」
「そうね。私もお母さんから聞いた」
「あれ? そういえば、徹はよく知っていたな。おまえんとこの親、どっかに引っ越しただろ?」
「ああ、伊豆な。父親が早期定年退職して、温泉付きの家で半自給自足みたいな生活をしているよ」
「だよな。でもって、おまえは東京だろ? それならどうして……って、え、おまえら、もしかして……? でも奥さんじゃないって……あ、でも、え、じゃあ『予定』って……そういうことか!」
健二は実希子と徹に向かって人差し指を行ったり来たりさせて、一人で納得している。笑ってその指先を見ていると、視界の隅をなにかが走り抜けた。
またあの影だ。
いや、もっと大きい。ネズミだろうか。
影を追って首を巡らせたが、すでに影は夜の闇に溶け込んでいた。代わりに、喪服姿の男性がこちらへやってくるのが見えた。
車道は赤信号なのか、車の走行音が途切れ、カツカツと小刻みに音が響く。小さな懐中電灯の強い明かりが、アスファルトを左右に揺れながら近づいてくる。男性は慎重な足取りだ。
カツ、カツ、カツ……
近づいてくる音は、左右に振られる白杖が地面を打つ音だった。徹と健二も音に気づき、彼の姿を認めたようだ。
「あれ? あいつ……」
徹が呟いた。
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