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「祈願成就」第4話(全10話)

 徹と並んで面会票に記入していると、背後から「みきちゃん」と声がした。絵里の母だった。事前に訪問時間を伝えていたため、ナースステーションの前の談話室で待っていてくれたらしい。

「本当に来てくれたのね。ありがとね」
「いえ。絵里ちゃんに会いたいですし」
「あの子も楽しみに待っているわ。えっと、そちらは……」
「ご無沙汰しています。刈谷徹です」
「刈谷って……あの徹くん? まあ、立派になって」
「いえ、そんなことは……」
「ご両親は元気?」
「はい。おかげさまで。気ままに暮らしているようです」
「それはよかったわ。あんなことがあったから、立ち直るのに時間がかかったでしょうけど」
「……ああ……はい」

 徹がわずかに眉根を寄せたことに絵里の母は気づかない。兄が自ら命を絶ったことから徹はまだ立ち直っていない。きっと当時すでに大人だった人にはわからない。年上だったはずの修の年齢を追い越し、どんどん引き離していく側の人の気持ちなんて。憧れていた存在を置き去りにして大人になっていく気持ちなんて。

 実希子はそっと徹の背を撫でた。筋肉が張って固くこわばっているのが布越しに伝わってきた。

「あらいけない。こんなところで話しててもしょうがないわね。絵里の病室はこっちよ」

 ナースステーションから三つ目の六人部屋に〈進藤絵里〉のプレートがあった。進藤姓のままだ。一人暮らしをしているとは聞いたが、独身なんだ、と改めて思う。徹との結婚が決まってから、今までは気にも留めなかった他人の結婚状況が気になる。自分のこととは何の関係もないはずなのに不思議なものだ。

 同室の患者たちに会釈をしながら窓際に向かうと、ベッドの上でノートパソコンのキーを叩いている女性がいた。

「ちょっとごめん」と顔も上げずに言った。「すぐ終わるから、このメールだけ送らせて」

 絵里の母が困ったように眉根を寄せた。

「ごめんなさいね。せっかく来てもらったのに。この子ったら、ずっとこの調子で」

 実希子たちは笑顔で首を振って、絵里の様子を静かに見守った。
 ギプスをしているのは右足だが、手首にも包帯を巻いている。手の方は捻挫だろうか。痛みがないわけではないだろうに、そんな手でもパソコンを操作し続けている。

 やがて勢いよくエンターキーを叩くと、そのままノートパソコンの蓋を閉じた。ようやく絵里と目が合う。

「みきちゃんが来てくれるとは聞いていたけど、まさか徹くんも一緒だとは思わなかったわ」

 絵里はまるで昨日会ったばかりの友人みたいに話しかけてきた。

「健二くんにも声をかけたんだけど、都合がつかなかったみたいで」
「へぇ。みんなは連絡とり合っているんだ?」
「あ、いや、健二くんとは、その、偶然というか……」

 病院という場所ではっきり言うのははばかれた。すぐさま察した絵里が小刻みに頷く。

「ああ、この前の、ね」
「うん。そう。この前の……あ、そうだ。これ、お見舞い」

 花束を手渡すと、絵里はお礼を述べてから母親に差し出した。

「お母さん、花瓶あったよね?」
「この前、洗って戸棚に入れたわよ」

 シャッと音がした。どこかのベッドでカーテンの引かれたようだ。
 ベッドサイドの小さな戸棚を漁る母親の姿を見ながら、絵里は声のボリュームを落とした。

「お母さん、お花お願いね。私たち、談話室で話すわ。……行こ」

 絵里はゆっくりではあるが慣れた動作で車椅子に移る。絵里が自分で車輪に手をかけようとしたが、徹はそれを制して車椅子を押した。

 談話室といっても壁で仕切られているわけでもなく、ナースステーションの向かいにある開放的なスペースのことだった。テーブルと椅子、飲み物の自動販売機、公衆電話、小さな本棚。あるものといえばそれくらいだ。
 整形外科の病棟は比較的元気な患者が多いと聞くが、まったくその通りに見えた。怪我の箇所を除けば他は健康だからなのだろう、動きは不自由そうだが将棋を指す人もあれば、笑い声を上げて語らう人たちもいる。内臓疾患とは違い食事制限もないのかスナック菓子や菓子パンを食べている学生らしき人もいる。

 実希子たちは絵里の指示で窓際の端に落ち着いた。怪我をしている人たちはいくつものテーブルを避けて奥までたどり着くのが手間なのか、窓際のテーブルはどれも空いていた。

「今日は来てくれて本当にありがとう」

 絵里は重々しい口調で礼を述べて頭を下げた。

「なんだよ、大袈裟だな」
「そうよ。急に改まってどうしたの?」

 病室での気さくな様子とまるで違う態度に戸惑いつつも、深刻になりすぎないように実希子も徹も笑顔で応じた。けれども絵里はあっさりそれを無下にした。

「……聞いてほしいことがあるの」

 身を乗り出し、一層声を落とした絵里の様子に、徹と顔を見合わせ、笑みを収めた。さっきまでの態度は、親を心配させまいとしての振る舞いだったことは明らかだ。

「あの日、私、見たのよ」

 絵里はそれだけ言ってうつむいてしまった。

 絵里の視線の先では、組んだ両手の指先が白くなっている。話始めるのを待つが、呼吸が早くなるだけで、口を開く気配がない。こちらまで絵里の動悸が伝わってきそうで緊張の限界だった。

「あの日って?」
「見たってなにを?」

 徹と同時に問いかけた。

 絵里が視線を上げて口を開く。

「……猫よ」

「猫?」

 またしても徹と声が重なる。顔を見合わせる。

 深刻な顔をしてなにを言うかと思ったら、猫を見た?

「あの日……郁美のお通夜の日、別にそのために帰ってきたわけじゃなかったの。母がね、ここのところ腰が痛くてつらいっていうから、買い物やら家事やらをやってあげようと思って。うちは父がいないし。私も有給休暇を消化しなきゃならないし、ちょうどいいやって」

 猫の話ではなかったのか。そう思ったが、話を遮らないように頷くだけに留めた。一度話し始めたら、絵里の舌は滑らかだった。

「私が夕飯の支度を始めようとしたら、夕飯は気にしなくていいから、郁美ちゃんのお通夜に行ってくればって言われたの。そのまま帰って平気だからって。だから簡単な夕飯を作って、家を出たのね。今さら小学校時代の友達のお通夜って行くべきなのかどうかわからなかったんだけど、母は行けそうもないし、うちから誰か一人は行った方がいいじゃないかと思ったの。斎場は駅までの通り道だし、ちょっと寄っていけばいいか、って」

 一世帯から一人行けばいいというのはわかる。実希子も瀬尾家代表の役を体よく母に押し付けられた気がしないでもない。それでも久しぶりに健二に会えたし、行ってよかったと思っている。余計な人物にも会ってしまったわけだけれども。

 話し始める前のためらいはどこへ消えたのか、絵里は頭の中のことを言葉に変換するのすらもどかしそうに早口に語る。

「母の手伝いが終わった時点で、その日私のやるべきことは終わった気分だった。悪いとは思うけど、正直、お通夜は形だけ参列すればいいやと思っていて。早く済ませてしまいたかった。だから近道をしようと思って、雑木林の横の階段を下りて行ったの」

 秘密基地があった雑木林だ。駅へ向かうバス停がある通りは広い歩道もあって歩きやすいが、雑木林をなぞるように大きく迂回しながら高台を下りていく。その半円を突っ切るように古い階段があった。そこを通れば歩く距離も短いし、下りならばバス通りを歩く時間の半分もかからないはずだ。絵里はそこの階段で怪我をしたと聞いている。

「いつもは駅までバスかタクシーで帰るから、あの道を通るのは久しぶりだった。古い街灯で明かりが暗かったけど、足元が見えないほどではなかったし、階段の上の方はまだよかったの。でも下っていくとどんどん道幅が狭くなってきて。雑木林の草や枝が階段にまではみ出してきているのよ。あの高台の辺りに住んでいるのも年配の人ばかりだから階段なんて使わないんでしょうね。そんなことに気づいたころにはもうだいぶ階段を下りていて、上の道に戻るのは面倒で……」

 子供のころでもあの雑木林はうっそうとしていた。間伐などしていない手つかずの林。地面は腐葉土でふかふかと柔らかく、晴れた日でもしっとりとした空気が満ちていた。奥の方に行けばクマザサやシダが生い茂って水辺もないのに雨上がりのような匂いがした。

 駅前の大通りへ続くコンクリートの階段も湿った色をしていた。おそらく新興住宅地になる前からある階段で、土地の持ち主が山の尾根に上るために造ったものだったのだろう。あの雑木林も住宅地になれば階段も新しいものに造り替えられたに違いない。けれどもまだあの雑木林があるというなら、階段も当時のままなのかもしれない。そんな道を日が落ちてから一人で歩く状況を思い浮かべて、実希子は自らの腕を抱いた。

「よく怖くなかったな」

 顔をしかめる徹に、絵里は「そりゃあ怖かったわよ」と言った。

「怖かったから小走りで下りて行ったの。自分の足音が聞こえると少しだけ怖さが和らいだし。そしたら、雑木林の奥からガサガサと音が近づいてくるの。そういえば奥に防空壕の跡があったなって思い出して、そこに誰かが潜んでいたのかもしれないとか、そういうことを一瞬で考えちゃって、足を早めたの。でも音が近づいてくると、それほど大きくないものが地面の近くを走っているような音なのがわかって。だから不審者とかではないなと思ってちょっと気が緩んでいたのかもしれない。……ガサッて音と一緒に影の塊みたいなものが飛び出してきたの。ちょうど私が次の一歩を踏み出すところに。なんだかわからないなりに、よけなきゃって意識が働いて、瞬間的に着地する位置を少しずらしたの。そうしたら、そこの段が緩んでいて、グラッとして……」

 情景がまざまざと浮かんで、実希子は思わず音を立てて息を飲んだ。両手で口元を覆って硬直していると、徹が背中を優しく撫でてくれた。けれど息を飲んだのは、絵里の事故に驚いたためではない。絵里が〈影〉と言ったからだ。このところよく現れるあの影と関係あるのではないかと思ったのだ。

 絵里は正座したような格好で十段近く落ちていったという。意識はあったものの、足を動かすと全身を突き抜けるような痛みが走り、何度も呻き声を上げたが、誰に届くわけでもない。這うようにして辺りに散らばった荷物を集め、自ら救急に連絡したそうだ。階段の上では先ほどの〈影〉がずっと佇んでいて、救急車のサイレンが近づいてきてようやく姿を消したらしい。

「大変だったな……それで、なんだったわけ? その〈影〉って」

 徹の問いかけに、絵里は指を何度も縦に振った。

「そう、それよ、それ。黒猫だと思うの。これくらいの」

 そう言って両手で拳大の空気を丸めた。

「そこで猫の話になるわけか」
「ただの猫じゃないわ。あれは……」

 絵里は顎を上げ、全身の痛みに耐えているかのようなかすれた声で言った。

「……私たちが死なせた猫よ」

 病院を後にして電車に乗っても、実希子と徹は言葉を交わさなかった。帰り道はわかっているし、沈黙に気を遣うほど短い付き合いでもない。
 乗換駅にはまだ早いのに、「降りようか」と徹が言った。頷いて電車を降りる。
 再び口を閉ざしたまま港まで歩いた。海を見渡す山下公園は親子連れやカップルで溢れていた。普段は人混みにうんざりする方なのだが、今日は心がほどけていく。
 海に向いたベンチに並んで腰かける。遊覧船が汽笛を鳴らして出航していった。

 徐々に小さくなっていく遊覧船を眺めつつ、実希子は口を開いた。

「あの話、どう思う?」

「猫の話? どうって、どう考えたって絵里の思い込みだろ」

 徹は問いかけにすぐに応じた。興味なさそうに言ったところで、徹も内心では気にしていたのは明らかだ。徹もずっとそのことを考えていたから、猫の件を指しているとわかったのだろう。

「思い込み、ならいいんだけど」
「死んだ猫が現れたって? 二十数年ぶりに? 生きていた猫だって二十年も経てばあの世に行っているよ。飼い猫とはわけが違う」
「猫にもあの世ってあるのかしら」
「知らないよ。そこ突っ込むかなあ」

 徹が困ったように笑うから、実希子も軽く笑顔を浮かべる。

 絵里は雑木林から出てきた影は黒猫だったと言っている。しかも小学生のころに秘密基地で飼っていた黒猫だと。郁美が拾ってきた野良猫の子。生まれたてで、目も開かないほど小さな子。それとも、もう目が見える時期にもかかわらず、なにかに感染していて目やにがひどかったのだろうか。それで瞼が動かなかったのだろうか。大人になった今でもその区別がつく自信はない。

 だけど、あの猫は死んでいるのだ。五人で見たではないか。徹がそう指摘すると、そのことは絵里も覚えていた。事実を認めた上で、同じ猫だと言ったのだ。

「変な話だって、自分でもわかってる。でもどうしても頭から離れなくて。だけど誰に話せばいいのかわからなくて。転倒した時に頭でも打っておかしなことを言ってるって思われるのがオチだもの」絵里は真剣な顔をしてそう言った。

 罪悪感なのだろう。絵里は、自分たちがあの猫を死なせたと思っている。育て方などわからなかったという意味では、たしかに死なせたのは自分たちかもしれない。動物病院に連れていて適切な処置をして、誰かの家で飼っていれば、あるいは死なずに済んだのかもしれない。
 厳しい見方をすれば、無知は罪かもしれない。ひとつの命を救えなかったという罪。だけどそれで『死なせた』とするのは思い詰めすぎではないか。

 けれども同じ言葉を聞いても徹は違う解釈をしていた。

「絵里はさ、あの時の黒猫を誰かが殺したと思っているんじゃないかな」
「え? 私たちの中の誰かがってこと?」
「うん。あ……いや、わからないけど、『死なせた猫』って言い方が引っかかるんだよな」
「放課後に秘密基地に行った時にはもう死後硬直していたじゃない。誰も猫の最期を見ていないはずよ」
「だよなあ。前日だってみんな一緒に帰っているんだし」

 前日は特に弱っている様子はなかったのだ。だからみんななにも気にせず、いつも通り猫を残して帰ったのだ。思うに、あの猫は生まれつき身体が弱いか、病気になっていたのだ。だから母猫は世話をやめたのではないだろうか。寿命だったのだと思う。

「それなのに」と、徹が言いかけて言葉を切った。

 言い淀んだまま口をつぐんでいるから、先を実希子が引き取る。

「絵里は誰かが殺したから呪われたと思っているわよね」

 徹が頷く。

「呪いなんて言葉、絵里の口から出るとは思わなかったな」
「そうね。そういうの信じないタイプかと思ってた」
「だよな。郁美ならともかく」

 郁美なら――そういえば、圭吾の口からも〈呪い〉という言葉が出た。普段の暮らしの中でそんな言葉を耳にする機会など多くない。子供ならまだしも、三十代の大人が真面目に口にする単語ではない。それなのに最近になって二度も聞くことになろうとは。

「あー! カモメー!」

 小学校低学年くらいの男の子が、繋いていた母親の手を離して海に向かって駆けていく。母親は慌てて追いかけ、柵の手前で背中から抱き締めた。
 海上の風に乗るカモメはキューキュー鳴いて、次々に氷川丸を係留している鎖にとまっていく。一羽残らず風上を向いて、隙間なく並んでいる。
 日差しは眩しく、風は穏やかで、呪いなんて言葉はこの世に存在しないように思えた。

 隣からフッと空気が漏れるような笑いが聞こえた。

「まあ、あれだな。絵里は怪我をしてナーバスになっているだけだろ。きっと後から理由をつけちゃったんじゃないかな」
「絵里ちゃんの作り話ってこと?」
「いや、そこまでは言ってないよ。黒猫が飛び出してきて、それをよけたら転んだ、そういうことなんだろうな。そこに昔のことを絡めて理由付けするのは、ちょっと飛躍しすぎなんじゃないかとは思うよ。第一、呪いなんて現代社会に存在すると思うか? しかも猫が呪うってピンとこないよ」
「でもほら、動物霊とかあるし」
「あるの?」
「あ、いや……どうかな。言葉としてはあるけど、存在するかって言われると自信ない」
「だろ? そうなんだよ。結局ありもしないものに怯えているんだって」
「うん。そうかあ。そうかもね」

 視線を遠くに飛ばすと、目の前の海面に黒い影が落ちるのが見えた。カモメの影かと思ったが、飛んでいるものは一羽もいなかった。魚影だろうか。川で見かける黒い鯉に似ている。だが海に鯉はいないし、そんな大きな魚が岸の近くに来るのを見たことがない。影は氷川丸の方へと泳いでいく。

 鎖にとまっていたカモメが一斉に飛んだ。バサァと分厚い布を広げたような音がした。男の子がはしゃいで叫ぶ。カモメの群れは公園を旋回し、海の彼方へ飛んで行く。

 カモメにつられたのか、背後の芝生を歩いていた鳩までもが一斉に飛び立った。羽が頭上を掠め、慌てて頭を下げた。辺りの女性たちが短い悲鳴を上げた。

 すべてはわずかな時間のことで、すぐに辺りは何事もなかったかのように動き出す。実希子が顔を上げた時には、どこにも鳥の姿はなく、波間を縫う影も見当たらない。自分はここから一歩も動いていないのに、迷子になったような不安に襲われる。

「さて。そろそろ行くか」

 立ち上がった徹から、手が差し伸べられた。その手を握ると少し心が落ち着いた。

「中華街で飯でも食ってこ」
「うん」

 岸壁から這い上がってくる影が見えた気がしたが、急いで目を逸らし、徹の腕に抱きついた。徹は腕を引き寄せて歩き出す。なにが食べたいかと聞かれる。えーとね、と回らない頭で考える。

 中華街の煌びやかな青龍門をくぐったころには影のことなど忘れていた。


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