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「祈願成就」第9話(全10話)

坪内圭吾


 岩倉台総合病院の裏手にある喫茶店は空いていた。NPOの運営する喫茶店で、障害のある若い子が従業員として働いている。コーヒー、紅茶とパウンドケーキくらいしか置いていない店だが、圭吾は以前からよく利用していた。料金は街中のカフェの半額程度だし、病院の長い待ち時間を潰すためにちょうどいいのだ。

 けれども今日は受診が終わり、会計も済んでいる。いつもならまっすぐ帰宅するのだが、今日は待ち合わせをしているため時間調整のためにこの喫茶店に来た。

 ホットティーとパウンドケーキを注文したのだが、アイスコーヒーが来てパウンドケーキはついてなかった。こういうところがこの店が空いている原因なのだろう。だが、圭吾はオーダーが変化するそんなところが嫌いではなかった。メニューを選ぶ際は欲しいものを自分自身に問いかけるのだが、待っていたものと違うものが現れた時の方が楽しくなってしまうのだった。

 グラスを倒さないように慎重に手を伸ばし、左手を添える。右手でストローを握って氷をカラカラと鳴らした。脇にはガムシロップとミルクのポーションが置かれているはずだ。ミルクを入れたいが、圭吾にはどちらがどちらだかわからない。ブラックのまま冷えたコーヒーを飲んだ。

 幼いころから目が悪かった。眼鏡をかければ問題なく過ごせたが、お決まりのメガネザルというあだ名で呼ばれるのがいやであまりかけていなかった。

 本格的に悪化したのは高校生になってからだった。眼球がえぐられるような痛みが続き、自ら病院に行って病名を知った。その際にカルテを見た医師が首を傾げた。今までどこにも通院していないの? 本当に? 小学生のころにはもう診断がおりていたらしい。進行し、ときには失明にも至る病気で、定期的な診察が必要だった。
 しかし、当時、母は医師が告げた『ときには失明にも至る』の部分ばかりが印象に残り、帰りに駅前で勧誘された宗教にあっさり入信した。

 父親は育児を母に任せきりだったから、母の言う「圭吾の目なら治るから」という言葉を信じていたのだろう。母が念仏のようなものを唱えているのは知っていたはずだが、信仰によって治癒するという意味だとは思いもしなかったに違いない。
 郁美は子供ながらに母の言動を理解していたようで、弟の助けになりたい一心でまじないに手を出したのだと、圭吾は後になって知った。

 そのころは、処方された点眼薬を使用して状態が安定し、視力も変化がなかったため、圭吾自身、それほど深刻にとらえていなかった。病状説明で最悪の事態を想定するのは当然のことだと思ったし、それは病院側の責任とか義務とかの問題で、実際はそれほど頻発する事例ではないという印象を受けた。とはいえ、自分の意思で通院できる年齢であったから、「今回も安定していますね」という安心感を得るために定期健診は受けていた。

 ずっと安定していたのだから、初診以降に母が圭吾を通院させていたとしても結果は同じだっただろうと思っている。もし違う結果が待っていたとしても、今さら確かめようもない。

 安定していると言われている時でも郁美は親身になって心配してくれた。高校生の時に痛みが出た際も、母は半狂乱になり念仏を唱える時間が増えただけだったが、郁美は眼科への受診を強く勧めた。郁美の後押しがなければあのまま耐えていたかもしれない。
 母と違い、姉はまじないを補助的な力、もしくは不安を少しでも建設的な行動に転換したかっただけなのだと思う。

 社会人になり、眼病は思わしくない変化をきたした。服薬や手術をすることもあった。
 そんな時も母は相変わらずで、支えてくれたのは郁美だけだった。事情を知っている親類や知人は、圭吾が両親を恨んでいると思っているようだが、そんなことはない。感謝などは微塵もないが、恨むに値する人だとも思わない。悪意のない、ただ弱い人間。それだけのことだ。そう割り切って考えることができた。それもまた、姉という支えがあればこそだったのだろう。

 その姉が、死んだ。

 おかしなことだが、視力が落ち続けている時よりも怖かった。郁美は自身の目よりもずっと圭吾の一部だった。

 郁美はいつも他人のことばかり気にしていた。魔女と呼ばれるのも、特別視されて仲間外れにされるのも、実は寂しかったのだと圭吾は知っている。だが、そんな立場を孤高の存在のように憧れの目で見られると、その役割に満足している振りをしてしまうのだと、悲しげに笑っていた。

 絵里のことだとすぐにわかった。悪気はないのだ。だから仕方ない。郁美はそう言った。たしかに絵里に悪気はないだろう。ほかのやつらだってそうだ。明確な悪意を持って郁美に接していた人はいないと思う。でも、だからといって郁美が傷ついていないことにはならない。

 絵里だけではない。幼馴染みたちはみんな同じだ。郁美を尊重する振りをして無視してきた。いないように振舞うことだけを無視と言っているのではない。そこにある問題から目を逸らしていることを言っているのだ。そして、そのことを通常は悪意とは呼ばない。

 姉が恨まなかったものを弟の圭吾が恨む筋はない。ただ、知ってほしかった。今さらどうにもならないとわかっているが、ただ、知ってほしかった。
 それで、実希子に姉の――郁美のノートを渡したのだった。

 あのメンバーの中で比較的郁美を苦しめていないのは実希子だったように思う。善意の人というわけではない。たぶん、深く考えていないから。
 善意と思って起こす言動が裏目に出ても、相手は受け止めるしかない。避ければ善意を無下にしたことになるからだ。その点、実希子は善意だの悪意だのを気にしたことがなさそうだった。
 人はそれを自分勝手というのかもしれない。それでも郁美にとって、もっともましな接し方だったという。

 郁美のノートを実希子に渡す前に、圭吾も電子拡大鏡を使って時間をかけて読んだ。
 小学生の書いたものだ。文字は読みにくいし、文章もわかりにくい。虚実入り混じっていて現実に起きたことなのか空想なのか判断がつかない部分も多いものの、全体としては、日記ともつかない日々のあれこれが綴られている雑記帳だった。

 魔女と呼ばれ、まるで人間とは異なる種族のように扱われていた郁美に、占いやまじないについて話しかけてくる人はいても、他愛もないことを話せる相手はいなかったのだろうと容易に想像できる。唯一の話し相手はノートの中の自分自身。返事もアドバイスもしないが、どんな話でもいつまでも聞いてくれる。ここだけの話と断らなくても秘密を吹聴することもない。ノートにはすべて話し言葉で書かれていた。語りかけていたのだ。

 そのノートを返したいと実希子から言われた。一度目はきちんと読んでほしくて突き返したが、二度目は、読んでから返す、という約束で受け取ることにした。

 実希子とその約束をしたのは、まだ絵里が入院していたころだ。病院のロビーで会った。
 絵里の見舞いを終えた実希子が病棟から下りてきて、会計待ちの椅子に座っている圭吾に声をかけてきたのだった。

「圭吾くん?」

 声掛けと同時に正面から顔を覗き込む仕草をしたが、圭吾にその目鼻立ちまでは判別できない。とっさのことに声を出せずにいると「実希子です」と名乗った。

「ああ、実希子ちゃんか。まさかこんなところで会うとは思いませんでしたよ」
「絵里ちゃんがね、入院してるの。それでお見舞いに」と言いながら隣の椅子に腰かけた。「あ、でも知ってるよね。おばさんと話していたものね」
「はい。話だけは聞いています。骨折、でしたっけ?」
「うん。そう。それでね、さっき絵里ちゃんと話していて思い出せないことがあったの。ねえ、圭吾くんはドワーフって知ってる?」
「えっと、ファンタジーに出てくる?」
「あ、うん、そうなんだけど、そうじゃなくて。子供のころね、ドワーフってあだ名のおじさんだかおじいさんがいたんだって。でも、私は覚えてなくて……。圭吾くんは知ってる?」
「いや……僕は実希子ちゃんたちと遊んだことはあまりなかったし……」

 と、言いかけて待てよ、と思った。そのあだ名って――

「そうだよねぇ。……ごめんね、急に変な話をして」

 立ち上がろうとする実希子に慌てて声をかけた。

「知ってるかもしれない!」
「え?」
「知ってるというか……正確には、姉のノートで読みました」
「ノート? 私が持っている郁美ちゃんのノートのこと?」

 実希子は浮かした腰を椅子に戻した。

「はい。でも、あれはてっきり姉の空想の部分だと思ったんですが」
「空想?」
「やっぱりまだ読んでないですか?」
「うん。なんだか、その……怖くて」

 実希子の口調から、死んだ人の書いたものなんて気持ち悪い、と聞こえた気がしたが、今は気にせず言葉を続けた。

「あのノートって、思いついたままに書かれているみたいで、現実と空想がごちゃ混ぜなんですよ。……あれ? でもおかしいな。やっぱりドワーフって空想のはずなんじゃ……」

 一度、郁美が不審者に接触されたとのことで警察に通報されたことがある。絵里が目撃したのではなかったか。そうだ、ホームレスの男に抱き寄せられた郁美が泣いていたとか。

 しかし、それは郁美のノートによると別の話になる。学校で孤立していることをドワーフに相談していたのだ。クラスメイトが、占いやまじないなどの情報が欲しい時にしか話してくれないと。まれに関係のない会話をすることもあったが、そんな時は絵里が話を遮ると。そんな話、魔女である郁美が楽しいわけないでしょ、と。それが悲しいと。絵里は良かれと思って言ってくれたのに、それに感謝できない自分にも悲しいと。そう言って泣いた。ドワーフは「郁美は悪くない。絵里の優しさを受け入れようとする優しい子だ」と慰めてくれたという。

 ドワーフは郁美の空想なのだから、泣いて慰められているシーンも現実ではないはずだ。考えにくいが、仮に郁美がその空想を絵里に話したことで、絵里があたかも目撃したかのような錯覚に陥ることはあるかもしれない。だとしてもだ。それなら、そのシーンの意味するところが誤解されることはない。

 どうなっているのかさっぱりわからない。

「ノートを読んでみてください」
「でも……」

 この女はこの期に及んでまだ幼馴染みの雑記帳を気持ち悪いというのだろうか。胸の内にとげとげしいものが生えてくる。

「実希子ちゃんが読んだ後なら返してくれていいですよ」
「ほんと?」

 身を乗り出したらしく、耳元で声がした。

「はい。その代わり、本当に読んでくださいね。一回でいいですから」
「うん。読むよ。いつ、どうやって返せばいい?」

 互いに連絡先を知らないことに気付く。かといって、このように訊くということは、圭吾に自分の連絡先を告げるつもりはないのだろう。圭吾も、今後付き合うこともない人に連絡先を教えるのは多少の抵抗がある。

「では、先に会う日を決めましょう。そうですね……一週間後……いや、確実に読み終わったころにしましょう。二週間後に岩倉台の雑木林の前はどうですか?」

 実希子がどこに住んでいるか知らないが、岩倉台まで来てもらうのは悪い気もした。せめて駅前の店でも指定できればいいのだが、いかんせん、この目では、人混みで待ち合わせをするのは骨が折れる。幸い、実希子は気にする様子もなく、提案を受け入れてくれた。

「わかったわ。じゃあ、二週間後に」


 今日がその約束の日だ。

 バス停に降り立つと、木々のざわめきが聞こえた。雑木林を抜ける風が鳴らす音だ。実希子は反対側の階段辺りにいるはずだった。圭吾は白杖の先を滑らせて足元を確認した。かさりと乾いた音がする。枯葉が積もる季節になったらしい。

 この辺りはバス通りでも交通量は多くない。住宅街へ道を折れれば、ほとんど車は来ない。
 静かだ。この街はいつだって静かだ。かつて空襲があったころも、静かに暮らす人たちがいたはずだ。ひと山まるまる新興住宅地であるこの地域には、古くからの土地所有者はいない。

 小学校では〈いわくらだいのいまとむかし〉という冊子が配られ、地域の成り立ちを学ぶ郷土史の授業のようなものがあった。どこの小学校でも似たようなことをしていたようで、別の小学校では地域のお年寄りから戦争中の話をしてもらったと聞いたことがある。
 ここでは教える方も教わる方も過去の記憶などない。残された古い地図や防空壕跡などを見て、当時を知るしかなかった。
 小学校の裏にも防空壕跡があり、そこを見学した。粘土質の地層は子供の背丈ほどにくり抜かれたトンネルになっていて、光の届かない奥の方でぴちょん、ぴちょん、と水が垂れる音がしていた。安全のため入り口には鉄の柵がはめ込まれており、子供たちは錆びた細い棒を握り締めて暗闇を覗き込んだ。穴は行き止まりだったはずだが、吹き込んだ風が折り返してくるのか、ひんやりと冷たい空気が苔の匂いを乗せて漂ってきた。

 あのころの岩倉台には雑木林や防空壕跡はいくつもあったが、中学や高校でなんの気なしに話すと、周りはそろってそんなものはなかったと言った。よく聞けば、空き地や原っぱならあったという。岩倉台にはそういう開けた空間はなかった。岩倉台にあるのは物陰。なにかが潜んでいそうな目の届かない部分。
 そんな場所があったから秘密基地なんてものも作れたのだろう。原っぱの真ん中にある基地など秘密でもなんでもない。

 階段に続く道の角に赤い布らしきものが風に揺れているのが見えた。白くかすんだ視界の中で、圭吾が認識できるのは色濃いものだけだ。それでも輪郭はぼやけていて、なにかがあるということしかわからない。

「こんにちは」

 赤いものから実希子の声がした。秋らしい色合いの服装をしているのだろう。

「こんにちは。ずいぶん早くないですか?」

 よその町から来るのに待たせては悪いと思い、圭吾は早めに来たつもりだった。

「うん。気になることがあって早く来たの」
「それって、ノートに関係あることですか?」
「そうなの。どこから話したらいいかしら……」

 実希子が言い淀んだまま口を閉ざしたので、圭吾は先を促すつもりで問いかける。

「ノートは読みました?」
「読んだわ」
「それで?」
「なんていうか……信じられなくて」
「実希子ちゃんが信じようが信じまいが、姉が苦しんでいたのは確かなんです」
「あ、うん。それはわかるっていうか、読んでみて、やっぱりって思った」
「わかる? 気づいていたってことですか? 姉が仲間外れにされていたって?」
「もちろん、みんなに悪気はなかったと思うけど、郁美ちゃんが魔女って呼ばれることや特殊能力を持っている人みたいに扱われるのを嫌がっていたのはなんかわかったかな」
「わかっていて、実希子ちゃんはなにもしなかったんですか?」
「私がなにをすればよかったっていうの?」

 反論ではなく、純粋な疑問のような口調だった。圭吾はそれには答えず、ひとつ息をついた後に、話を促した。

「信じられないっていうのは?」
「みんなが願った内容よ。だって、あんな呪いみたいなこと」

 たった一度、幼馴染みたちのために行ったまじない。その時の様子も記されていた。箇条書きの作業記録みたいな記述。一人ずつ行ったため、互いの望みを知ることはなかったのだろう。ただ一人を除いては。

 まじないを取り仕切る郁美だけは立ち合っていたわけで、手順の中で願いごとを囁くように述べる必要があった。囁き声は通常の発声と異なるため、異界と通じやすくなるのだという。だから当然、脇に立つ郁美の耳にはその内容が届く。郁美はノートに記した。それをどうにかしようとしたわけでもあるまい。純粋に覚書だったのだと思う。

「そうですね。実希子ちゃんだけは純粋に願いごとをするつもりだったんですよね。結局怖くなったみたいですけど」
 実希子はそのことについては触れず、「みんな誰かにいなくなってほしかったのね」と呟いた。

「いなくなってほしいと願ったのは絵里ちゃんだけでしょう。高圧的な父親を恐れ、疎んでいた。徹くんはたぶんお兄さんのささやかな不幸を願っただけじゃないですかね。犬の糞を踏むとかそんな。健二くんに至っては自分の性癖を満たすための機会を求めた……」
「たしかに、みんながそんなことを考えていたっていうのは驚いたけど、もっと信じられないのは、それが叶ってしまったことよ」
「叶った? まさか」
「圭吾くんだって知っているでしょ? 絵里ちゃんのお父さんは失踪したし、徹のお兄さん……修くんは受験に失敗してあんなことに」
「それとこれは」
「それに、健二くんの願いごと……」
「ああ……『もっと大きな生き物を傷つけたい』でしたっけ?」
「そう。それってもしかして」
「ちょっと待ってください。もしかして、先日の事故のことを言っています? 息子さんを撥ねてしまったことを」
「だって、そうとしか考えられないでしょう?」

「考えられなくないですよ」あまりの発想に返答がおかしくなる。
「だって、小学生くらいの男の子なら、ちょっと残酷な面もありますって。まだよくわかっていないんですよ。それに、今さら叶うなんて期間があきすぎじゃないですか?」

 なぜ健二をかばうのか自分でもわからなかったが、もしかしたら、そんな大それたことに姉が加担していたと思いたくないのかもしれない。

「期間なんてあるのかしら? 賞味期限や有効期限が? 呪いに?」
「呪いじゃなくて、おまじないでしょ?」

 些細なことを修正してしまう。実希子は「残念だけど」とでも言いそうなため息をついた。

「修くんが亡くなったのだって、あれからずいぶん後のことよ。願ったのは私たちが六年生の時だから、当時、修くんは中三。大学受験の失敗どころか、高校受験もまだだったわ」

 実希子はあの出来事を『亡くなった』としか言わない。自殺。縊死。そんな言葉は生々しすぎるから。

「でもそんなことを言ったら、実希子ちゃんの願いは」

 と言いかけて、はたと気づく。そうだ、実希子が願おうとしていたのはおそらく修との結婚。少女らしい夢。しかし、実希子は願わなかったし、願っていたとしても叶うはずはなかった。
 相反する願いがあった場合、どのように優先順位がつけられるのだろう。そんな疑問が浮かぶが、いつの間にかまじないが成立している前提で思考していることに気付いて震えた。


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