「祈願成就」第7話(全10話)
刈谷徹
ドワーフという呼び名を久しぶりに聞いた。
「ああ、そんな男がいたな。防空壕の跡に住んでいた人だろ?」
「徹も覚えているの?」
洗い物を終えた実希子が、両手にコーヒーを入れたマグカップを持ってソファにやってきた。いつだったか実希子の誕生日に徹が買ってあげたソファだ。気に入っているから新居にも持っていくと言っていた。
「まさか全然覚えてないとか言わないよな?」
「言うよ。全然覚えてないよ。なんでみんな覚えてるの?」
一人で絵里を見舞いに行った際、ドワーフの話をされたというのだ。自分は覚えていないから絵里の勘違いじゃないかという実希子に、どうやったら思い出させることができるのだろう。むしろよく忘れられたものだと感心する。
実希子のこういう緩んだ感じが心地いい。結婚してもいちいち小さな衝突をしないですみそうだ。
徹はコーヒーをひと口飲んでから言った。
「だってなんていうか、すごく特徴的な人だったよ」
「防空壕に住んでいたこと?」
「うん。それもそうなんだけど、片手がなかっただろ。手首から先だけ。残った部分も木炭みたいに黒くなってて」
「ドワーフって、手がなかったの? それは……戦争で?」
実希子はまるで自分の手が消えてしまうのを恐れているかのように、両手で包み込んでいたマグカップをそっとテーブルに置いた。ことりと小さな音がした。
「おそらくそうなんだろうな。確かめたことはないけど。手のことだけじゃなくて、ほとんど口を訊いたことはなかったし」
「そうなの? それなのに覚えているの?」
「俺たちは直接話していないんだよ。ただ、郁美はよくドワーフと一緒にいたな。あいつ、魔女とか呼ばれて、クラスの女子におまじないを教えたりしてただろ」
「うん。してたね」
「あれってほとんどドワーフから教わったらしいぞ」
「へぇ。そうだったんだ……知らなかった」
「ドワーフのそうところもさ、得体が知れないっていうか、怖かったんだよな。それに、今思えば、その感覚は正しかったのかもしれないな。……実希子もあの事件は覚えているだろ? 郁美が変な男に抱きつかれていたとかで、大人たちが不審者探しを始めてさ」
発端は絵里だった。
ルールを決めていたわけでもないが、たいてい秘密基地を出るときはみんな一緒だった。あそこはみんなの秘密基地であって、抜け駆けは許されないという暗黙の了解があったからだ。
雑木林を抜けて舗装された道路に出たところで手を振り合うと、夢から覚めた気分になったものだ。木々の影になっている秘密基地はすでに薄暗かったのに、街はまだ夕暮れが始まったばかりの色合いで、異界から生還した冒険者のつもりだったのかもしれない。
絵里が事件を目撃したその日も、秘密基地を出た時は全員いたはずだ。いちいち人数を数えたわけではないが、五人しかいないのだから、誰かが足りなければすぐに気づく。
「あった、あった。うん、覚えているよ。たしか絵里が騒いでいたんだよね」
「そう、それだよ。あれはどうやらドワーフのことらしいんだな。ドワーフが郁美のことを撫でたり抱き締めたりしているのを見たんだって」
話しながら、今まで気にしていなかったことが引っかかった。
絵里はなんのために秘密基地に戻ったんだ? 郁美が戻ったのはドワーフにまじないのことで聞きたいことができたとか、ドワーフが一人で戻ってくるように指示したとか、それなりに説明がつく。それが事件に繋がってしまったわけだが、そこに矛盾はない。けれども、その場に絵里までいることの理由がわからない。
「やだあ、怖い。気持ち悪い。でも当時はその意味をよくわかっていなかったから、なんとなく不気味って印象だけだった気がする」
「そうだよな。俺も、やっぱあのおじさんは変な人だったんだって納得したんだけど、そんなに重要なことだとは考えなかった。今なら大人たちが必死になって探していたのが理解できるよ」
絵里は秘密基地に戻ったりはしなくて、あの事件はでっち上げだった可能性も考えられる。なぜなら、その後、大人たちがどれほど探しても――警察が動いても、該当する男は見つからなかったのだから。
あの事件を境に、ドワーフは姿を消した。警察は防空壕跡も調べていたが、人が暮らしていた形跡はなかったという。
「あのころは変なおじさんって結構いたよね。学校の帰りにトレンチコートの下が全裸っていう男の人に遭遇した友達がいたよ」
それはまた少し違うケースだと思うが、徹は「そうだったね」と頷いた。
小学生時代のことだ。事件以降の記憶しかないとすれば、実希子がドワーフのことを覚えていないのも不思議ではない。同じ時間を過ごしたとしても、そこにいた誰もが同じように記憶しているわけではないのだ。
実希子が忘れてしまった理由のひとつに思い当たることがある。
あのまじないの儀式だ。
あれに実希子だけは加わらなかった。だから当時の記憶の鮮明さに差があるのではないだろうか。実希子が忘れたのが特別なんじゃない。俺たちが覚えていることの方が特別なのだ。忘れられない体験をしてしまったがために。
秘密基地に行くときには五人そろっているのが当たり前だったから、実希子もその場にはいたのだと思う。頭の中で過去に焦点を合わせると、当時の情景が徐々に鮮明になってきた。
そうだ、たしかに実希子もいた。それで今しがたのように「怖い、気持ち悪い」と言って、儀式に参加しなかったのだ。
左肩に重みを感じて目をやると、実希子が眠りにつくところだった。こんなところで寝かせるわけにはいかないが、あまりにも無防備な顔に子供のころを思い出して、しばらくこのままでいようと思った。
まったく、実希子は変わらないな。
これもやはりあの儀式を経験したかどうかの違いなのだろうか。
徹はなるべく左肩を動かさないようにそろそろと右腕を伸ばしてマグカップを手に取った。コーヒーをひと口。ふた口。
マグカップを両手で握りしめたまま膝の上に軽く置く。
耳元で規則正しい息づかいが聞こえ始めた。
徹は浅く長い息を吐いて、ひとり過去に思いを馳せた。
すべての始まりは、郁美が猫を拾ってきたことだ。
秘密基地での解散はみんな一緒だったが、集合はばらばらだった。それぞれクラスも違ったし、同じクラスの友達と下校していたからだ。
日によって到着順は変わったが、郁美が一番乗りであることが多かった。郁美は絵里と同じクラスだったこともあるはずだが、誰かとつるむのは性に合わないのか、学校で見かけても郁美はだいたいひとりだった。
夏休みも間近のその日は、徹のクラスは担任の都合かなにかで、帰りの会が省略されて早々に下校できた。廊下も昇降口も通学路もほかのクラスの子は誰もいなくて、嬉しいような、怖いような、妙な気分だったのを覚えている。
だから当然、秘密基地にも一番乗りで到着すると思われた。だが、いざ着いてみると、すでに背を向けて地べたに座り込む郁美がいた。長い髪は腰のあたりまで伸びていて、毛むくじゃらの生き物がいるようにも見えた。
「なんだよー。また郁美が一番乗りか」
ランドセルを下ろしながら大きめの声をかけた。この時期、雑木林は蝉の声がうるさく、声を張り上げないと会話もできないほどだった。
郁美の肩がぴょこんと跳ねた。尻が地面から浮いたのではないかと思うくらいの跳ね方だった。大きな反応に笑っていると、ようやく郁美が緩慢な動作で振り向いた。両手をクロスさせ、胸になにかを抱えている。
「あれ? なに持ってるの?」
近づいて覗き込むと、郁美は両手の囲いを少しだけ緩めた。中に、真っ黒な塊がいた。徹にはそれがなんなのか認識できなかった。
「ねえ、それなんなの?」
「……猫」
この塊のどこをどう見れば猫の形になるのかわからず、角度を変えて眺めてみるが、どこも真っ黒で頭と尻の区別さえつかない。
「俺にも抱かせてよ」
「だめ」
「なんでだよ、ケチ」
「えっと……この子が、怖がっているから」
そう言って、また外から見えないように両手で囲い込んだ。
郁美はじっと猫を抱いたまま黙り込み、徹は膝を抱えて座り、辺りの草をブチブチ千切った。いつもは落ち着く空間なのに、今は居心地が悪くてたまらない。
気まずい沈黙が続き、座り込んだままの足がしびれてきたころ、ようやく草を踏み分けて近づく足音が聞こえてきた。
誰だろう? 健二だといいな。でもこの際、実希子でも絵里でも構わない。この居心地の悪さを消してくれるのなら誰でもよかった。
しかし現れた人影を見て、誰でもいいなどと思ったことを取り消したくなった。
「どうだ? そろそろ暴れなくなっただろ?」
崩れたドレッドヘアみたいな頭髪。体に貼り付いているのは、ミノムシのミノを思わせる重なり合った布。――ドワーフだった。
この男が自分たちの秘密基地を自由に出入りするのが嫌だった。だが、徹たちがこの空間を秘密基地にするずっと前から、ドワーフは雑木林の中にある防空壕跡で暮らしているのだから、こちらが出て行ってくれなどと言える立場ではない。それどころか逆に追い出されても文句は言えない。雑木林だって誰かの土地で、そもそもどちらにも占有する権利などないことを当時の徹は知らなかった。
「見て。落ち着いてきたみたい」
郁美が声を弾ませた。今度こそ猫を抱かせてもらえるのかと喜んだが、郁美の目は徹ではなくドワーフに向けられていた。
「ああ。いい感じだ。やっぱり君は素質があるんだな」
「でもこのためにドワーフが」
郁美がどこか痛むような表情でドワーフの左手を見る。
「これか。気にするな」
ドワーフは左手を胸の高さまで上げた。土の色とも草の汁の色ともつかない袖が、それ自身の重さで肘に向かって落ちていく。汚れの色とは異なる、焦げのように黒ずんだ手首があらわになる。
その瞬間、体の奥底に鋭い痛みと強烈な冷気を感じた。胃が捻じれ、心臓が凍った気がした。痛みは嘔気に変わっていき、冷たい痛みだけが胸の奥に滞っていた。
ドワーフの。黒い手首の。
ドンと太鼓の音が腹に響いたかのような太い衝撃があった。
手首の、その先にあるはずの左手はなかった。
今しがたの郁美とドワーフのやり取りを反芻する。子猫がおとなしくなったこと、そのことにドワーフが関係しているらしいこと、失われた手首より先。これらの意味するものはなんだ?
考えられるのは猫に齧りとられた可能性。いや、あり得ない。虎やライオンならともかく、子猫だ。それこそドワーフの拳ほどしかないではないか。
そこではたと、ひとつの可能性に思い至った。
――拳?
ドワーフの。黒い手首の。その先の。左の――拳。
黒い手と……黒い、拳大の、子猫。
まさか。
喉元まで心臓がせり上がってきたかのようにドクドクと脈打ち、呼吸が乱れる。
ありえない。そんなことがあるはずない。そう思いながらも疑念を拭えない。
郁美の腕の中を覗き込んだときに猫の姿と認識できていれば、こんなばかな考えは浮かばなかったはずだ。そうさ、もう一度ちゃんと見れば。
けれども体中の力が抜けて動けなかった。
そんな徹の様子にドワーフが気づいたそのとき、賑やかな声が近づいてきた。みんながやってきたのだ。ドワーフは郁美に向かってひとつ頷くと、雑木林の奥へと去っていった。
「わあ! 郁美ちゃん、それ、どうしたの?」
「ちいさーい! かわいいー」
絵里と実希子が声を高くして騒ぐ。健二も嬉しそうな笑顔で郁美のそばに寄った。
「猫。拾ったの」
郁美は徹に見せたときのように少しだけ両手の囲いを緩めた。
「かわいいねー」
「ちいさいねー」
「真っ黒だねー」
なぜだ? なぜ、みんなには猫に見えるんだ?
「どうしたの、この子? お母さん猫は?」
「ひとりだったから迷子かも。カラスに襲われそうになっていたから連れてきたの」
「そっかぁ、猫ちゃん、危なかったね。助けてもらってよかったね」
体を操縦する気分でゆっくりと輪に近づくと、郁美と目が合った。
「徹くん、抱いてみる?」
「いや……いい」
今さら言われても、もう触る気にはなれなかった。
しかし、ほかの三人は徹の返答など耳に届いていないらしく、興奮気味に身を乗り出した。
「わあ! 抱く、抱く!」
「私も!」
「俺だって!」
みんなに順に抱かれる〈それ〉は、たしかに黒い子猫に見えた。
徹は遠目に眺めながら、腕や足にとまるやぶ蚊を叩き続けていた。
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