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「死ねない死者は夜に生きる」第3話(全14話)

 三日経ち、颯は苛立っていた。
 咲と連絡がつかない。
 電話をかけても電源が入っていないし、メッセージを送っても返信がない。
 いったいいつまで臍を曲げているんだ。結婚を渋ったくらいで。
 それともなんだ? 結婚が目的なのか? 結婚に至らないのなら俺といる意味はないのか? 俺はただ咲といられればそれでいいのに。

 おそらく初めてだろう、颯は咲に不満を感じていた。失望といっていいかもしれない。愛らしく思えた子供っぽさは未熟さに映り、苛立ちが一層募った。
 だが、颯は気付いてしまう。その苛立ちは咲を嫌悪する気持ちから発したものではないことに。咲に対し不満を感じながらも変わらず求めてしまう自身の心に怒りに似たなにかを感じるためだった。

 会ってゆっくり話をしよう。そうだ、なにかプレゼントもしよう。誕生日は過ぎてしまったけれど、まあいいだろう。なにをあげたら喜んでくれるだろうか。いや、きっとまずは驚くはずだ。なにか裏があるのではないかと疑うかもしれない。そんなまだ見ぬ光景が鮮やかに目に映る。咲の声の抑揚や表情を思い浮かべただけで、颯は吹き出してしまう。あたかも今ここで起きたことのように感じられた。
 改めて思う。咲に会いたい。

 それから四日、五日と経ち、ついに次の週末が来ても咲と連絡はつかなかった。
 既に不満も苛立ちも燃え尽きて、不安だけが燃えかすのようにくすぶっている。
 さすがになにかあったのではないかと落ち着かない気分になってきた。しかし、颯は咲につながるものを電話番号とメッセージID以外に持たない。これまでそれで不便を感じたことはなかったし、二人がそれほど細い糸でしか繋がっていなかったことに気付きもしなかった。友達や家族の話はよく聞かせてくれたから、まるで颯も知人であるかのような錯覚に陥っていたが、実際は会ったこともなければ連絡手段さえないのだ。咲本人が電話にも出ず、メッセージも寄越さないとなると、一切の繋がりは断ち切られる。

 俺たちはそんな繋がりしかもたなかったのか――。

 手繰り寄せるべき赤い糸が見えたなら、どこまでも辿っていくのに。

 そんな感傷にふけっていたら、電話が鳴った。ディスプレイに咲の名前が表示される。
 胸が高鳴るどころか、心臓がねじれそうになる。焦りで震える手でどうにか通話ボタンをタップした。

「咲、おまえ、なにやってんだよ! 心配したんだぞ!」

 安心感のあまりに責め立てる俺の声に、先方の喉を詰まらせたような小さな声が重なった。

『あの――』

 答えたのは咲の声ではなかった。もっと年配の女性の声。

『咲の……咲と、お付き合いしてくださっていた方、でしょうか?』
「え? あ、はい、そうです、けど?」

 ねじれかけていた心臓がキンと冷えた。
 誰だ、この女? なぜ咲の電話番号でかけてきた? なぜ俺と咲のことを過去形で聞く? 咲と別れたつもりはない。
 ――だとするならば、だ。

『咲の母です。娘がお世話になりました』
「あ、いえ、こちらこそ。あっ、どうも初めまして。今までご挨拶もせずに――」

 なんだこれは。なに呑気に挨拶なんかしているんだ、俺は。

『いえ、そんなことはもう』

 だから、なんなんだ。過ぎたことみたいに言うな。
 颯が無言になったことを気にする様子もなく、咲の母はメモでも読み上げるかのように平坦な声で続ける。

『咲は――』

 おそらく、一拍ほどのわずかな間だったのだろう。けれども颯にはやけに長い沈黙に感じられた。言葉の先が気になりつつも、このまま聞かずに済ませたいと思った。
 続くであろう言葉が頭に浮かぶ。慌てて追い払う。しかし、払っても払ってもその絶望に満ちた言葉は何度でも甦ってきて――そして、ついに告げられた。

『咲は、一週間前に亡くなりました』

「――ナクナッタ?」

 未知の言語に触れたような颯の反応に、咲の母は淡々と答えた。

『亡くなったといいますか、亡くなった“らしい”といいますか……』

 おそらく颯に話す前に何度も繰り返してきたセリフなのだろう、無感情な口調に似合わず滑らかに詳細を語った。

『一応、行方不明ということになっています。ただ、無事でいる可能性は低いと言われました』
「いったいなにが……?」
『海に落ちたようです。警察によると、事件や自殺ではなく、事故のようだとのことでした。磯で遊んでいた地元の子供が、落ちていたスマートフォンを見つけて、近くの交番に届けたらしくて』

 その地名は颯のマンションから数分の、コンビニの前の道路を渡ったところにある海だった。

『私が電話をかけたらお巡りさんが出て。私もね、あの子が落し物をしただけだと思ったんですよ。お付き合いしている方がその辺りにお住まいだとは聞いていましたし。だからね、ひとまず私が受け取りに行って。あとは、咲が帰ってくるか、スマホを落としたことに気付いて自分の番号宛に電話をかけてくるのを待っていればいいって思ったんです。でも――』

 帰ってこなかったんです、と声にならない声が聞こえた気がした。
 颯は深く息を吐く。ひどく苦しかった。

『よく、警察ってなかなか動いてくれないっていうじゃないですか。でもね、そのお巡りさんはね、なんか引っかかるものがあったとか言って、スマホの落ちていたという磯の辺りを見に行ったんですって。私は頼んでないのよ。だって咲になにかあったなんて思いもしなかったんですもの。なのに、お巡りさんったら、頼んでもいないのに……』

 滑らかだった口調が乱れた。

『浅瀬にね、なにか沈んでいたんですって。結局それは咲のバッグに入っていた化粧品とかそういう水に浮かないような物とかだったんですけど。落としたばかりだから流されもせず、砂に埋もれもせずに見つけられたんだろうって。そんなこと、どうでもいいですよ。それからなんだかんだって警察の方で勝手に進めて、最終的には――』

 行方不明。無事でいる可能性は低い。そう言われたとのことだった。
 その口ぶりは、もう――。

 座っているはずなのにグラグラと揺れている身体を持て余していた颯に、咲の母は『だから』と妙に明るい声で言葉を続けた。

『あなたの方に咲から連絡あったら、必ず知らせてくださいね』

 そして自身の電話番号を告げると、電話は切れた。

 咲からの連絡が? 俺に? あるはずがない。この一週間で思い知ったばかりだ。俺たちをつなぐ糸がどんなに細く頼りないものだったのかを。

 第一、警察から告げられた言葉は、あれの意味するものは、もう――。

 あの時、俺が追いかければよかったんだ。夜の磯なんて、足を滑らせたらひとたまりもないじゃないか。
 きっと海風に当たって冷静になろうとしたのだろう。その光景は容易に想像できた。気持ちが落ち着いて、もう一度俺と話そうと思ったのだろう。コンビニで飲み物でも買って帰ろうか、そんなことを考えたかもしれない。
 踵を返して、足を滑らせ……もしくは、踏み外し、海へ――。

 その瞬間、咲はなにを思ったのだろう。俺のことを考えたまま落ちていったのだろうか。

 追いかけておけば……いや、こんなことになるなら、結婚くらいすればよかった。そうだね、結婚しようか、そう言えばよかったんだ。

 恋人なんて所詮他人だ。相手がこんな目にあったというのに、なにも知らされない。伝えるべき人物として探し出されることもない。「あなたの方に咲から連絡あったら、必ず知らせてくださいね」との言葉は手当たりしだいにかけまくっているに違いない。友達や同僚やほとんど接点のない知人にまで。もしこれが、行方不明などではなく、もっとはっきりとした悪い知らせだったなら、俺がそれを知ることはなかったかもしれない。咲の家族はもちろん、彼女と共通の知人などいやしないのだから。

 まさかこうなることを予期していたわけではないだろうが、咲はこの危うい関係に気付いていたのかもしれない。だからあんなに向きになったのだろう。
 今ならわかる気がする。俗物的ではあるけれど、やっぱり社会的にも結ばれたい。俗物的で何が悪い。だって俺たちはこの社会に生きているんだ。ここでの形に魅せられて当然じゃないか。

 結婚に深いこだわりはない。だからこそしなくていいと思う訳だが、こだわらないのなら、しても構わないはずではないか。したくないと固持することじたい、こだわっている証拠だ。つまり、それは、俺にとって結婚とは大事なものだということになる。

 いや、そんなことはどうでもいい。

 いきなりむせた。知らぬ間に泣いていた。床が濡れるほどに。鼻が詰まり呼吸が苦しかった。荒い動作でティッシュを数枚掴んで、強く鼻をかんだ。またむせた。咳に混じって嗚咽が漏れた。胸の奥の振動が、身体のあらゆる部分に伝わって揺さぶる。音が漏れ、水が零れ、想いが溢れた。

 ずっと一緒だなんて、思っているだけではなんにもならなかった。永遠なんてものは、ありはしないと知っていたのに。

 テーブルに置いてある箱を手に取ろうとして取り落とした。落ちた拍子に箱の角がつぶれ、十字にかけられていたリボンがずれた。渡せなかった誕生日プレゼントを抱くように握り締める。

「咲……」

 大切な名を声に乗せると、失ったものの貴さに溺れそうになった。


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