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「祈願成就」第3話(全10話)

 次の週末、実希子は岩倉台の実家にいた。両親に徹とのことを報告するためだ。電話をかけたところで母に話を奪われることは目に見えているから、直接会って話すことにしたのだった。
 それに、圭吾に会って、郁美のノートを返してしまいたかったのもある。むしろ、そっちが主な目的だった。

 親しくもないかつての友人の遺品を渡されても扱いに困る。しかも雑記帳のようなもの、なにかしらの思いが宿っているのではないかと思ってしまう。呪いなどという、圭吾の悪質な冗談が尾を引いているのかもしれない。

 返したくても、圭吾の連絡先など知らない。それでこうして直接押しかけることになってしまった。本人に会えなければ坪内家の郵便受けに入れておこうと思い、封筒も用意してきた。だが、できることなら、直接圭吾に会って、ノートを送ってきた意図を問いただしたい。

 両親に話があると言っておいたのに、父はゴルフ練習場へ行って留守だった。徹と結婚することになった旨を母に伝えると、普段の会話よりも落ち着いた口調で「おめでとう」と言われた。

「ありがとう。……お母さんのことだから、もっと騒ぐかと思った」
「騒ぐってなによ。あなたたちの問題だもの。結婚してもしなくてもお母さんは気にしないわ」
「そっか」
「式はするんでしょ?」
「まだわかんない。その前に、徹が挨拶に来ると思うんだけど、お父さんの都合はどうかな?」
「そうねぇ。週末はどうせ暇だと思うけど……自分で聞いてみたら? 日が落ちるころには帰ってくると思うわよ」
「でも私、これから行くとこあるし。圭吾くんにノートを返したいの」

 あまり遅くならない方がいい。親しい間柄でもないのに夜分に訪問するのは躊躇われる。日中であっても喪中のお宅ではどうなのだろうとは思うが。

「あら。お母さんが送ったノート? 返すの?」
「返すわよ。ほかのものならまだしも、ノートよ? 自筆でいろいろ書かれているのなんて、なんていうか……」
「不気味?」
「……はっきり言うね」

 だって、と誰の耳もないのに母は声を潜めた。

「あのご家族、昔から近寄りがたいじゃない」

 母は誰とでも気さくに話していたから、そんな風に思っていたとは意外だった。それに、実希子が郁美と遊ぶようになったのだって、親同士が親しくしていたからだ。そのことを告げると、初めは知らなかったから、と言った。

「坪内さん――奥さんのことだけど――聞いたこともないような宗教やっていたでしょ?」

 そういえば、子供のころ、開け放された掃き出し窓から坪内家の居間をよく目にした。郁美の母親は、仏壇に似た観音扉の白木の箱に向かって正座し、読経とも祝詞ともつかない、聞き取れない言葉を独特の抑揚で唱えていた。その隣では、まだ幼い郁美が神妙な面持ちで正座をしていて、圭吾は部屋の隅で泣いていた。

 当時の光景がありありと浮かび、不安と恐怖がない交ぜになった気分までよみがえってきた。人ごみで親とはぐれてしまった時のような、凍てつく痛み。それは、秘密基地で飼っていた子猫が死んでしまった時の感情にも似ていた。

 郁美がどこからか連れてきた猫は、目やにだらけの瞼を開くことなく一生を終えた。いつも通り放課後に集まって、いつも通り給食の残りを与えようとしたが、すでに硬くなっていたのだ。もっとも可愛がっていたはずの郁美ですら抱き上げることなく、五人で立ちすくんだまま猫だった物体を見下ろすしかなかった。その中に最期を看取った者は誰もいない。

 日が傾き始めるまで待っていたが、父は帰ってこない。さっきまで引き留めていた母は態度を一転して、暗くなる前に帰ったら、と言い出した。娘のことを気遣っているのか、夕飯の支度をするのに邪魔なのか。おそらく後者だろう。父への伝言を頼んで、実希子は実家を後にした。

 駅周辺と違って、この辺りは少しも景色が変わっていない。高台になっている上に、住民以外が通り抜けるような道もないため、新たに店が経つこともない。建て替えをした家もなく、どれも同じようにくすんでいるだけだった。

 まだ日没には間があるのに、街はひと気がなく閑散としている。家々の窓も固く閉じられて、空には鳥の一羽も飛んでおらず、辺りには一切の気配が感じられない。

 いくつかの偶然が重なっただけで、世界の狭間に落ちてしまった気分になる。この世とあの世のあわい。そんなことを考えるのは郁美の話をしたからだろうか。

 子供のころの郁美はそんな話ばかりをしていた。占いとかおまじないとかそういう神秘的なものに魅せられていたようだ。女の子たちの間で盛り上がることの多い話題ではあったが、郁美の知識は他者を凌いでいた。占いにしても、タロットを持っていたのも郁美だけだったし、占星術はホロスコープ作成から始めるという徹底ぶりだった。

 ――魔女。

 たしか、そんなふうに呼ばれていた。女の子たちはなにかあると郁美を取り囲み、占いを求めたり、いいおまじないがあったら教えてとねだったりした。そしてほとんどの場合、郁美はその期待に応えていた。効果のほどは知らないが、郁美が教えるおまじないの評判はすこぶるよかったから成功率は高かったということだろう。

 郁美の家の前に立つと、門柱にある表札の角が欠けているのが目についた。インターフォンはカメラのない型だ。プラスティックの表面が日光と乾燥によって白くかさついている。ボタンを押しても手ごたえがなかった。壊れているのかもしれない。

「こんにちはー!」

 玄関に向かって声をかけ、しばし待つ。かつては大声で郁美の名を呼んだことを思い出す。いーくーみーちゃん、あーそぼ。その郁美はもういない。

「こんにちはー!」

 ドアは開かない。

「すみませーん!」

 何度か声をあげるが、家はしんと静まり、誰かが出てくる気配は微塵もない。いるのに聞こえないのか、それとも留守にしているのか、判断がつかない。

 表札の下の郵便受けは横幅が広く、ノートを入れられそうだ。圭吾に会えないのならば、予定通りにノートを封筒に入れてこの四角い穴に放り込んでおけばいい。

 会おうと思っていたくせに、圭吾が不在でほっとしている自分もいた。ノートを送ってきた理由は知りたいが、通夜の時を思い出すと圭吾に会いたいとはとても思えない。

 圭吾は子供のころから相手を不快にさせる話し方をする子だっただろうか。思い出せない。思い出せるほど会話を交わしたことはなかった。秘密基地は五人だけの場所だったから、圭吾がついてこようとすると、実希子たちは走ったり隠れたりして巻いたものだった。

 秘密基地――当時まだ販売区画外だった雑木林。あれは、どこだっただろう。

 見渡してみても住宅しかない。実希子は街外れを目指して歩き出した。日の位置が低くなり、あらゆるものの影が伸びている。相変わらずひと気はない。

 暮れかかる街を実希子は足早に進む。小学生の時以来足を向けていないのに、曲がるべき道に出るとすぐにわかる。取り出す機会のなかった記憶は、忘れていただけで消えたわけではないらしい。

 あれからもう二十年以上経っている。雑木林は整地され、とっくに住宅地になっていることだろう。あるいは隣接していた小高い山だけは残っているかもしれない。あの山の向こう側は墓地になっていたはずだ。けれどもここからではひしめき合う屋根が邪魔をして山があるのかどうかもわからない。

 通りかかった家の玄関がガチャリと開錠される音がした。反射的に目を向け、はっとした。表札の名は〈進藤〉。絵里の家だ。

 玄関から出てきたのは、ボストンバッグと大きなトートバッグを持った年配の女性だった。道に人がいるとは思わなかったらしく、実希子を見て眉が上がった。髪を染めそびれたのか、頭頂部の髪の根元が白く伸びかかっている。あちらが先に口を開いた。

「みきちゃん……?」

 覚えていられたことに驚きながら、頷く。

「お久しぶりです」

 そう挨拶したものの、ほかの道で会ったなら、すぐには絵里の母親だとは気づかなかっただろう。郁美の通夜で、健二が実希子を見知らぬ人だと思ったのもわかる気がした。記憶というのはずいぶんと頼りないものだ。

「本当に久しぶりねぇ。お母さんのところに行ってきたの? 瀬尾さん、元気にされているかしら?」

「はい。元気すぎるくらいでした」

 近所なのに今は付き合いがないのだろう。子供たちは親の交友関係に準じていると思っていたが、親の方も、子供が同い年だからという理由で親しくしていたのかもしれない。
 それにしても、よく実希子だとわかったものだ。健二にはわからなかったというのに。ひと目でわかるほど子供のころと印象が変わっていないのだとしたら、嬉しいような悲しいような、不思議な気分になる。

「おばさんは」

 自然に昔の呼び方をしてしまい、誤魔化すように笑うと、相手も懐かしそうに笑った。

「おばさんは、旅行ですか?」

 二つのバッグを視線で示しながら問いかける。正確な答えなど期待していない、挨拶の延長みたいなものだ。けれども、返ってきたのは駅の近くにある総合病院の名称だった。岩倉台総合病院。

「絵里がね、入院しているのよ」

「えっ。絵里ちゃん、どうしたんですか?」

 言った後で不躾な質問だったことに気づき、下唇を小さく噛み締めた。
 幸い、絵里の母は気にした様子もなく話し始めた。

「それがね、あの子ったら間抜けなのよ。今は一人暮らしをしているんだけどね、この前、ほら、郁美ちゃんのお通夜の日に」

 予期せぬところで出た郁美の名前に肩が跳ね上がる。誤魔化すようにバッグを持ち替えたが、今度も絵里の母は気にしていないようだった。

「こっち来て家のことを手伝ってくれてたの。そしたら、郁美ちゃんのことがあったでしょう。だから、近くにいるんだし行って来たらって、送り出したのよ」

「そうなんですか? 斎場では見かけませんでした。行った時間が違ったのかもしれませんね」

 やはり来てはいたのだ。だからどうだということではないのだが、徹にも教えてあげようと思ったところで、「違うのよ」と思考を遮られた。

「行く途中で転んで骨折したの」

「転んで骨折? いったいどこで?」

 絵里もみんなと同い年だから三十五歳だ。高齢者ならいざ知らず、この年でも転んだ程度で骨折などするものだろうか。

「それがよくわからないの。たぶん近道をしようとして雑木林の横の階段をおりて行ったんだとは思うんだけど。あの子は転んだって言っているけど、階段で足を踏み外して何段か落ちたんじゃないかしらねぇ」
「雑木林、ですか……」
「あら。覚えてない? あなたたち、よくあそこで遊んでいたじゃない?」
「そうですけど……あの辺りって、宅地造成工事していませんでしたっけ?」
「そうだったかしら? でもまだ雑木林は残っているわよ。バブルが崩壊して宅地開発も頓挫したのかもしれないわねぇ」

 当時は子供だったので、よくわかっていなかったが、実希子たちが中学に上がる前にはバブル崩壊を迎えている。バブル崩壊後は急速に不景気に突入していったことを考えると、当初の宅地計画が白紙になったとしても不思議はない。

「その雑木林ってどこでしたっけ?」
「ほら、そこの角を右に行って……」

 絵里の母が指差した角から、白杖にスーツ姿の圭吾が現れた。静かな住宅街に杖の乾いた音が響く。近づいてきた圭吾に絵里の母が声をかける。

「圭吾くん、お帰りなさい」

 圭吾が足を止めた。

「進藤さん? どうもこんにちは」
「やだわ、もう圭吾くんが帰ってくる時間なのね。みきちゃん、バタバタでごめんなさいね。おばちゃん、病院に行かなくちゃ」
「あ、はい。引き留めてすみませんでした。今度お見舞いに行かせてください」
「やだ、そんな気を遣わないで。でも絵里も会えたら喜ぶと思うわ。ありがとね、みきちゃん。絵里のことを心配してくれて」

 絵里の母はバッグを抱え直すと足早に去っていった。絵里のことを誰かに話したかったのかもしれない、と気づいたのは、少し猫背の後ろ姿が見えなくなってからだった。

 日は落ち始めると早い。わずかな時間の立ち話だと思ったが、辺りには薄闇が訪れ、空気を群青色に染めていた。
 子供のころならば慌てて家に帰る時間だ。家々では夕食の準備が進み、魚を焼く匂いや肉を炒める匂い、時にはカレーやハンバーグの匂いを嗅ぎ分けられたほどだった。
 今はなんの匂いも漂ってこない。子供のいない街とはこれほどまでに生活の気配が希薄になるものなのか。

 圭吾が歩き出す。実希子はとっさに呼び止めた。

「待って! 圭吾くん」

 圭吾が振り向くのを待って名乗る。

「実希子よ。瀬尾実希子」

 やはりぼんやりと形くらいは見えているらしく、視線は合わないものの実希子の顔の辺りに目を向けている。

「……ああ。おばさんが呼んでいた〈みきちゃん〉って実希子ちゃんのことでしたか。僕にもなにか用事が?」

 実希子はノートを圭吾の胸に押し付けた。圭吾は黙って受け止めた。

「ノートを返しに来たの」
「ちゃんと手元に届いたんですね。よかった」
「ちっともよくないわ。なんのためにノートを」
「読んだならわかるでしょう?」
「読んでないわ。興味ないもの」
「じゃあ読んでください。姉の遺書だと思って」

 圭吾がノートを突き返してきた。動きにつられてつい受け取ってしまう。その瞬間、迷惑だという気持ちが強く湧き上がり、つい顔をしかめた。圭吾に見られることはないとわかっていても後ろめたくなり、そっと顔を伏せる。

 これが親とか徹とかが書き残したノートであったなら、隅々まで読んで大切に保管するだろう。けれども郁美とはとっくに縁が切れているし、正直なところ、小学生のころだって仲のいいふりをしていただけだった。

 母が言うように、どこか不気味だった。クラスの女の子たちがある種の尊敬をこめていた〈魔女〉という呼び名からも、実希子には黒魔術を扱う姿しか思い浮かばなかった。クラスの子は知らないのだ。郁美が秘密基地でなにをしていたのかを。

 秘密基地では五人一緒に遊ぶこともあったが、大抵は各々好きなことをして過ごしていた。だから郁美がなにをしているか知ってはいたが、口出しする者は誰もいなかった。場所を共有するだけの仲間。それが自分たち幼馴染みの形だった。

「もういいですか? 今日は懐中電灯を持っていないので暗くなる前に家につきたいんです」

 言うが早いか圭吾は塀に沿って歩き出した。辺りは早くも薄闇に包まれている。住宅街なので当然街灯はあるのだが、その明かりだけでは足りないということか。カツカツと杖の音が遠のいていく。

 実希子は気持ちを切り替えて大きく一つ息を吐くと、ノートをバッグにしまい、駅へと向かった。


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