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非常時について。

いっこ前の記事で、「新型コロナについてのわたしのスタンスは、社会に対する影響は真剣に注視しつつ、自分に対する個人的な影響には深刻にならない、という心構えでおります」と書いたので、そのことについてもう少し、言葉を費やしてみようと思う。

東日本大震災、3.11のとき、あの頃のわたしは相当薄らぼんやり生きていて、鬱の渦中でもあったし将来も五里霧中で頭も鈍かったのだったが、何もできなかった。多分やろうとすればいろいろできたのだろうに、友人たちは何人もアクションを起こしていたのに、わたしはほぼ何もできなかった。被災直後の被災地にも行ったはずなのに、被害をきちんと目に入れたのはここ1年くらいのことのような気がして、今でもわたしは、3.11とそれに続く現在について、うまく語ることができない。

数年経って、うちの町が台風被災で甚大な被害を受けた。そのときわたしは行政に近いまちづくり団体に勤めていたので、直後から割と復興活動の中心に近いところで働いた。あのときの非日常と、非常時にどういう人たちがどういう風に忙殺されて、どういうところに行き違いややり過ぎや怠慢が起きて、被災地にどんな好意と思いやりが寄せられそれに乗じて旨味を得ようとする思惑が入り込んだかについては、それなりに思い出すことができるし、必要なときには少しは語れるように思う。

今、新型コロナで世の中は騒々しくなっているけど、そして今後の世界も日本も経済的その他大きなダメージを受けそうだけど、わたしたち個人個人は、いまいま大慌てして大騒ぎする必要はないのだと思う。

あのとき、町は泥流で寸断され電気は点かず水は断水して物流は止まり、日常は一時停止になった。家が泥に埋まった人や家族が亡くなった人、仕事が途絶えた人もたくさんいた。日常が戻るまで長いことかかった。(3.11はもっと大規模で激しかったし、まだ復興は途上だ。身に迫る実感としてはうまく語れないけど。)否応なしに日常が止まるというのは、ああいうことを言うのだと思う。そしてわたし自身は直接被害を受けなかったので、実際に被災した人たちは、日常の止まり方も困難も苦労も困窮も、まったく違っただろう。

「新型コロナでトイレットペーパーが品薄」というニュースを聞いたとき、少し可笑しく思った。非常時に多少トイレットペーパーをたくさん抱えていたって何にもならないし、逆に多少トイレットペーパーが不足したって何とでもなるのだし。「自分だけは困りたくない」と思えるとき、あなたの身に困ることはまだ起こっていない。今のあなたのわたしの日常は、まだ非常時じゃないはずだ。医療現場でのマスク不足を起こしている場合じゃない。大きな危機と自分の不安は、分けて考えなきゃいけない。

非日常がわたしたちを襲うとき、それは程度の差はあれ、等しくわたしたち皆を襲う。自分だけうまくやり抜けられる、なんてことはない。自分を守ろうとして余所に回したしわ寄せは自分に返る。わたしたちは、それぞれができることを持ち寄って、助け合って頑張るしかない。自分だけ助かろうとするな。自分だけ得しようとするな。新型コロナが落ち着く頃、日本のわたしたちはみんな、改めて困難に直面するのだろうと思う。そのときこそわたしたちは、誰かにツケを回したり切り捨てたり置いてきぼりにしたりせず、できることを持ち寄って先に進めたらいいと思う。

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