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恵迪寮に住んでた90年代のフィールドノートを掘り起こしてみた理由。

 このマガジンは、まったくの趣味のマガジンである。ゆっくりゆっくり、気が向いたときにアップする。大学4年生、北海道大学の知る人は知っている奇矯な寮、恵迪寮に住んでいた時の観察日誌だ。

 大学4年生の時1年間恵迪寮に住んで、卒論を書いた。それが、平成7年度卒業論文『北海道大学恵迪寮における「自治」の意味付けの分析』だ。この全文は後でPDFにして読みたい方には読めるようにしたいと思う。わたしは文学部の行動科学科に所属して、文化人類学を専攻していた。ちなみにわたしのひとつ下の学年から北大は学部改編に入ったので、今はわたしの所属していた講座はない。

 なぜ今頃こんな卒論を引っ張り出したかというと、ふたつ理由がある。

 ひとつめの理由はこれだ。

 この記事を読んで、物凄く考え込んでしまった。わたしの出身地であり現住所はこの著者の出身地よりおそろしく田舎で、高校なんて町にひとつだから同級生は保育園から高校まで殆どエスカレーター式なのであるし、わたしの高校の同級生で4年制大学に進学したのはわたしを含めて片手で数える人数だ。そしてわたしは北大に入ってまず女子寮である霜星寮に入寮したのであるが、その当時の霜星寮は女子学生の数に対してキャパシティが少なく、入寮選考には経済点という家庭の困窮度合いを数値化したもので厳しく選別していたので、はっきりいって選りすぐりのびんぼうにんの子女しかいなかった。それでもわたしやおそらく仲間の寮生も、まったく格差に絶望はしなかったのである。

 ツイッターで繋がっている方々と少しやり取りをして、時代が下るに従って経済が苦しくなりびんぼうにんが大学に行きづらくなっているのでは、という暫定的な結論に至り、

こんなことを呟いた挙句憤りでかなしくなって、わたしが大学生だった頃の経済状況やどれだけびんぼうでも支障なく学問ができたかみたいな稿を書こう、と決意したのであるが、その後この記事は相当脚色しているという指摘だとか、いやいやこの通りだった、共感しかないという声だとかが散見され出して何がなんだが分からなくなった上に少し冷めてしまって、それらの金まわりに関する記事を書くのはやめてしまった。

 もうひとつの理由はこちらである。

 恵迪寮にいた身としては、京大の吉田寮、という名前はやたら身近なものだった覚えがあって、わたしにとっては会ったことない従兄、みたいな印象だ。このキャンペーンに出くわした時は、とても驚いてしまった。つまり、京大吉田寮がただいま大学当局と取り壊しを巡って揉めていてそのための署名活動なのであるが、それがそっくりそのまま、わたしが卒論で研究した北大の昭和50年代頃の状況と被っているのである。正直、えっ、この21世紀の平成にこれか?と思った。と同時に、凄く引き戻されるような思いがした。

 これらふたつが同時期に起こったので、段ボール箱に詰めて家の奥に積み重ねていた昔の資料を引っ張り出しいろいろ探してみたのであるが、その中から卒業研究時のフィールドノートが出てきた。要は日記である。

 ここでお断りをしておくが、恵迪寮に入る人というのは大体その気風に憧れて大好きで入ってくる人が多くて、まあ大好きなので、それとキャンパスの北西の隅っこにある地理的条件のせいで、寮から大学に行かなくなって留年する人が物凄く多いくらいなのであるが(わたしが高校の時好きだった先生も恵迪寮に憧れるあまり北大を受けて落ちて2浪して立命館に入った)、わたしは恵迪寮がまったく好きではなかったという事情がある。前述した霜星寮のキャパシティ不足のせいで、わたしが2年生の時にもともと男子寮だった恵迪寮に女子入寮を導入するという案が持ち上がり、その頃霜星寮で役員の一員だったこともあって、恵迪寮と霜星寮の話し合いに何度も参加した。その時、寮の自治に対する考え方のあまりの違いに(この人ら、おかしい……)と思うあまり逆に興味が湧いてしまって、4年生になる時、その半年前に女子入寮は始まっていたのだが、改めて恵迪寮に入り直したという次第である。

 ところで、文化人類学では研究手法に「参与観察」という方法を取る。これは、「社会の一員となって参加しつつ外側の立場から観察をする」というまことに存在として中途半端な感じで関わるスタイルで、この方法を確立したポーランドの人類学者マリノフスキーですらかなりメンタルがやられたらしい。わたしはちゃんと読んでいないのだが、彼の死後発見された「マリノフスキー日記」という記録の中で、フィールドにいながら「今日も外に出ないで1日中本を読んでしまった」とかいう陰鬱な記述が残っているようである。

 マリノフスキーに自己を比べるのはおこがましいが恵迪寮に住んでいた頃のわたしはまったくこんな感じで、周りの寮生が寮の共同生活だの密な人間関係だの「俺たちの自治」だのと熱くなっているので、どうにもなじめず居心地が悪くしかも一種のスパイのような後ろめたい気持ちも抱えて、陰鬱に暮らしていた(一応、卒研をすることは秘密にはしていなかったが)。精神的に疲れすぎて余裕もなかったので、就職活動も意欲が出ず逃してしまい、過年度卒でブラック企業に入った顛末は以前別の稿で書いた。

 まあ、そんな陰惨な事情は卒論本文には表れないので、冷静なトーンでまとまっているのであるが、今回20年振りくらいで出てきたフィールドノートをぱらぱらとめくってみると、その辺りのナイーブでどぎまぎしながら本心隠しながら深刻に暮らしていた20歳をちょっと過ぎたばかりの女の子の姿が蘇ったのである。面白かった。

 正直、恵迪寮のことを思い出すと、ちょっと眩しいような、完全にやーん、みんな懐かしー!!!みたいに手放しで仲間づらできないような、ちょっと複雑な気持ちにはなる。でもやっぱり年を取ったので少しは落ち着いて微笑ましく振り返れるようになったし、こうやって今吉田寮が同じような問題でごたごたしているのだとすれば、こういう旧制の時代から続いてきた寮の「俺たちの共同生活と俺たちの自治」の独特さというか特殊性というか独自性、わたしはこの卒論でそれを寮の共同生活によって意味付けられた価値的な概念=「恵迪寮の文化」と捉えて解釈と記述を行ったのであったが、それをもう一度引っ張り出して興味のある人にシェアするのも意味のないことではないように思う。

 といろいろ書いてみたが、まあメインの気持ちは、懐かしくなったのでもう一回振り返ってみたい、そんなところだ。そういうことで完全に個人の趣味的に暇を見つけては更新していきたいと思っているので、興味を惹かれた方はお付き合いくだされば幸いである。

 ヘッダー写真は大学4年生時のわたしだ。これが寮のその当時のわたしの「部屋」(※「部屋」という名前の、共同生活の単位集団のことである)における、勉強部屋のワンシーンである。ある朝文献を読んでいたところを、「部屋」のメンバーが撮ったやつだ。驚異的な汚さだが、これが勉強部屋だ。ちなみにマガジンのヘッダーに使った写真はその「部屋」の「廊下居部屋」で、中央くらいにいる顔をあまりぼやかし加工してない目だけこっちを向いているのがわたしである。こういうのが、わたしたちが友人内で自称していたところの、「女子大生」じゃなくて「大学生女子」だ。

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