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『浅草キッド』:笑い・自由・死者

Netflixの『浅草キッド』、素晴らしかったです。ビートたけしによる自伝の映画化、劇団ひとりが監督・脚本を手がけました。

たけしが師匠の深見千三郎から引き継いだ「芸人論」が、次の動画に示されています。

「笑われるんじゃねえぞ、笑わせるんだよ!」

「芸人だったら、いつでもボケろ」

この二つのセリフが、たけしが深見から引き継いだ「芸人論」の中核にあると思います。その内実に踏み込むためのカギが、「芸人だったら、いつでもボケろ」の「いつでも」です。この映画には、大怪我、経営破綻、人間関係の断裂、親しい人の死など悲痛極まりない場面がいくつかあります。そういう極限的状況にあったとしても、彼らはボケます。それが、本物の芸人というものなのです。

それで思い出したのが、岸政彦『断片的なものの社会学』にある「笑いと自由」というテクストです。

辛いときの反射的な笑いも、当事者によってネタにされた自虐的な笑いも、どちらも私は、人間の自由というもの、そのものだと思う。人間の自由は、無限の可能性や、かけがえのない自己実現などといったお題目とは関係がない。それは、そういう大きな、勇ましい物語のなかにはない。
 少なくとも私たちには、もっとも辛いそのときに、笑う自由がある。もっとも辛い状況のまっただ中さえ、そこに縛られない自由がある。人が自由である、ということは、選択肢がたくさんあるとか、可能性がたくさんあるとか、そういうことではない。ギリギリまで切り詰められた現実の果てで、もうひとつだけ何かが残されて、そこにある。それが自由というものだ。

出所)岸政彦『断片的なものの社会学』(朝日出版社)p.98

どんなに辛い状況にあったとしても、そういう現実の外に出る自由があります。それを可能にするのが笑いです。

悲しいときに笑うのは非常識です。だから、たけしの芸は非常識。「予告編」にある「ぶっ壊すんだよ、今までの漫才を!」という言葉も、その非常識の現われではないでしょうか。たけしは、常識で塗り固められた現実の外部へと向かう自由な笑いという困難な表現の道を進みます。

深見とたけしは、現実の中をぬくぬくと生きるのではなく、現実の外部に接する所、世界の端というギリギリの所で勝負します。そういう生き方をする芸人の意地の表出が、「笑われるんじゃねえぞ、笑わせんだよ!」という言葉ではないでしょうか。

ところで、『浅草キッド』が表現する自由としての笑い、極限的状況での笑いで思い出すアーティストがいます。宇多田ヒカルです。2018年に行なわれた彼女のツアーには「Laughter in the Dark」という名前が冠されました。暗闇の中の笑い声、絶望の中の笑いということです。

宇多田は、「Laughter in the Dark」について次のように語っています。

スタンダップ・コメディアンのティグ・ノターロさんという人の舞台をネットで見たんです。その女性が立て続けに乳がん宣告や母親の急死というつらい経験をし絶望したけれども、結局自分がコメディをやることで力に変えていくしかない、前に進んでいくないっていう姿に感動した。絶望を描くとすると、やっぱり希望を描くことになるんだなって思って。

対談「深淵から生み出されるもの 又吉直樹×宇多田ヒカル」(『文學界2020年1月号』文藝春秋)p.132

ノターロもまた、深見とたけしのように、極限的な現実からその外へと出ていくコメディアンなのでしょう。宇多田は、それと同様の次元を歌います。このツアーでは、死者との関わりをテーマにしたいくつかの曲が歌われました。現実の外に出る自由としての笑いは、死者との対話に通じるのだと思います。

現実の外に出るという芸人の営みは、現実という此岸の外、つまり死者たちがいる彼岸へと向かうことなのかもしれません。『浅草キッド』でも、たけしが深見の墓をお参りするシーンが印象的に描かれています。そこに、たけしと亡き深見の対話を見た気がしました。深見は、死後もたけしと共に生きていて対話を重ねているのではないでしょうか。

それは、過去を生きた深見の技を、その継承者であるたけしが今に生かしているということだけではありません。現実の外へと出ていくたけしの芸は、現にいま・ここで彼岸の深見と出会ってしまうようなギリギリの次元に位置しています。

笑いとは現実の外へと向かう自由を実践するものである、現実の外へ出ることは彼岸の死者と出会うことに通じるかもしれない。そんなことを理屈っぽく書いてしまいましたが、深見やたけしにすれば、こんな書き物は全然ダメだと思います。ボケていないからです。理屈で通じるような話は、現実の中にとどまっているからつまらないんです。

現実の外に出るには、ボケるしかありません。現実の様々なことについてボケてボケてボケまくる。そういう新たな表現を重ねることによってのみ、我々は深見やたけしのような自由を守ることができるのだと思います。

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