私たちだけが見た運動会
「できれば誰からも見つからない場所から、運動会を見学したい。」
これが息子の今年の運動会への希望だった。
学校から遠ざかり出してから約1年。
運動会の季節といえば、高熱、腹痛、帯状疱疹など、息子はありとあらゆる不調を訴えていた。
(それでも毎日ニコニコと登校し、本番も真剣な眼差しで、私は本人がどれほど苦しかったのかを理解していなかった。)
ほとんど外出しない息子に、「本当に見学したいのか」と何度確認しても、答えは変わらなかった。
運動会見学
そして運動会当日。
行く直前に気分が乗らなくなり、「気分悪いから、行かない」と言い出した。
無理もない。
昼夜逆転中で、前日夜七時からずっと起きていた。
表には出さないけど息子の中では揺れている。
私自身が振り回されるような感覚をおぼえながらも、「わかった」と受け止め、行く準備をキャンセルして、ゲームなどで一緒に過ごす。
そのうち、「やっぱり行く」に急変更。
行くと決めたら行くんだろうな。
慌てて準備を再開し、小学校へ向かった。
着いたときは、昼休憩。校門を入るとすぐお弁当を広げる家族がいっぱいだった。
やばい。息子は耐えられるか・・・。
何度か知り合いに声をかけられ、冷や冷やしながらも、なんとか用意してもらっていた空き教室にたどり着く。
ふらふらではあるけど、人目に耐えられない何ヶ月前より確実に耐性がついていることを実感した。
教室からの運動会
誰もいない教室から見る運動会なんて、私は人生で初めて。
本当は出場しているはずの息子と一緒に見るなんてどんな気持ちになるんだろう?
いろんな想像をしてたけど、終わってみた今、とても貴重な親子時間になったと思う。
「俺、運動会きらいやねん」
と応援合戦を聞きながら息子がつぶやいた。
「そうなんやね。」私が受け止めた。
一人でここまでどれほどの感情を押し込めてきたのだろう?
「ママは子どもの頃、運動会好きやってん。でも、なぜ運動会があるのかとか考えたこともなかった。
与えられたことをこなすことになんの疑問も感じずに最近まで生きてきた。
でも、あなたの感覚が今はわかる。
その感覚を大事にしてほしい。」
と息子に伝えた。
私の気づき
そんな運動会が終わって数日経った。
教室から見た組体操の光景が頭をよぎった時に、ふと感じたことがある。
1つのカタチを協力して作り上げるスキルを持っている子たちがあんなにたくさんいるんだ。
だからこそ、
息子は、無理してまでそのスキルを身につける必要はないんじゃないか
という痛烈な思い。
「こうしたらもっときれいなカタチになるよ」というアイデアを出せるスキル、
カタチを作るための方法を研究するスキル、
よりカタチよく見せるためのBGMや演出を選ぶスキル、
など、組体操を作り上げるために必要なスキルって何種類もある。(ほぼ先生が担っているのかもしれないが)
以前の私は、
「たくさんの子ができていることなのに、なぜ我が子はやらないのか?できないのか?」と考えるばかりだった。
息子が捉えていた世界は、そういうことじゃなかったんだと気づいた。
思い出した。
登校していた頃、懇談で先生に指摘されたことがある。
「授業中に明らかに答えをわかっているはずなのに、挙手することが少ないです^_^」
息子に問うと、こう返した。
「だって、俺が答えなくても、他のみんなが答えわかってて手挙げてるから。手挙げる人が少なかったら、手挙げるよ。」
息子は、実際に手を挙げる子がいなければ手を挙げていた。
「すでに他の子たちが役割を果たしているのだから自分がやらなくてもいいのではないか?」というちょっと俯瞰した見方。
もしかしたら周りは生意気に感じたかもしれない。(私はそこが心配だった)
でも、息子は他意なくナチュラルにそう思っていたんだ。
「引き分け」という結果で終わった今年の運動会。
息子を動かしたものは何だったんだろう?
そして、これから私にできることはなんだろう?
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