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サラリーマンに精神論って必要不可欠か。年末年始は無理難題が降り注ぎ、根性が試される時期なん?『デタラメだもの』

新年を迎え「なんで年末年始ってこんなにも過ぎるの早いの?」などと、ボヤけたことを言ってる自分に対し、「なんで1年ってこんなにも過ぎるの早いの?」と常日頃ぶつくさ言うてるんだから、1年が早けりゃ年末年始だって早いだろと、ひとり漫才のような年明けを過ごしている。

と、ふと旧年末のある出来事が頭をよぎった。それは、旧年の仕事納めの日。あるビルディングのトイレ。小便器に向かい用を足していると、背後の大便用の個室から声が漏れてきた。

「あっ。すみません。年末年始は業者も休むみたいで。あっ。基本的には対応が厳しいんです。あっ。すみません。あっ。はい。わかりました。何とかできないか確認してみます」

その個室に入っていくサラリーマンの姿を目撃していたから、声の主は紛れもなくその男性。おいおいおい。日本のサラリーマンってやつは、大便用の個室に入って用を足している最中にも、仕事の電話を受けねばならず、且つ、国民のほとんどが休暇の権利を授かっている年末年始の稼働さえも強制してくる、そんな客の対応をせねばならないの?

きっと、海外の人たちがこの光景を目撃したら、日本人ってクレイジーだと思うに違いない。なぜそこまでストイックになれるのか、理解に苦しむだろう。そして、なのになぜ、主要先進国の中で最も生産性が低いのか。世界の七不思議に組み込まれてしまうかもしれないぞ。

そう言えば自分にも似たような経験があった。大型マンション販売の広告のお手伝いをするという仕事。異常なまでにストイックなプロデューサーが指揮を取り、その他下々の人間たちがそれに従い動くという座組。恐ろしいほどにクオリティを追求するプロデューサーで、微塵の妥協も許さない。「できません」というネガティブな発言の一切を許さない、そんな恐ろしいプロデューサーだった。

季節は同じく年末。広告には印刷という工程も付き物で、印刷には納品までの日数が必要だ。デザインなど原稿が確定していたとしても、それを印刷し発送し、目的の場所に納めるまでにはそれ相応の時間がかかる。なので、年始早々から配布したい印刷物などの場合、旧年末のかなり前から印刷を印刷屋さんに依頼。余裕を持って印刷を済ませておき、発送の段取りも組んだ上で、年始を迎え、さぁ配布、という流れとなる。

がしかし、社会というものは常にギリギリで物事が進む。いや、もっと言うと、常にギリギリアウト、という状況で物事が進む。広告には「自分とこの商品を宣伝しておくれぇ」と願うスポンサーの存在があり、そのスポンサーが広告費を支払う。そのため、広告を制作する人間からすると、最終的にはスポンサーの言いなりにならざるを得ない。テレビの世界なども似たようなものだ。たくさんの広告費を支払っている大手のスポンサーが、番組の提供を降りてしまえば、番組だって存続できないほど、その存在感は大きい。

スポンサーというものは、常に判断が遅い。そりゃ、多額の広告費を支払うんだもん。全ての判断が慎重になるのも頷ける。ギリのギリまで検討したいだろうし、スポンサー側の返答締切が過ぎようが、あと少し検討を続けたいと思う瞬間もあるだろう。しかし、スポンサーのこの判断の遅延だったりが、広告制作人たちの制作期間に悪影響を及ぼす。つまりは、「時間がない!」につながるわけ。我々の首をギュウギュウに締め付けやがるわけだな。

でもって、ストイックなプロデューサー。年末差し迫る最中、年始早々にチラシを配布したいと言い出した。どうしても年始のタイミングに、販売促進の機会を設けたいのだそうだ。「ふ~ん。もう年末なので、稼働してる印刷屋さんなんてないっすけどねぇ~」なんて、鼻くそをほじくりながらブツブツ言っていると、「おい! 日本中に存在する印刷屋すべてに電話して、年末に稼働しているところがないか探せ!」ときたもんだ。

おいおい。本気で言うてまんのかいな。己のストイックさに巻き込むなよ。と言いつつも、プロデューサーの指示は絶対。サラリーマンというものは、抗えない身分にある。手分けして全国の印刷屋さんに電話することになった。記憶が定かならば、ある程度、電話をかけたところで、あまりの非効率さにプロデューサー自身が気づき、チラシの配布時期を後ろ倒しにした気がする。

そんなもん、当然だろ。と思った。いや、そんなもん、当然だろ。と言った。言ってやった。

ここで重要な問題がある。日本のビジネスでは、ある程度、精神論的なものが、今の時代においても求められるということ。デジタルを駆使して、気軽に手軽にやることは簡単かもしれないが、それなりの結果を残そうと思うと、精神論の部分に足を突っ込まざるを得ない。

精神論を重視するおっさんたちが、物事の決定権を持っているから、若者たちにも精神論を押し付けてくるんだろ? と思うかもしれないが、そうじゃない。なぜ必要かは未だ判然としないが、「なんか必要なの」。人間が成長する過程において、やっぱりある程度の精神論が必要なのかしらん。いや、わからんな。精神論なんかスッ飛ばして、寝てるだけでお金が貰えたりするほうが嬉しいもんね。座布団をふたつ折りにして、うたた寝してる間に、自動的にお金を稼げる仕組みを設けられたら嬉しいもんね。ほんとだね。不要かもしれないね、精神論。

と、そんなひ弱な発言は世の中が許してくれない。やはり成功するためには精神論的な部分を要求されるし、それを持たない人が成功している事例を見たことがない。

ここからが問題だ。「じゃあ、精神論をぶっ放してやろうじゃないの!」と鼻息を荒げたくなるのもわかる。「俺ァ、成功したいんじゃ!」と息巻くのもわかる。ただしだ、精神論の向かう先に誤りがあった場合、全ての努力は無に帰すということ。先のプロデューサーのケースで言うと、チラシ配布時期を後ろ倒しにする、という選択肢は当初からあったはずだ。それをプロデューサーの拘りのためか、それともプロデューサーが気づいていなかったためか、それによって年末年始に稼働している印刷屋さんを探さなければならなかったわけである。

途中で非効率さに気づき、ストップをかけてくれたから良かったものの、それに気づいてくれなかったら、本気で全国に存在する全ての印刷屋に電話していたかもしれない。それこそ、年末年始の休暇を電話に捧げなければならなかっただろう。

前述の大便用の個室で客先から詰められていたサラリーマンの男性だってそうだ。きっと彼は、年末年始に稼働している業者を探しまくるに違いない。きっと、客は年始早々の何らかのアクションを求めているだろうから。でも、無理だろうなぁ。サラリーマンがあの声で応対するときは、絶対に無理なんだよなぁ。無理ってのはわかりきった上で、一応やってみます、ってときに出す声だったもんなぁ。

そう、世の中、無理なもんは無理だ。客がゴネようがスポンサーがゴネようが、無理なもんは無理。と思うじゃないですか。ところが、精神論が正しい方向に向かっているとき、要するに、客やスポンサーやプロデューサーが正しく情熱を燃やしているとき、無理なもんが無理じゃなくなったりする。不可能が可能になったり、みんなで力を合わせて奇跡を起こせたりもする。

理想的な情熱で引っ張ってくれるリーダーがいて、理想的な情熱を全員が理解し、みんなで同じ方向を見て突っ走れる仕事があったとしたら、時に不可能という言葉はなくなるし、全員が可能性を信じて仕事ができる。精神論が花咲く瞬間がある。

らしい。なんかの本で読んだ。自分が携わるプロジェクトは、基本的に悪魔のような人間が上に立つため、基本的には誤った精神論を発揮させられる。そこに向かっても不毛の地しか待っていないことが容易に想像ができる。だからやらないし、だから鼻くそをほじくったりもする。

などと過去の記憶を辿りながら、大便用の個室から漏れる声に耳を傾けていると、事態はどんどん悪化しているようで、聞いているのも辛くなり、トイレを後にした。さて、忘年会にでも顔を出すかなと、スケジュールを確認してみると、その日に催される宴がダブルブッキングしてしまっていた。「しまった!」と焦って後輩のもとに駆け寄る。「こっちの忘年会、代わりに行ってくれへん?」と懇願するも、「あっ。僕、今日、彼女と過ごすんで」と、クールな返事が返ってきて撃沈。仕方がない。大便用の個室に籠もって、謝罪の電話でもかけてくるか。

デタラメだもの。

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