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ことわざを使う文化、使わない文化

今回のテーマ:慣用句、ことわざ
by らうす・こんぶ

写真キャプション:「猫に小判てか。いらんわ」


高校の時、受験英語でことわざを勉強した。今でも覚えているのはこんなことわざたち。

There is no accounting for tastes. 
蓼食う虫も好き好き。

It is no use crying over the spilt milk.
覆水盆に返らず。

When in Rome do as the Romans do.
郷に入りては郷に従え。

Counting one's chickens before they've hatched.
とらぬ狸の皮算用。

でも、これらの諺は受験のために覚えたものの、20年に及ぶニューヨーク生活の中ではほぼ使ったことがなかったし、ニューヨーカーがことわざを使っているのを聞いた記憶もない。日本語を教えている時、ことわざの話になって、アメリカにも日本にも同じような意味のことわざがあるね、というような文脈で出てきたくらいだ。これらのことわざを知っている人はいたが、自分ではほとんど使ったことがないようだった。

日本では、上記の他にも、

果報は寝て待て。
猫に小判。
猿も木から落ちる。
暖簾に腕押し。
棚からぼた餅。
泣きっ面に蜂。

なんていうことわざは日常生活の中で耳にする。今は小判は使わないし、暖簾も蕎麦屋の店先で見かけるくらいになったとはいえ、意味は難しくないし、日本ではことわざはけっこう便利に使われているのではないだろうか。私も「棚ぼた」なんて時々使っている(使いたい!)。なのに、どうしてアメリカではあまり使われないのだろうか。理由はよくわからないけれど、ニューヨーカーにはことわざという、手垢のついた、よく言えば歴史のある伝統的な表現は確かに似つかわしくないなとは思う。

で、つらつら考えてみた。私はそれほどことわざは使わないが、使うとしたらおそらくその理由は、短い表現で相手との共通認識を引っ張り出せるからではないかと思う。日本人同士なら、試験の結果を心配している人に対して、「あんまり心配しないほうがいいよ。あとは運を天にまかせてのんびり待ってたら?」と長々言わなくても、「『果報は寝て待て』っていうじゃない」と簡潔にいえばすむ。それからちょっと嫌味に聞こえるかもしれないが、私は”あえて陳腐な表現をしたい時”にもことわざを使うことがある。

世界中から異なる文化や習慣、常識を持った人が集まってきているニューヨークでは、大半の人が知っている共通認識としてのことわざなんてそもそもないのだろう。ことわざは相手もそれを知らないと会話の中で引用する意味がない。習慣や価値観を共有するコミュニティの中で引用されることわざや慣用句ならあるだろう。

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ところで、ことわざに関して、以前から面白いなと思っていたことがある。それは、多くの人が知っているだろう、石と苔が出てくることわざ。

石の上にも三年。

A rolling stone gathers no moss.

日本人が得意とすることに、ひとつのことをコツコツと極めて優れた職人芸や芸術にまで高めていくことがある。それには長い時間をかけた訓練や修行が必要で、そういうことに価値を置く日本人には「石の上にも三年(では足りなさそうだが)」ということわざがすんなり受け入れられそうだ。

方や、今の仕事よりも給料が良かったり、もっとキャリアを高められたりする仕事があれば躊躇なく転職するのが当たり前で、ひとつの会社に何年もいるのはむしろチャレンジ精神に欠けると言わんばかりのニューヨークでは、「石の上にも三年」は全く説得力がないだろう。

もうひとつ思うのは、日本人は苔を美しいと思うーーだからこそ、日本庭園に苔むした石があったり、君が代の歌詞に出てきたりするのだろうーーが、「A rolling stone gathers no moss.」のことわざからは、苔は無用なもの、ないほうがいいもの、というニュアンスが伝わってくる。そういう美意識の差も面白いと思う。歴史や古いものを愛でる文化と、新しさやスピードを愛でる文化の差とも言えるかもしれない。




らうす・こんぶ/仕事は日本語を教えたり、日本語で書いたりすること。21年間のニューヨーク生活に終止符を打ち、東京在住。やっぱり日本語で話したり、書いたり、読んだり、考えたりするのがいちばん気持ちいいので、これからはもっと日本語と深く関わっていきたい。

らうす・こんぶのnote:

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