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勉強が嫌すぎて参考書の前で泣く大学生と、人生の振り返り

自分にとっては重大な問題で、避けていたからこそ今更ぶつかった事あるのだけれど、どうしたらいいか分からず困ったことが発生している。私は勉強が嫌いだ。座学の中でも特に、問題を解くことが嫌いだ。

授業を聞くだけだったり、自由に意見を持っていいものは良いのだ。偉い人が学校に来てしていた講演を聞くのは比較的好きだったし、道徳の授業も好きだった。

勉強が嫌いであることを少し忘れていた。嫌だけどまあ、どうにかなると思っていた。が、資格試験の参考書を前に、泣いている。

問題を解いて、間違えることが悪いことでないと言葉では理解できる。しかし答え合わせをした時に誤った回答にバツをつけるのが、辛すぎる。

また、基本的に私は解いた問題全てがバツである。今までの経験で分かっていたはずなのに毎回そのことにショックを受ける。

いちいち落ち込むその時間で解ける問題があるだろう。つまりこんな形だけの勉強で、定期テストや資格試験、塾の小テストや模擬試験で合格点に届くはずがないのだ。

覚えている範囲で今、一番動揺している。いや、前に勉強と真正面から向き合った時もこんな様子になっていたような気がする。

おかしな話だが、中学生の頃にはそれなりに勉強をしていた。あんまり思い出せないけれど、行きたい高校があって、そこに受かれば何にでもなれると思っていた。

また、抽象的に「勉強ができる」人をかっこいいと思っていた。にも関わらず、相性の悪い人が自分より勉強ができて評価されていることに納得がいっていなかった。主要5科目の中に秀でた点を取れる科目のない、何にもなれなず対抗策の無い自分が嫌だった。この頃は勝ちと負けの2つで物事を見ていたのだろう。

特に、声が大きくて目立つ様子で「頭が良さそうだ」と言われることがあった。私は頭が悪かったため、「声が大きいから頭が良くないとだめなんだ」と思った。だから、勉強をする事にした。

頭が良くなれば声がでかくてもいいし、前に出てもいいし、やりたいことを堂々とやってもいいと思った。ゲームをしたり、絵を描くことが好きでも、それが家族に許されて、面倒臭がりな自分が怒られることも無くなると思った。

が、結果としてその時、嫌すぎるのに泣きながら机に向かったことで本当に勉強が嫌になってしまった。

当時も本当に勉強が嫌だったのに、今も問題集を前に顔をしかめて泣いている。おかしい。

私は、私であるために勉強ができないといけないと思った。今がその結果だとするならば、答えは「それは誤解」である。

声の大きさで採用されたバイト先で働いているし、たまたま前期取っていた授業で行われたプレゼンテーションで、先生に少しだけ褒められた。英語の授業では単位を落としかけたが、合格点に届いた時に先生からついでで、声が元気で良いですね。と言ってもらった。

が、作品を作ることが主な分野を選考しているため、声量は特に大切ではない。たしかに活きてはいるけれど、特に必要ない。

本当に、日常の小さな出来事で、「声」の項目を様々ほかの単語にすり替えた褒められ方は多くの人がされていると思う。私が自分の声について気にしすぎているため、敏感に人の意見を覚えているだけだ。

そもそも、声が通るのは生まれつきで、そんなのどうこうしようが無い。声が大きいからしっかりしている訳が無い。視野が狭く短絡的だった当時の私にはその辺の区別がつかなかった。誤った認識で生きてきたからこんなことになっている。

とりあえず自分の様子と思考を考慮して、試験勉強はできる限り真正面から向き合わず、紙に答えを書くことで間違えを視認できるようにするのはやめようと思う。テキストの横に正答を書いて、上から紙でも貼って隠しつつ解こうと思う。

とにかく、嫌なことに立ち向かうのは後回しにしていいのではないか。嫌なことが出来たところで、得意な人の方が楽しく素早くやるんだから、任せておいたらいい。それよりはまだ受け入れられる科目をを優先して勉強しても、悪いことは無いのではないか。

嫌になりすぎて数年後暴れながら泣くくらいなら、知恵がついてから対策を考えた方がよっぽど良い。基本的に嫌な勉強をする時は将来のためなのだから。

学業に対する嫌さがあまりに消化不良で、どうしたものかと思っている。またなにか自分の中で腑に落ちたことがあれば記録に残したい。

せっかくの機会だから、少し積極的に勉強との向き合い方を考えようと思う。




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