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「楽」と「自暴自棄」の違いを考える

あつ森にてカーニバルのイベントに参加した。株を腐らせる大失態をしたのでその分カーニバル家具を売って稼ごうとしたら売値低すぎてやめちゃった。海の幸で稼ぐのってマジで効率的なんだな。

今日の午前中、もんのすごい眠気に誘われて朝食後すぐに2度寝した。3時間眠っていた。昨日の夜は不安感が強くて動悸が収まらぬまま眠りについた。夜中にたびたび起きたけれど、眠りにつけたので満点だ。

何に対してもそうだが、自暴自棄になりたくなる時がある。「諦めた方が楽」なんて常套句があるけれど、それって要するに「自暴自棄になった方が楽」という意味なのだろうか。

諦める事が悪いことのように捉えられているのも、この「諦めた方が楽だけど、どうする?」みたいな煽り文句から来ているのかな。

「楽な道を選んじゃダメだ」とよく耳にするけれど、だめかなあ?本人が良ければ良いと思うのだけれど、こう声をかけられて「そうです。それはそうとして私は諦めます。」って言う人あんまり見ないな。こういう根性論自体かなり古い考え方と言えるのだろうか。

楽するために諦めるのは大切だ。心身を崩してもそのまま物事に向き合い続ける諦めない心を持っていると、気づいた時には相当深刻なうつ状態になっている場合もあるだろう。

しかし楽になるために自暴自棄になるのはどうだろうか。「自暴自棄になる」とは心のストッパーを全部外して暴れ回ることと同義だと思っている。

もうどうにでもなれと走って逃げたり、入ったことの無い喫茶店で泣きながらオレンジジュースを一気飲みしたり、暴飲暴食、自室で暴れる、意図的にゴミ箱を倒す。

そういうタガが外れた行動を自暴自棄として行うことって、心身にも負担がでかい。そしてクセになる。クセになるからマズいと感じる。

自暴自棄になることは本当に気持ちがいい。自分ことを棚に上げられるからだ。しかし自暴自棄には問題点がある。現状が動かない点だ。

諦める選択を取るのは進展だけど、自暴自棄を選択するのは停滞だ。それどころか自暴自棄には中毒性があるので足元は沼とも言えるかもしれない。

走って逃げたり、暴飲暴食をする事が悪いのではなく、それを「どうにでもなれ」という思考で行っていることがマズいと感じている。

逆に、「自分に許可する」姿勢で行うならば問題がないと同時に思う。自分に対して暴れる許可を下してからクッションを振り回すことは、今まで生きていた自分に対しての労りに繋がるのではないか。

自分の心を許して解放することは、難しいけど救済になる。今日は眠たかった。だから自分に眠ることを許可した。それで良いのではないか。

午前中はほぼ無いに等しかったけれど、1日としては悪く無かったと思う。身近な惰性も大きな惰性も、許せるようになりたい。自分で自分を苦しませる行為を行う機会が減るように、花に水をやるように、心身を生かしていきたい。

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