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怠惰で平凡になったが、これは過ちだったのか

久々にnoteに書こうと思う。日記を書くこと自体は何となく継続していたのだが、自分が生きた記録を残す必要性を疑うようになった。

今までは書かずには居られないという感じで、気がつけば数ページを文字で埋めていることが多くあったが、近頃はあまり記載するほどの出来事が起こらないような気がしている。

その理由を考察するに、躁鬱状態の回復があると感じている。感情の起伏が落ち着いてきたことで、今しか感じられない感情など無くなったように思う。

感情の起伏の無い生活は楽である。が、同時に「平凡」とはこのような状態を指すのだろうなと思う。

怠惰な人間になることを極端に恐れて、常に点をとったり評価されることを目指していたあの頃の方が、あまりに立派だった。それと同時に今の5000倍は辛くもあったが。

のうのうと成長することを放棄して生活する状態のことを、恐れていた。恐れていた自分になったのだ。

あの頃は気分が悪かった。自分の非を攻めて泣くことばかりだったし、誰も私の事を理解などしてくれないと思っていた。

実際、身近にいた人間は私が何を目指して何に落ち込んで泣いて暴れていたか、到底理解できなかっただろう。

ひとつの失敗を必要以上に責め、それを機に調子を崩し、全ての計画が崩れ落ちる。かと思えば急に元気になりまた高い目標を掲げて高らかに周りに宣言し、全力を尽くす。

その状態のことをかっこいいと思っていたし、それが私がなりたいものになる唯一の手段だと思っていた。

輝いている人間になりたかった。誰から見ても、希望を感じるような。周りに憧れられる人物になりたかった。

高い目標にたどり着くことなく、通院を開始。休めば休むほど体調は悪化する一方で、何度も死のうと思った。

本当に、生きていることに価値はないと信じたし、死ぬ事の難しさも痛感した。

薬を飲んでめちゃくちゃになっても、泣いて朝を迎えることしか出来ない。体は動かず、一日中布団の中で過ごす日々が、3年間続いた。

その時は、この全てを記録して残したいと思った。死んだ後に、こんなに苦しんでいたことを人に伝えるためならばと、ひたすら日記を書いた。人を呪うような、陰鬱な言葉の並んだノートが数冊ある。

今は?今の私はどうなのだろうか。希死念慮を追いやり、体調に多少の波はあれど、外に出たり人と会えるくらい体力が回復した。

通信制高校に通っていたため、進学先でどれほど体が追いつくかは分からないものの、私の中では信じられないほど回復しているように感じる。

もう、私にノートは必要ないのかもしれない。辛い気持ちも、吐き出したい思いも、もう見つからない。

それならいい卒業なのかも。コロナ禍、貯めたお金で本革のシステム手帳を買って、いいことも悪いことも記録していた。

今の私に記録が必要無くなったとすれば、それは成長なのかもしれない。

1度ノートから離れて、自分と向き合う次の趣味を見つけることが、最前のように感じる。

一人でいる時間が好きだ。人と過ごす時間はスパイス程度でいい。これからも素材の味を生かすような生き方を、自分に納得して継続したい。


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