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私は「もやもやする」から脱出しなければならない

「なんか、もやもやするんですよね」。

この言葉を使い続ける限り、私はある領域からの成長は見込めない。ここから脱出しなければならない。そのための加速度を獲得しなければならない。そう思った。

この表現は大変便利で、ここ4・5年くらい、とても頻繁に使われるようになった。例えば、会社で上司の言動に違和感を感じたとき。例えば、同僚の言動に問題を感じたとき。コミュニケーションのあらゆる場面で「もやもや」である。これがモクモクと煙のように、あらゆる隙間に登場する。不思議なことに、この「もやもやする」という煙は、妙に肯定的に受け入れやすいという特質を持っている。

なぜだろう?

恐らく、感情と論理の間の隙間にうまく嵌まる言葉なのだ。そして、それを説明する理由を放棄する言葉だ。

これが「私は悲しいと思った」という感情表現であったらどうだろう? その感情の表明は、表明した相手に強い反対の意志として受け入れられるだろう。この「悲しい」という感情の表出に至った理由について説明する義務が発生する。

またこれが「私は納得ができない」という論理的な表明であったらどうだろう? これもまた、強く反対の表明となる。なぜ納得できないのか、納得できるのはどんなことか説明しなければならない。

そこで「もやもやする」である。「もやもやする」という感情・論理は「もやもやする」という表現によって「その原因は私にも分からない」という予防線があらかじめ張られている。ここでなぜか、その理由を説くのは相手に託される。要するに、自分ではその理由を説明する義務を放棄しているのだ。

本当にこれで良いのか? 

アジャイル開発の1つの重要な役割であるスクラムマスターの研修を受けたことがある。スクラムマスターは、開発プロセスを回していくための重要な役割であるが、その中の重要なミッションとして「組織の課題を解決する」ということがある。

このときの講師の言葉で、ずっと心に棘のように刺さっている言葉がある。(上記の本からの引用ではない)

「難しい問題だ」と言ってはいけない。あなたの役割は、その難しい問題を、簡単な問題にすることにある。「難しい問題だ」という言葉は、あなたの役割を放棄している。

スクラムマスター師匠より

実に難しい問題は世の中に沢山溢れている。これをただ「難しい」と表明することに何の情報量も存在しない。ゼロだ。難しい問題であれば、その「難しさ」を表現しなければならない。「なぜ難しいのか?」「それを難しくしているのはなぜか?」という問いを発することこそが、それを解くための鍵となるだろう。

これと同じような課題が「もやもやする」という言葉にある。この言葉を発するのは、「自分にはこの問題を解決する気がない」という表明であろう。あなたは問題を解くのは人に任せて、自分は問題を指摘するだけの存在になりたいのか? もしくは問題を解く側になりたいのか?

私は問題を解く側になりたい。困難な問題を解くことが自分のミッションだ。だとすれば「もやもやする」から脱出しなければならない。「もやもやする」と感じたのならば、それからすぐに行動を始めるべきなのだ。つまり、以下のようなことだ。

  • 「もやもやさせる」ファクトをきちんと言語化する

  • 「もやもやする」感情を明確にする

  • 「もやもやしない」状態とは何なのかを定義する

  • 「もやもやさせる」原因を取り除く行動を開始する


そういえば、ジョジョの奇妙な冒険の第5部にこんな言葉がありましたね。




「ブッ殺す」…そんな言葉は使う必要がねーんだ。なぜならオレやオレたちの仲間はその言葉を頭の中に思い浮かべた時には!
実際に相手を殺っちまってもうすでに終わってるからだッ!だから使った事がねぇーッ
「ブッ殺した」なら使ってもいいッ!

ジョジョの奇妙な冒険 第5部 プロシュートの言葉より

「もやもやする」…そんな言葉は使う必要がねーんだ。
「もやもやした」なら使ってもいいッ!

要するにそういうことだ。

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