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「観察」することの困難さと、4分33秒

ただ「観察」するということは、とても難しいのではないか。最近その思いが強くなってきた。

近年、「観察」の意義が高まっている。例えばOODAループ。観察(Observe)- 情勢への適応(Orient)- 意思決定(Decide)- 行動(Act)- ループ(Implicit Guidance & Control, Feedforward / Feedback Loop)によって、健全な意思決定を実現するというこの手法。「観察」はすべての意志決定の先駆けになるもので、とても重要なものだ。



観察 (Observe)
監視[4][7]・観察と訳される。意思決定者自身が直面する、自分以外の外部状況に関する「生のデータ」 (Raw data) の収集を意味する[3]。

理論の原型となった空戦においては、パイロット自身の目視、機体装備のセンサー、あるいは地上レーダーや早期警戒機からの伝送情報により敵機を探知する。また、地上部隊であれば斥候部隊や航空偵察、艦艇であれば艦装備のセンサーおよび外部のISRシステム(偵察衛星や航空偵察)も使用される[4]。

また部隊指揮においては、「観察」段階から「情勢への適応」段階にかけて、C4Iシステムを用いた共通戦術状況図(CTP)および共通作戦状況図(COP)の作成も行なわれる。これは、各階梯において情勢認識を共通化し、情勢判断と意思決定の基盤となるものである[4]。

wikipedia 「OODAループ」より

また、以前も紹介したがNVC(Nonviolent Communication)について解説した『「わかりあえない」を越える』においても、「観察」が大きなキーワードとして解説されている。
NVCでは2つの問いが重要視されている。1つめが「今この瞬間に、わたしたちの内面で何が息づいているか・生き生きしているか?」。そして2つめが「人生をよりすばらしいものにするために何ができるか?」である。これらの問いに答えるには、「いかなる評価も交えずに答えること」が必要になる。

自分の内面で何が息づいているか(What'saliveinus?)」を伝えるには、そのためのリテラシー、つまり自分の内面を把握して言語化する力が必要です。その第一歩は、「はじめに」のエクササイズで投げかけた問いに、いかなる評価も交えずに答えることです。そこでは「誰かの行動で、あなたにとって気に入らない体験だったこと」を具体的に思い浮かべていただきました。わたしはそれを「観察」と呼んでいます。相手の行動の何を好ましく思い、何を好ましく思わないのでしょうか。

マーシャル・B・ローゼンバーグ. 「わかりあえない」を越える

「生のデータ」 (Raw data) の収集、いかなる評価も交えずに答えること。これが「観察」である。これがいかにも簡単そうに見えるところが罠だと思う。

例えば、あなたが青信号が赤信号に変わるのを見たとする。

「いかなる評価も交えずに」これを見ること、観察することが可能だろうか? 当然のごとく、このとき我々は「意味」をほぼ自動的に解釈している。つまり「止まれ」だ。本来は信号機の赤と「止まれ」の意味には物理的な繋がりがない。社会に張り巡らされた意味のコードが、この解釈の自動化を可能にしている。

そう、解釈は自動化されるのだ。

これはもちろんメリットは多くある。例えば車を運転しているとき、いちいち意味を切り離して観察しているのでは目に飛び込んでくる情報量を処理するのは難しいだろう。
また、社会には「早く答えられることが美徳」とされる傾向が存在する。このようなときにも、「自動的」に判断することは良いものとされるだろう。それが本当に良いかどうかは議論の余地があるとはいえ。(この辺の話は以前ブログに書いた)

さて、この「自動化」から離れて本当にただ「観察」することは人類に可能なのだろうか? 認識のバイアス(いつのまにか出来てしまった思い込み)から自由になることは可能なのだろうか?

これを実現するのはとても難しい。どのように手に入れたものを手放す必要がある? 認識の眼鏡をどのように捨てれば良いのだろう?

と、ここでふと思い出した。ジョン・ケージの4分33秒だ。4分
33秒無音というこの曲は、その時間の中で発生する「音」の存在を逆に浮き彫りにする。

楽譜では4分33秒という演奏時間が決められているが、演奏者が出す音響の指示がない。そのため演奏者は音を出さず、聴衆はその場に起きる音を聴くことになる。演奏者がコントロールをして生み出す音はないが、演奏場所の内外で偶然に起きる音、聴衆自身が立てる音などの意図しない音は存在する[2]。沈黙とは無音ではなくて「意図しない音が起きている状態」であり、楽音と非楽音には違いがないというケージの主張が表れている[3][4]

Wikipedia「4分33秒」より

面白いのが、「ただ耳を澄ます」「観察しよう」という行為よりも、「この時間の作品を聞いている」という行為にする方が、より音が認識の内部に現れることだ。例えば、4分33秒は長いとしても「10秒」でもやってみてほしい。今から「10秒」という作品を演奏する。あなたは何を聞くか?

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きっと今まで聞かなかった音が立ち現れてきたはずだ。ただ「観察する」という行為だけでは立ち現れなかったものが、作品という「フレーム=窓」を導入することで認識の内部で鮮やかにダンスを始める。
これは例えば、ただ自然の中を観察しようとするよりも、家から窓というフレームを通じて見た方が観察が効果的になるということかもしれない。

認識を捨てるのではなく、認識の「窓」を設けることが重要なのだ。

とすると、観察するための戦略はどのようにあるべきだろう? 例えば、人のふるまいを観察しようとするとき、以下のような戦略が効果的かもしれない。
 - 人を、「鏡」に写ったものとして見る
-  人を、テレビの向こうで話している人として見る
- 人が話しているのを、演劇の中のふるまいとして観察する

このように、認識の窓を設けることで新たな視点が得られるかもしれない。ただこれはまだ仮説の域をでない。実践してみて、また結果を報告できればと思う。









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