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「問い」の呪いを解かなければならない

「問い」を発する力。

これこそが人類が持つ最強の力なのではないか。人類はこの力により知性を伸ばし、行動範囲を拡げ、社会を発展し、現在に至った。そのような仮説がありえるのではないか。私の中で「問う」ことの意味が年を経るごとに重要になってきている。

こう思い始めたきっかけは様々だ。1on1による対話、ワークショップによる熟考、一人の試行錯誤。ただ大きな変動要素になったのは、「問い」によるリフレーミングを知ったことだ。

安斎 勇樹さんの一覧の著作や文章は、「問い」の力をシンプルに、かつロジカルに表現していてとても面白い。対話やファシリテーション、ワークショップ、チームビルディングに生き生きと息づく「問い」の力。これらはまた別にしっかりと掘り下げたい。

この大きな力を持つ「問い」。しかし私は、どこか心の底でしっくりきていなさを感じていた。腹落ちできなさ。なぜか「問い」を前にすると、不安を感じてしまう。素晴らしいものと分かっているのに、手を出そうとすると痛みがある。尖って手にやんわりと刺さる。これは何か?

「問い」には3つの呪いがかけられている。私はそういう結論に至った。

1つめの呪い。「問い」に対する答えはすぐに答えなければならない、という呪い。

とにかく「すぐに」答えることが優秀さの証であり、答えられないのは愚鈍である。これは実に、まったく、100%勘違いだ。すぐに答えられない問いは、答えられないものであり、そういう性質の問いは確実に存在する。
あるものを見て「面白い」と思った。「なぜそう思ったのか?」と問いかけられたとき、すぐに答えられるのは軽薄だ。そのときの心の動きの微細な襞、想起される記憶などを観察する時間。それらを分析する時間。そして判断に至った時間。それらをしっかりと駆動する時間が必要だ。メロディが存在するのに時間が必要なように。
恐ろしいくらいに我々は、「すぐに答えなければならない」というこの呪縛に捉えられている。答えるには時間が必要なのだ。そしてそれでも、決して答えられない問いが存在する。そのことを認識しなけらばならい。

2つめのの呪いは、「問い」には批難が含まれている、と認識してしまうという呪いだ。

「なぜあなたは生きるのか?」と問いかけれたとき。これが典型的に、この呪いが発動する。なぜか、これが「あなたは生きている価値が無い」という批難という形で認識しています。そう思いませんでしたか?
恐ろしいくらい、我々は問いの中の「文脈」を重視する。問いそのものよりも文脈の方が過剰に息づいてしまう。そのため、この過剰さを超えるために、より過剰に「文脈の無さ」を強調する姿勢が問う側にも求められる。
「これは単純に疑問として聞いていて、私も知りたいから聞くのであって、批難する意図は一切ないんだけど、なぜあなたは生きているのか教えてほしい」。これだけ過剰に文脈を消去しても、まだ批難の残滓は残っている。難しい。

3つめの呪いは「問う」ことが簡単、「答える」ことこそが難しという呪いだ。

ありとあらゆる「答え」「解決策」「ソリューション」が世の中に溢れている。ただ、難しいのはいかに「問い」を見つけるかだ。「問う」ことこそが、これのみが、「答え」を生み出すエネルギーになる。iPhone、Uber、AirBnBなど、新しいプロダクトやサービスのソリューションは、その「問い」を見つけたことがきっかけとなり想像された。この「問い」を見つける方法は、「ふとしたきっかけで」「思いつきで」「感性」で見つかるものだとして、社会で放置されている。問いの方法をいかに見つけるか。それがこれから必ず重要になってくる。

この3つの呪い。ここは私の憶測だが、これが駆動してしまうのは学校教育が理由なのではないか。テストによって即時の答えが見いだされる「問い」。教師による叱責に使われる「問い」。常に答えを探すことだけを求められ、探すことが行われない「問い」。これらの問いの使い方を何度も何度も反復する学校教育の時間。
学校教育自体が悪いのではない。「問い」に対して粗雑に扱ってきた、社会そのものの問題が根本にあるのだろう。だからこそ、「問い」の力を見つける必要がある。すべての人間に「問い」を発する権利があり、「問い」の力を発動する権利がある。教師や権力者だけのものではないのだ。

「問い」を発すること。素朴に、純粋に問うこと。これからの人生で私はそれを常にやっていきたい。

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