普通
普通でいられたらな、と何度だって後悔をした。
自分は世界にいる大多数の人とは違うんだ、自分だけがこんな感情を味わってるんだ、誰にもわかってもらえないんだ、と思っていた。
普通がよかった、普通でありたかった。
それが、もう、ずいぶん昔のお話のように思う。
普通、なんてものははなから存在しないのかもしれないことに、最近気がついた。
そもそも誰が、普通、の定義を決めたのだろう。誰が、普通、を測れるのだろう。
その人それぞれの尺度で測られた、普通、の枠に収まっていられる人なんていないんじゃないか。
その人それぞれの尺度で測った、自分が思う、普通、の枠にさえ自分は入り込めていないのに、じゃあ逆に普通な人、ってなんなんだろう。
大学生になって、
環境が変わって、
今までなりたくてもなれなかった自分になれるようになって、
それでもまだ普通を演じている場面もどこかではあって。
だけれど、普通じゃない、自分らしい自分、でいられる方が楽しくて、笑っていられる。
「僕」をちゃんと口に出して使えるようになって半年くらい経って、家で「私」って言える自分も確かに自分なんだと認められるようになって、「ネウ」という人格も、ちゃんとここにいる、と感じられるようになった。
周りに支えられながら、ようやく人間らしい形をして生きているような気がする。
誰かが思う、普通、の枠に収まりたくて、変な目で見られるのが嫌で、生きている中で、どこかの場面では、まだ必ず自分を偽ってしまうこともある。
だけど、その偽る機会がどんどんと減って、偽りを感じる時間がどんどん減って、どんな自分であっても、偽りだと感じなくなった。
自分の中の普通は自分が認めた僕で、私。
誰かの普通はきっと私。
少し前まで、私、は嫌いだった。
誰かの枠に収められているような気がして嫌いだった。
今の僕は、そんな、私、ですら許容できるようになって、偽りの自分を感じなくなった。
結局、どんな人だって、普通の枠に収められるはずがなくて、十人十色の世界を持って、今を生きている。
そう考えれば、世界が綺麗に見えた。
広く見えた。
普通、なんてものに囚われている場合ではなかった。
今でも、やっぱり、普通であれればよかったのに、と思うことはあるけれど、それはエゴで、普通であれば楽だった、普通じゃないことに悩まなくてよかった、って自分の目線では思うけれど、
きっとそうじゃなくても悩むことはたくさんあって、楽な人生なんてこの世界にはないと思った。
悩んで、悩んだ先に、普通じゃない僕が存在してしまったのだから、この世界は単純明快なんてはずがない。
普通じゃない、ならば、もうそれを楽しむしかないね。
僕は、僕で私。
普通じゃないけど、僕の中の普通は僕。
楽じゃないけど、楽しい生き方してるよ。
また。
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