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綺麗なものを

昨日、号泣してたふちで、
「心が綺麗だね」
って言われたことが、心のどこかに引っかかっていて、
自分のことをもっと言語化しておきたくて、
せっかくなら、もっとぼくの生きた形を、声を、言葉を、残しておきたくて、筆を進めてみます

昨日、30分くらいずっと涙がとめどなく流れてきて、
その間に、濃かった時間が全部全部、綺麗に「思い出」に消化されてしまいました。自分の中に、「綺麗なもの」のまま残されることになって、それがどこか寂しいようで、だけれど、美しくて儚いものであって喜ばしい。

泣きながら、楽しかった時間が全部走馬灯みたいに思い出されてきて、
何か取りこぼしがないか探すみたいに時間を遡ったあの感覚が、とても忘れ難い

みんなで料理したり、寒いのに駆け回って、色々なお話をしたり、自分の好きなこととかやりたいことをちゃんと知っていかなきゃいけないなって思ったり学んだりした、あの時間が

あの時間が、綺麗だった、って感じれたのは、涙のおかげ

内心、しんどいことも多かったし、なんでこんなところに来ちゃったんだろう(笑)って思うこともありました

でも、こうやって、綺麗なもの、で消化されたのは、ちゃんとあの時間の中に、自分が純粋に楽しめた心や真っ直ぐ見れたものがあったからなのかな、と思う

他の人だったら、あの景色をどう見ていたんだろう、何を感じていたんだろう

涙が出るほど、綺麗なもの、で消化したのは、ぼくだけだったのかな

心の底から、ありがとう、と、楽しかった、が溢れてくる世界だった

前に、同じ人たちと同じ空間にいた時、
誰かと同じ目線で何かをする、みんなが同じ方向を向いてるって、とてもすごいことだ、と感じていました

今は、すごいとか、そんな言葉で済ませられるものではなくて、
自分の人生の一部だ、と間違いなく言える空間

そうやって感じられるのも、
あの空間をぼくが、「綺麗なもの」、として受け取っているからなのかな


綺麗なものを、綺麗なまま受け取れる、のは
裏を返したら、悪意のあるものもそのまま受け取ってしまうことなんじゃないか、と少し考えてみました
きっと、その通りで、その分傷つきやすくて、心がズタボロになる時もあるんだと思います
でも、そのズタボロになった心が、綺麗なものでまた回復していって、綺麗なものを見ていたい、って思える原動力にもなっているのかもしれない、とポジティブにも思えたし、実際に、綺麗なものを見たり、自分の中に入り込んでくる曲や色んな世界を感じると、泣きそうになるくらい綺麗に思える瞬間がある


自覚のなかった、綺麗、を自覚して、考えて、
また一つ自分を知るきっかけになったの、誰かと関わるってそういうことなんだ、とも思った


まだ、綺麗なものを綺麗なまま見ていたいし、残していたい



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