自分軸の評価と...

はじまり

4月は、自分と向き合う月になった。

自分の苦手なことと向き合って、自分が嫌いなことと向き合って、向き合っていくうちにまた別のものを嫌いになって苦手になって、向き合えば向き合うほどに嫌いになって苦手になって、慣れてしまって。

自分の得意なことと向き合って、できることと向き合って、向き合っていくうちにまた別のものを得意になってできるようになって、向き合えば向き合うほどに得意になってできるようになって、飽きてしまって。

嫌いなことは、嫌いであることに慣れてしまった。やっていればやっている間にそういうことをしている自分に慣れてしまった。
苦手なことも、苦手であることに慣れて、やっている間にそういうことをするのにも慣れていってしまうのだろう。
得意なこと、できること、好きなことは、やればやるほど飽きて、いつしか嫌いになってしまうのか。はたまた、やればやるほど、もっとできるようになって、もっと好きになって、もっと得意になって、そういう流れに慣れてしまうのだろうか。

嫌いなこと、苦手なことから向き合い始めて、時間がない中で、どうしてもやりたいこととも向き合って、見えたものは一体なんだったのだろうか。

今日は、そんな自分の今月のお話。

自分軸の評価のこと

自分のことを、自分で見る。

得意なこともあれば、苦手なこともある。

自分の印象としては、

「暗くて、静かで、そういうことを周りからも求められていて。でも、制作したりやクリエイトするみたいに、クリエイティブにも生きたくて。人と話すのは苦手で、人前に出て話すプレゼンはもっと苦手。誰かの期待には応えたいけれど、リーダーみたいな仕事は好きじゃないし、たぶん向いてない。でも、応えようと努力は精一杯する。それから、環境に影響されがち。」

というのが、今月見えた私だった。


4月の初めにあった研修で、自分が苦手だと思うことと向き合って、向き合った結果、自分なりの答えは出せた。けれど、まだ向き合っている途中。まだ答えを変えようと、答えが正解にならないようにしている途中。

部活の部長をしていて、どうしてもその席に座らないといけないことがある。自分がいかに口下手で、話せなくて、コミュニケーション能力が低いかを毎回実感している。特に新入生で体験に来てくれた子たちに対して、あまりうまく関われなかった。特に前で話しているとき、みんなの顔を見れなかった。紙を読んだりすると、ずっと紙の方を向いたまま。

授業でもグループワークやグループごとで行う課題が多くなってきた。出た課題はその日のうちに大体やり切ってしまいたい、という私の性格上、どうしてもみんなとのバランスが取れなくて、壁にぶつかる。それでも、その課題をなんとかしたいのはみんな一緒で、自分にできることで課題を終わらせようと取り組む。
グループワークで求められるのは、話し合い。気がついたら、リーダーぽいと思う瞬間がいくつかあった。無意識にその席に座っていた。話し合いを進めないといけない、というプレッシャーからか、それとも...。理由はわからずとも、話を進めようとする立場にいる、と私が実感したのは確かだった。

向いていないことをさらに実感したのに、向いていないことをやろうとしている自分がいる。

改めて、答えが出せても、その答えを正解にしてはいけないと感じた。それを正解にすると、きっと向き合わないだろうし、その答えに満足してしまうから。正解がないから、答えを探すけれど、答えは向き合うたびに、変えていきたい。


クリエイティブな私は、変わらず。

自分が伝えたいことは伝えなきゃ伝わらない。どんな形であれ、伝える努力はしなくてはいけない。発信しなくては伝わらない。クリエイトはその一つのツールにすぎない。

クリエイトをしながら生きている自分は好き。クリエイトしている瞬間も完成した達成感も好き。誰かにはできないこと、私にしか作れない作品を作っている、という感覚が好き。

制作をしていると、たまに疲れて嫌になってりすることもある。逆に、疲れていて、課題もたくさんあるのに、制作がしたくなる時もある。

クリエイトをする自分なりの覚悟を少しだけ見た。


期待に応えたいと思う私には、最近になって気がついた。

期待されると、その人の中でそういう位置にいるんだ、と思って嬉しくもなった。期待されると、頼み事をされると安直に喜んだ。(たまに、その喜んでしまう私はやめてしまいたい、と思うこともあるが。)

それでも、その人の中で求められていたところまでできたのかはわからない。なるべく意向に沿いたいと思ってしまうが、実際はどうかわからない。


そうやって、自分を自分で見た中で、「今の環境じゃなかったらどうだったんだろう」と考えた。(もしもなんて考えても意味はないが。)

きっと今の私ではなかったと思う。

私の周りにいる人は、みんな行動力が高くて、人と話したりするのがうまくて、色々なことに挑戦しようと思う人たちだ。私がなりたいと思ってしまうような人たちだ。


私は、私でいい。
比べてしまうこともあるだろうけれど、私にしかできないことだってあるだろう。期待されて、それ全てに応えたくなってしまうだろうけれど、私には限界だってある。私にできることを精一杯やればいいのかもしれない。


他人軸の評価のこと

自分のことを、他の人の目線から考える。

他の人たちからの印象として、

「自分のことをちゃんと自分で振り返れる人」
「自己肯定感低いし、完璧主義っぽい部分もあるけど、感情と論理のバランスは良くて、周りがよく見れる人」
「賢くて、頼りがいのある人」
「周りを見た発言・発信ができて、好きなことに真っ直ぐな人」
「優しくて、他の人のことをよく理解してくれる人」
「『NEW』って人」

というものがあがった。

どれもよくよく考えたら、自分がマイナスとして取っていた部分をプラスに取ってもらえていた部分だったり、自分はそうは思っていなかったのに、周りから見たらそうなんだ、っていう驚きの部分だったり、なんとなく肌感覚で感じ取っていた部分だったりした。

自分を自分で見れる人、という部分を取ると、
こうやってnoteに何かを書き留めておきたい性格はそういうことなのだろうな、と実感した。
それから、自分をマイナスに取って見るのだって、自分がよく見えていて、何ができていないかわかっていて、そんな自分が嫌になったりするからで、自分のことをちゃんと振り返れていなかったらマイナスにも見れないと感じた。

完璧主義の話を取ると、
他人からの期待に10で応えようとしている私につながる。相手をがっかりさせたくないな、という感情からか、そういう部分は他から見れば完璧主義に見える部分なのだと思った。

周りをよく見れる、という部分を取ると、
リーダーぽいことをしているときに、確かに周りをよく見ていると感じた。現状を理解する、ということは周りをよく見て分析しているということ。それを考えた上で、無意識に周りを見れた発言ができているんだろうな、と見えていなかった自分を感じた。

NEWって人、という話を取ると、
私が自分を否定したり、肯定したりそういう私の色々を見てもそう捉えていたということで、一言では表せないくらいの、たくさんのことがあるんだろうな、と感じた。
ちなみに、個人的には、この言葉が一番好き。唯一無二な私で、これからもそうでありたいと思えたから。

それ以外にも、肌感覚で
「静かな奴は静かにしとけ」
「オタクは端にいろ」
「真面目で堅苦しい」
みたいな感覚は感じている。

でもそれは、過去の経験からの勝手なイメージや想像かもしれない。

本当は聞かないとわからない。


どちらの評価も

これからの人生で、どの視点から見た評価も変えていけると思う。

これからの私の行動次第で、また別の評価や価値が生まれてくるかもしれない。

今月、自分軸の自分と他人軸の自分と向き合ってみて、見えたのは、自分がマイナスだと、ネガティブに捉えていた部分も、他から見ればプラスになり得るし、マイナスに捉えるのは、自分の改善点だから伸び代だということ。

自分では見れない、知れない自分を他人軸の評価から知ることができて、また自分の考えが変わったように感じた。少し自分を前向きに捉えることができたと思う。

マイナスな部分を発見するのが得意で、そんな自分をよく自虐してどんどんしんどくさせることもある。プラスな部分はマイナスに隠れてなかなか見つけられないし、自分には何もできないと思いがちで、自己肯定感も下がってばかり。

それでも、今日の私の考えは、
「マイナスな部分をまずは自分の弱さだと認めて、そこからプラスに変えていけるかは自分次第だけど、逃げないで向き合ってみたい」
だ。

逃げないで。
自分にできることが増えれば、きっとまた別の答えに出会える。


先日、「嫌われる勇気」という本を買ったので、また自分のことがいろんな方向から見れるといいな。

ねうでした。いつまでもNEWを更新していく気持ちで。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?