見出し画像

伸縮自在


「堅苦しい恰好が得意ではない」
とか言って
ラクな足元を探してみたものの、
スーツスタイルにスニーカーは
やっぱりちょっと違うよな、、
と思っているここ数日。


仕事を変えて
もうすぐで2ヶ月が経ちそうな。

結局また
とある学習塾に
お世話になっている。

このような社会情勢ではあるが、
大人に比べ
子供たちの表情はどこか明るい。


少し前のことになるが、
近所に住んでいる甥っ子(姉の息子)が
増進会かどこかの問題集を携えながら
ぶらぶらとやってきたので、
僕が
「わからない問題でもあるのか。
教えてやるぞ」
と話しかけたところ、
「昨日は△△の難しい問題が解けたんだ!
あ、でもおじちゃんは、
このくらいじゃ褒めてはくれないか」
と言って
またどこかへ行ってしまったような。

その時に
やはり個人的に
「!!」
な感じがあり、
痛いところを突かれたなあとも
思ったのだ。

と言うのは、
以前に所属していた学習塾でも
「生徒のことをもっと褒めてください」
というような指示はよく受けていたのだ。

もちろん僕も、
以前にできなかったところができるようになれば
”褒め伸び”するように心掛けてはいたが、
褒める基準が
どうやら厳しい
きらいがあるようなのだ。


僕自身が子供の頃から
あまり褒められることも
叱られることもなく
ぬくぬくと育ってしまった節があるので、
(僕だけでなく他のきょうだいも)
どこまで評価すればよいのか
いまいちわからない所がある。

小学3、4年生の頃に得意だった漢字テストで
「また〇〇点だったよ!」
と母親に伝えたところで、
近所のおばさんがお茶呑みに来ている時には
「あらそうなの、よかったわね」
という感じでしかなく、
僕自身も心の中では
「まあ、近所のおばさんがいる前で
自分の子供を褒めるわけにもいかないよな」
と思ったことがよくある。

そういう家庭の環境があったからか
どうかはわからないが、
他の人に評価をしてもらうことには
限界があるのではないかと
どこかで思っているのかもしれない。


ちょうど中学生くらいの時に
愛読していたもので
『浦安鉄筋家族』という漫画があって、
ギャグレベルでは
『すごいよ!!マサルさん』
の方が高緯度な気がするのだが、
浦安の画力は好きで
よく読んでいた。

ちょっと面白いと思ったのが、
作者の浜岡賢次が
コミックスの巻末に
『作品評』
というページを設けて、
「この話は好き」とか
「最悪。またやってしまった」とか
作品の自己評価をしているところがあった。

当時10代の頃、
「僕自身が面白いと思った話と
作者のお気に入りの話とが
少し一致しないんだよな」
と思ったりしたが、
この”自己評価”というのが
すごく大事なんじゃないかと
今でも思うのである。


「クラスの☆☆君が
因数分解の応用をもう解けているのに、
自分が因数分解の基本を解けたところで
満足できるのか?」

僕自身がひねくれているのかもしれないが、
自分で達成した感が得られないことを
他者から評価されたところで
嬉しいだろうか。

自分で「できた!!」という
”してやったり”な感が得られて
はじめて外からの評価を受けられると思うのは
やはり贅沢なのか。



とは言うものの、
実姉の子供から
「評価しないおじさん」
の認定を受けてしまったのだから、
今後の自分の課題としていかなければならない。


ほめて伸びる
→時には縮む
→また機を見て伸びる



子供の頃から
柔軟性はある方だから、
僕自身もまだ伸びるのか。








以上

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?