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進化《学》と優生《論》

注意

※この記事はなんの専門家でも無い、趣味としてSF小説を創作している一般人が書いています。
※科学的に正確な記述を心がけていますが、作者の無知・勘違い等でまちがいが含まれる可能性も大いにあります。

この記事について

前回の記事を書くときにイマイチ方向性が定まらずに色々と調べていたら、あまり関係ない部分がたくさんできてしまった。なので前から構想していたフォーマットに沿う感じで別記事にしてまとめてみました。

進化《学》について

進化というとダーウィンの《進化論》という言葉が一般に普及している。しかし、ダーウィンは彼の理論をちゃんと科学的なフォーマットに基づいて提唱したし、20世紀以降のダーウィニズムはさらに科学の根本である『観測・理論・実証』に沿った《学問》として発展しているのだから、進化《論》じゃなくて進化《学》と表現することに私はこだわっている。あるいは英語(Evolutionary biology)の表現と合わせて《進化生物学》かな。でも進化と言えば一番に生物の進化のことに決まってるのだから、《進化学》で良いじゃないかと思っている。私の記事や小説では《進化学》と言ったり《進化生物学》と言ったりしているが、とにかく進化《論》では無いのだ。

優生《論》について

ダーウィンが『種の起源』で進化論を提唱したときからずっとそうだが、進化の理論はいろいろと一般大衆に《刺さる》話であるので、なにかと学問的で無い思想へ流用されてしまうことが常に起こっているなあと思う。
その中でも悪名高いのが優生《論》で、生存・繁殖競争の《適者》で無いなら社会に不要であるという感じの思想なわけだが、現代でもこの考え方に毒された人が普通にそのへんにいると思っている。
前の記事に書いたように私は生物進化という現象が大好きでリスペクトしているので、適者生存とか自然淘汰とかいう生物進化の概念に影響された思考をしているし、個人が生存や繁殖を頑張っても思い通りにいかないという現実について、地球生物史的視点から「しょうがない」なあ、という風に受け入れるしかないんじゃないかと思っている(※)。
もちろん、政治がなんとかできる部分はなんとかしていただきたい。私のパートの時給も上げてくれ~

※私が最初に生物進化の概念にハマったのは20歳くらいのときに読んだ本がきっかけで、その本はごく初歩的な生物学の本だったのだが、いろいろな生物の繁殖戦略みたいなことが書いてあり、多くの魚は数千・数万もの卵を生むが、そのほとんどは卵か稚魚の間に他の魚に食べられてしまう、というような記述だった。(わりと誰でも知ってる情報ですよね。)それまで漠然と『命の価値は重い』という24時間TV的な価値観を持っていた私だが、ヒト以外の生物の命はムチャクチャ軽いと気づいた。(そんなこともわかっていなかったなんて、バカですよね~)もともと動物の生態は好きだったが、それから生物進化について強い興味を持つようになったと思う。そんな経緯が私の生命観を作ってるかもしれない。

しかし、優生《論》については科学的知見からはずれた思想になっていて、進化学のカワをかぶってさも科学的な顔をして差別を正当化するのは一生物学徒として腹が立つ。なのでここからは優生《論》を科学的に反証していきたい。
素人が書いてるのであまりスマートな文章になってなくてすみません。

優生《論》はもともとはフランシス・ゴルトンが提唱して学問的に始まったこともあり、世間一般的に《優生学》と呼ばれているが、今では学問分野とはみなされていないので、《優生論》と呼ぶのがふさわしい。

優生《論》:人種について

欧米ではダーウィン進化論が受け入れられたあと、植民地支配を正当化する思想として、現生人類を《進化の度合い》で分ける考え方がされるようになった。植民地のアフリカやアジアは進化的に遅れた人種が住んでいるので進んだ人種である欧米の白人が支配して当然、みたいな思想である。

優生《論》は欧米のこのような植民地支配に都合が良い思想なので支持されていた。

ゲノム系統分析による人類の系譜

現在のゲノム進化学の知見によると、20万年前(数値は諸説ある)にアフリカでホモ・サピエンスが発生し、約5万年前にその一部がアフリカを離れてアラビア半島に渡り、世界の各地に離散した(グレート・ジャーニー)。

The Genographic Project:ナショナルジオグラフィック主催の人類の系統分析プロジェクト。

一度ヨーロッパに渡った人類の一部が後からまたアフリカ大陸に戻り、元からいたホモ・サピエンスと交雑した。ゲノム分析によるとアフリカ人のほとんどが「出戻り組」との混合で、そうでないのは南アフリカに住むわずかな人たちだけだ。
つまり、現在80億人の人類のほとんどが5万年前にアフリカを出たわずかなホモ・サピエンスの子孫であり、その遺伝子の多様性は極めて小さく、遺伝子レベルでの違いはほとんど無い。
5万年前にアフリカに居続けたホモ・サピエンスの数の方がずっと多かったので、交雑の影響もあるものの、アフリカ系の人々の遺伝的多様性はそれ以外の人々のそれよりもはるかに大きいことがわかっている。

アフリカ系のゲノム多様性が大きいと言っても、それは非アフリカ系と比較しての話であって、ホモ・サピエンス全体のゲノム多様性は他の動物種のそれとくらべるとたいへん小さい。現在チンパンジーの個体数は多くて50万頭くらいだが、そのチンパンジーの遺伝的多様性よりも80億の人類の遺伝的多様性のほうがはるかに小さい。

山極先生の話。

「The Genographic Project」に関するBBCの解説記事。

単一個体の全ゲノム配列からの人類集団史の推定(難しいけど、いちばん詳しい)

上の論文から画像を少し編集して転載。
PSMCモデルというシミュレーション方法を使った過去の推計値に、論文著者たちが新しいゲノムデータを当てはめて計算し直したという内容のグラフになってます(私が読み間違えて無ければ)。

Inference of Human Population History From Whole Genome Sequence of A Single Individual

どうやらアフリカ時代のホモ・サピエンスは小さい集団で局所的に細々と生きながらえていた(その間、他のさまざまな人類種もアフリカで生きていて、生態的競争関係にあった)ようで、ゲノムの痕跡(※)によると我々の祖先は全部で1万人以下だった時期があるらしい。
現在のオランウータン、ゴリラ、チンパンジー、ボノボは絶滅危惧種だが、それぞれ(大枠の種としては)1万よりも個体数が多い。そうなると当時の人類も厳しい気候変動にさらされており、人類種同士の生存競争のなかで絶滅する可能性があったと考えることもできるだろう。

※過去の人類の人口規模は現代の人類のミトコンドリアゲノム(母系)やY染色体(男系)の系統を調べることでだいたいわかる。
とはいえ、ゲノムに現れるのは現代まで繋がるように繁殖できた祖先の系譜であり、途中で途絶えてしまった系譜はわからない。なのでゲノム系統分析では結果として出てきた人口推計値を「有効個体群サイズ」と言っている。

そんなわけで、アフリカのサハラ砂漠より南に住んでいる人々を除く人類を遺伝的に区別することにはほとんど意味が無い。もし人類全体で遺伝子による区分をするとなると、アフリカ人だけで多数のクラスを作り、非アフリカ人は1つのクラスに入れられるだろう。なので上で説明したようなことを理解していれば、巷にある人種に関する優生《論》的言説は無意味であることがわかるはずだ。

優生《論》:障害者について

人種差別としての優生《論》ではなく、いわゆる障害者差別としての優生《論》はどうか?
どっちかというと日本ではこちらの話が出回っている気がする。

これについて、私はユヴァル・ノア・ハラリが『ホモ・デウス』で言ってるのと似たようなことを考えている。
つまり、産業革命以後の社会は人間の労働力が機械によって置き換えられる過程であり、機械が有能になるにつれて、不用になる人間が増えていく。
社会はそこに所属する全員の意向によってその性質が決まると思うかもしれないが、実際の社会はカジノと一緒で『ゲームのルールを作る元締めが絶対的に儲かる』仕組みだ。だから元締めになれなければ労働者になり、機械が労働を代替すればそれまでの労働者は不用者になる。
『喰い尽くされるアフリカ』という本を読んで理解したことだが、支配者層は国民が利用できる場合だけ教育や福祉を施すのであって、役に立たなければ何もしない。支配者層だってただのヒトの個体に過ぎない。進化の法則から言っても普遍的な利他行動など存在しない。

そうなると、優生《論》で言うような『社会不適合者』はどんどん拡大していくだろう。今、誰かを不用者だと言っていても、3年経ったら自分が不用者になるかもしれない。だとすると優生《論》をとなえる意味なんてあるだろうか?

能力と格差について

NHKの『白熱教室』で有名な政治哲学者のマイケル・サンデルはグローバル巨大IT企業のCEOのような人たちが世界中の富を独占していることを批判し、《能力主義》に異をとなえている。現在のIT化社会で有利な知的能力を持つ人間が得をしすぎるのは理不尽である、というような内容である。
数学やプログラミングが得意だったりするのは生まれつきの才能だったり、親が大学に行かせてくれたから才能が開花したりしたわけで、それは本人の努力では無い。それなのにそういう幸運が重なった人だけが成功し、そうで無い人たちとの経済的格差が開いていくのはおかしいんじゃないか?というようなことを言っていると思う。

生物進化の観点から見て、サンデルの言説には納得する部分もある。詳しくは前の記事を参照していただきたいが、個体の多様性によって生存・繁殖に有利・不利が生まれるが、それは持っている遺伝子と環境(社会環境も含む)で決まるので、個体の立場からすると《理不尽》なのだ。

そんな進化の《理不尽》に対して、ただの一個体である我々にできることはあまり多くない。だから一部の人たちが私から見るとしょうもない優生《論》的言説に走るのもしょうがない気もする。生物進化の巨大なシステムに対してただの一個体はあまりに軽くて小さくて弱い存在だ。我々にはそういったことを理解してしまう脳の機能が備わっているので、それがストレスになるのだ。

私の場合は、その巨大なシステムがどんなものか知ろうとすることが精神安定に繋がってる気がする。知らないよりも知ったほうが怖くないでしょ?
実際、まんまとそれに魅了されているのだ。

タイトル画像:"Evolution and eugenics" by Stable Diffusion Online

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