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生産者の教育ー自分で何かをつくる

2014/02/25 facebook投稿

某新聞の特集記事を見たら、記者は支局時代の同期で、デスクは大学のゼミの先輩で、引用されていた故人は学恩のある方でした。思い出したのは、いずれも「師匠」でつながっていたことでした。

支局では厳しい先輩がいました。でも、言われたことは今でもしみついています。大学時代の教授も厳しい人で、答えを与えずに突き放されました。しかし、その言葉が年齢を追うごとに分かるようになってきました。薫陶を受けた故人が言っていたことも当時は分かりませんでしたが、予言通りになりました。

自分は師匠に恵まれたなあと思います。若いときは、理解できないとか、つらいとか思いました。しかし、不肖の弟子でほとんど開花しませんでしたが、師匠に植え付けられた種子が、その後、いくつかは芽を出すのがうれしく、本当にありがたかったと感じます。

そういえば内田樹さんに「修業論」という新書があったなと、電子書籍をダウンロードしましたら、こういうことが書いてありました。

「修業というのは「いいから黙って言われた通りのことをしなさい」というものですけれども、いまどきの若い人たちにはそんなことを頭ごなしに言ってもまず伝わりません。どんなことについても、「その実用性と価値についてあらかじめ一覧的に開示すること」を要求しなければならないと、子どもの頃から教わっているのです」

それはどういうものかというと、内田さんは「消費者」であると書いています。消費者の反対語はもちろん「生産者」です。とすると、この10年か20年かの教育は、消費者をつくるためのものであって、もしかしたら生産者をつくる教育ではなかったのかもしれません。

黒澤明さんの映画「生きる」は、空虚な日々を送る市役所の役人の志村喬さんが末期がんを宣告され、これまでの人生の無意味さを知ります。苦悩のすえ、工場に勤める女性に「ものをつくること」のすばらしさを教わります。そして、人生最後の仕事として貧しい地域に公園をつくります。ラストシーンのブランコはご存じの通り。

政治学者のハンナ・アーレントは、人間が人間らしく生きる場として「表れの空間」という概念を提出しました。乱暴に要約すると、「人間がみずからの手でつくったものをもちより、それを共有することで人間的な公共的空間がうまれる。それはとても人間的なことである」ということだと理解しています。

安倍晋三さんが「戦後教育はマインドコントロールだった」と述べましたが、マインドコントロールは実は最近の「消費者製造」であって、「自分でものを考えて、何かをつくる」という生産者の教育を否定することだと思いつきました。消費を追い立てられる人間こそマインドコントロールされているわけで、本質的な誤謬があると思います。

あたしはかつての師匠に恩返しするには、若い人に教えないといけないなと思っているのですが、あたしの人徳のなさも大きいのですが、あまり教わりには来ない。それに恨み節はありませんが、若い人にはっきり動機づけはしないようにしているからなのかもしれません。

その時には理解できなくても、長い時間がたって、はたと師匠の言いたかったことが分かる。そういうときに幸せを感じるのですが、それを若い人に伝えるのはむずかしい。大人たちも「すぐに結果を出せ」と追い立てている。

イメージとしては、いずれは海におぼれていくレミングの行進のようにも見えます。それほど悲観的ではないですが、内田樹さんの言葉を借りれば「報奨も処罰もしない」。そんな我慢強い、おじさんになりたいと思った次第です。

理解できないことは自分で悩んで、考えて、自分なりの答えを出して、なにかを生産し、次の世代に継承していく。小さな人間集団であっても、そうすることができれば、自分にもなにがしかの存在価値があるのかもしれません。

いや、存在価値を求めるなんて消費者的要求ももたないほうがいいですね。
「黙って言う通りにしなさい」というのは現代では到底できませんので、やさしくします。でも答えとか問題意識は、自分で長い時間をかけて発見してほしいなと思います。

野坂昭如大先生曰く、「ソ、ソクラテスもプラトンもみんな悩んで大きくなった」。あたしは中年になっても小さいままですが、ふとかつての師匠に感謝の気持ちがわきました。

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