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翻訳:ものしずかな子(The Quiet Boy)


はじめに

 これはNick Antosca氏が書き、無料公開している小説を私が翻訳したものです。原文は以下のリンクよりどうぞ。

原文には1.2.3.4...などの通し番号はありませんが、読みやすさ向上のために振っています。
終わりのブラックウッドの引用は、私が訳者あとがきに代えてつけたもので、原文にはありません。

1.

 それは、ジュリア・グレイが23歳の時、教師になってたった2ヶ月目に起こったつまづきだった。都会の学校を志望していたのに、ティーチ・フォー・アメリカは彼女をウェストバージニア州レックスフォードに送り込んできたのだった。

 赴任先の同僚は、彼女に対してこんなふうに説明した。
「この町のモットー? ぁあ、非公式的には『丘と、売春婦と、飲み屋』さ」
 今のところ彼女は売春婦は見ていなかったが、丘と飲み屋があるのは確認済みだった。

「さぁて、皆さん」
ジュリアは4年生たちに言った。
「騒ぐのを止めて、お話を書きはじめてね」

 彼女は自分が教職にぴったりと思っていた。なんせ、彼女は生まれつき、教師向けの声をしていたのだ。自信に満ちていて、優しそうで、耳触りがよいけれど、権威に満ちた声。子どもたちはみんな彼女の声に耳を傾けた。話を聞かない子供は、それこそ死んだ子供くらいだったろう。
 もちろん、子供と付き合うのには声だけでは足りない。忍耐力、自分が子供だった頃をよく憶えていること、そしていちばん大事なのは子供への愛情だ。ジュリアは――たとえ自分のプライベートで嫌なことがあったり、苦しんでいるときであっても――子供が何かを上手くやり遂げたり、くだらないジョークを飛ばしたりすれば、苦しさを顔に出すこともなく、笑顔を子供に向けていた。彼女は自分の子供のように、子どもたちを愛していたのだ。

 とはいえ、教師でいることを愛しているとは、特にこの町では到底言えそうになかった。
 ジュリア自身、何人かの教師に――特に高校時代に出会った1人の教師に――"あなたならきっと夢を叶えることができるよ"と励まされたことがあった。今、彼女が望んでいるのは、そういう、たとえ数人であっても、子どもたちに影響を与えて、何かしら良い方向に人生を変えられる教師になることだった。
 けれど、レックスフォードの子どもたちはおおむね、人生が変わることを望んでいないみたいだった。彼らは4年生で既に、高等教育からドロップアウトして16歳の誕生日を迎えることを望んでいた。

「いい? お話はどんなものでもいいの。たとえ話でも、昔話でも、おとぎ話でもかまわないからね。けどね、憶えておいて。すべての物語には何があったっけ?」
「はーい、グレイ先生!」
トラヴィスが手を挙げて言った。
「始まり、真ん中、終わりでーす!」

 トラヴィスはガキ大将で、声が大きく、自分が先生になれるといつも冗談を言っていた。レックスフォードの端っこの、バラードクリークという新興住宅街に住んでいて、そこなら都会よりも税金が安いからという理由でワシントンDCに通勤する人たちの家だった。

 ジュリアは先月に、バスに乗り遅れた子どもたちを代わりに送るためにそこに行っていた。どこの家も芝生はきれいに整えられていた。一人の子供の母親は少し酔っ払っていて、ジュリアと短い会話を交わした。
「小さな木でしょ」
彼女は膨らんだ土の中にある苗木を指差した。
「全部同時に植えられたのよ。だから同じ大きさなの。小さな木くらい嫌なものって無いわよね」
 ジュリアは丁寧にうなずきながら、彼女の夫を憐れんだ。

 バラードクリークとレックスフォードの子供はすぐに見分けがついた。きれいな服を着ているのがバラードクリークだ。どちらの子も同じように頭が悪いけれど、バラードクリークの親は、少なくともわが子の宿題を手伝っていた。

「その通りよ」
ジュリアはトラヴィスに言った。
「始まり、真ん中、終わり、ね」
トラヴィスが言った"グレイ先生"という言葉が、しっくり来ない手袋のように感じた。

 休み時間のベルが鳴ると、生徒たちは席から飛び出して、ドアの前で押し合いへし合いした。
 ルーカス・ウィーバーを除いては。彼はせっせと、ジュリアが出した課題を書いていた。
 レックスフォードの子どもたちはみんな多かれ少なかれ貧しかったけれど、ルーカスは誰にもまして貧乏に見えた。黒髪で、手はあかぎれだらけだった。毎日履いてきている同じラングラーのジーンズは、自分で縫ったのかと思うくらいぞんざいにつぎ当てがなされていた。
「みんな! 静かにして! 出ていくなら列を作りなさい! ここはサーカスじゃないのよ!」
と、ジュリアはかしましい9歳と10歳の子どもたちに向かって言った。

 おとなしく従った子どもたちが出ていくのをジュリアは見た。すでに他の教師たちは、外の遊び場で子どもたちを監督していた。
 彼女とルーカスは二人きりだった。彼女の机の上は採点していないテストの答案や、準備が終わっていない教材や、書類などが埋め尽くしており、"仕事をしたいから教室から出ていきなさい"と言いたい気持ちもあった。けれど、彼女は彼の横に座った。

「ルーカス? 休み時間よ? 外に行かないの?」
 ルーカスは顔を上げずに答えた。
「おとぎ話を書いてるんだ」
「そう、分かったわ」
 ルーカスの頭越しに、文字だけではなくイラストが描かれたノートが見えた。細かな部分まで、彼は素早くイラストを描いていった。邪魔をしないよう――とてもルーカスは夢中になっていたから――ジュリアは彼を黙って観察した。その肩は鶏がらのように尖って、骨が浮かび上がっていた。
"彼は十分にご飯を食べさせてもらっているのだろうか――少なくとも、今日は朝ごはんを食べたようには見えないけれど"
 ジュリアは弱々しい肩を見ながら思った。

 彼女はルーカスについての話を聞いたことがあった。彼はマダーズと呼ばれる、電車の線路を越えたところにある連続住宅の1軒に住んでいた。通りの本当の名前はパールマター・ロード。町の中でも1番貧しい地域だった。
 2ヶ月の教員経験の中でも、ルーカスはつながりを持つのが難しい子どもだった。彼には友達がいない。まるで彼に近づいたら悪臭がするみたいに、子どもたちは距離をとっていた。

 実際、彼からはかすかな匂いがした。けれども、それはけして嫌な匂いではなかった。濡れた落ち葉のような、屋外のような、そしてペットのような匂いだった。
「おうちで犬や猫を飼ってるのかな?」
 ジュリアが尋ねると、ルーカスは少しだけ手を止めた。その質問が彼を悩ませたようだった。
「……ううん」
「うーん、じゃあお父さんかお母さんに『ペットを飼ってもいい?』って聞いたことはある?」
 彼はまだ目を紙から上げないまま言った。
「パパと一緒に暮らしてるだけ。弟もいるし。」
「弟がいるの? 先生知らなかったな。名前は?」
「トッド」
「いくつ? この学校に通ってるのかな?」
「……ホームスクールに通ってる」
 彼女は、彼が別のイラストを書き終えるのを見た。それは大きな動物で、分厚く黒い体をしていた。
 突然、ルーカスは立ち上がると、ノートのページを破ってくちゃくちゃに丸めた。
「何してるの!?」
 ジュリアの言葉も聞かず、彼はゴミ箱へと走り、丸めた紙をゴミ箱に放り込んだ。彼がきまりの悪そうな表情でジュリアを見たので、彼女は動揺した。
 そのままルーカスは外へと飛び出していった。彼が運動場に体育座りで座り込んで、他の子供達を見ているさまを、彼女は窓から眺めた。

 教師用のラウンジに居たジュリアに、3年生を担当する教師、ブレット・ガウチャーが近づいてきた。
「何だいそれ?」
「私のクラスの子どもが書いたお話です」
 ジュリアはルーカスが破り捨てた物語を、ジグソーパズルのように貼り合わせていた。

 彼女は自分が放っておけばブレットがどこかに行ってくれると思っていた。彼は大学時代に見たことがある、長い間女の子の近くをうろついていれば向こうが自分のことを好きになってくれると思いこんでいるタイプの男だった。残念ながら、代わりに彼はジュリアの隣の椅子に座り込んだ。
「どの子?」
「ルーカス・ウィーバーくんです」
「ああ。うちのクラスにはいなかったけど、変わった子だよねえ。君も困ってるみたいじゃないか」
「彼、頭がいい子なんですよ。お父さんは進路についてなにか考えてるんでしょうか」
「俺はさ、数ヶ月前にクリーニング屋に行ったんだよね。ポール・ピザの隣にある店なんだけどさ、そこにコインランドリーがあるわけよ。そしたら……ルーカスくんが腕いっぱいにシーツを抱えて入ってきて、25セントを洗濯機に入れてさぁ。で……バットマンがプリントされてるパンツまで全部脱いで真っ裸になって、シーツと一緒に脱いだ物を放り込んで、洗濯物がくるくる回るのをさ、犬みたいにじーっと見てんのね」
 ブレットはクツクツと自分の言葉に笑い始めた。
「彼、すごく貧乏みたいで……きっと他に着る服がないと思うんです」
「そういやさあ」
 ジュリアの言葉をブレットは遮った。
「君くらいの歳の時に俺もティーチ・フォー・アメリカでボルティモアに行かされたんだよね。マジであっちはすごくてさ、『ザ・ワイヤー』ってドラマ知ってる? アレみたいだったんだけど、すごいキラキラネームを付ける親がいるんだよね。うちのクラスには『ヤハイネス』『ヤマジェスティー』(※)とかいうすんげえ名前の双子がいて……」
「あ、私用事がありますので」
 ジュリアは立ち上がった。彼女はルーカスの物語を修復し終えていた。

※訳者注:原文では"Yahighness"、"Yamajesty "。日本語だと『至高天くん』と『神威くん』兄弟、みたいなニュアンスになるんだろうけど、もっと直球でDQNネームしてるのは確か)

2. 

 ジュリアは家でルーカスの物語を呼んだ。彼女は町の外れに小さなコテージを借りていた。コテージはエレイン・フィールディングという60歳のバツイチ女性の、レックスフォードのあたりでは1番手入れの行き届いた家の裏側にあって、しずかで居心地のいい場所だった。

 ルーカスの物語は「3匹のおおかみ」というタイトルだった。
 子どもというのは、時々自分の知っているお話をそのまま自分のものにする特徴がある。例えば、アイアンマンやジャック・スパロウが登場するお話とかが、生徒たちの答案の中にはあった。だから、ルーカスも『3びきのくま』の狼バージョンを書いたんだろう、とジュリアは予想した。

 内容は全く違ったものだった。ちっちゃな女の子はそこには出てこない。丘の上にある洞窟に、3匹の狼が住んでいるだけだった。小さな狼、中くらいの狼、大きな狼がいるのは同じだったけれど、小さな狼は臆病で、大きな狼は凶暴だった。中くらいの狼だけが平和主義者だった。

「……まい日、中くらいのおおかみは魚をとって、それを大きなおおかみと小さなおおかみにあげていました。けれど、ある日中くらいのおおかみが帰ってくると、大きなおおかみと小さなおおかみはきょおけんびょうにかかっていました。そして、二人はまちに行って人げんを食べることばかりかんがえるようになりました……」

 だから、中くらいの狼は洞窟を岩でふさいで、他の2匹を閉じ込めた。2匹の狼は昼も夜もうなり声を上げ続けた。中くらいの狼は毎日魚をつかまえて、岩の間にはさみこみ、家族が餓死しないようにした。そうして、彼らが出ていけないよう、じっと岩の前で寝て、見張り続けていた。

 3匹の狼をルーカスは1匹ずつ描き分けていた。それぞれの絵はさっと描かれていたが、自信ある筆使いで、まるで画家のスケッチのように考え抜かれていた。中くらいの狼は奇妙にも人間の顔をしていて、大きな狼は変な目をしていることを除けば、絵はリアルだった。小さな狼は子犬に似ていた。

 子どもが書いたにしては奇妙な話だった。彼は父親、それと弟のトッドと一緒に暮らしていると言っていた。つまり、「大きな狼」は父親で、「小さな狼」がトッド、そして彼らを閉じ込めて町の平和を守っている中くらいの狼はルーカス……ということになる。

 ジュリアは、おそらくルーカスの父親は酷いアルコール中毒だったのではないかと推測した。そして、ルーカスが父親の代わりに弟を、いやむしろ親も含めて面倒を見なければならなかったのだろう、と。父親が遅くまで眠りこけていたり、夜の早い内に酔いつぶれてしまっている間に、家事を行い弟を寝かしつける。
 でも、小さな狼まで「きょおけんびょう」にかかったのはどうしてだろう? もしかしたら、弟は父親になついていたのかもしれない。ルーカスは、今は幼くて多感な弟も、いつか父親のようになるのかもしれないと恐れて……。
 頭の中で考えを巡らせたまま、ジュリアはベッドに入った。狼が出てくる夢を見た。不機嫌そうで、黒くて、毛皮はもじゃもじゃもつれていた。

 ジュリアは学校に行く途中でドラッグストアに立ち寄り、スウェットシャツと靴下を買った。

 授業の前にルーカスの住所録を確認した。パールマター・ロード、18番地。保護者は父親のフランクだけ。フランク。彼女が思い浮かべたのは、荒っぽく、酒の臭いをプンプンさせた大男だった。
「あら、ウィーバーくんの家庭に何かあるの?」
 事務員のキャロルが尋ねた。
 ジュリアはファイルを閉じると言った。
「前に教育委員会のパーソンズ女史から聞いたんですが、芸術の才能がある生徒に向けて特別なプログラムがありましたよね、確か郡の……」
「ええ、ジェファーソン国家芸術指導プログラムでしょ。でもあれは郡じゃなくて連邦政府がお金を出してるの。特別な先生がそのお金でやってきて、月に2、3回放課後に1対1で授業が受けられるのよね」
 ジュリアはそれこそルーカスにピッタリのプログラムだと思った。

 昼休みにジュリアはルーカスを呼び止めると、服を渡した。安いスウェットシャツ2枚と赤いストライプの付いた白靴下6足。彼は最初は信じられない様子で、次に服を手放さないようにぎゅっと握りしめた。
「多分……これなら僕の体に合いそう」
 ルーカスはためらいがちに言った。
「よかった。……ところで、ルーカスくんは絵を描くのが好きだと思ったんだけど、そうかな?」
「……うん。何かを描くのが好きなんだ」
「先生、あなたには才能がきっとあると思うの。それで、特別なプログラムを受けて欲しいなって。放課後に少し居残りをして、芸術家の先生から絵を教わるの。あなたが望むなら、教育委員会の人にそう伝えるわ」
 ルーカスの瞳の中に何かが興った。熱意、あるいは希望が、ものしずかな子の目にあるのをジュリアは見た。
「うん」
「素晴らしいわ! じゃあ、早速あなたのお父さんと話をして、サインをもらってきましょう。家庭のことについて聞かなきゃいけないこともあるし……」
 ルーカスの表情が変わった。瞳の中にあった光が、ふっと消えた。
「やっぱりいらない」
 ルーカスは立ち上がり、ドアの方に走り出した。
「待ちなさい! ルーカス、どこに行くの……」
「気が変わったんだ」
 ルーカスは逃げ出した。廊下に彼のスニーカーの鋭い音が響いていた。

 その夜、ジュリアはコテージで夕食を作りながら、ルーカスの行動について考えていた。母屋からはエレインの飼っている2匹の犬――マスチフとダルメシアン――が吠える声が聞こえた。きっと庭でうさぎでも見つけたのだろう。
 彼女と父親が話すことを告げられて、あんなにもルーカスが反応したのは、そのことが恥ずかしかったからなのか?
 それはないだろう。おそらく、彼は怖がっていたのだ。自分の才能を発揮する機会を与えられたことで、フランクが自分に罰を与えると思ったのだ。

 翌日の昼休みに、もう一度ジュリアはルーカスにプログラムについて話そうとした。けれども、彼は「気が変わったんだ、やりたくないんだ」と言って抵抗するばかりだった。
 名簿に書かれていた唯一の連絡先へと彼女は電話をかけたが、
「この電話番号は現在使われておりません……」
という言葉が返ってきた。
 気になったジュリアは、去年のルーカスの担任だったシムズに、フランクに会ったことがあるか尋ねてみた。
 シムズはフランクに会ったことがなかった。それだけでなく、ルーカスに才能があるという話は彼女を驚かせていた。彼女はルーカスのことを"発達の遅れた子ども"と思っていたのだ。
 もちろん、他の教師も、誰ひとりとしてルーカスの父親に会ったことがなかった。

 私がここに来たのは、このためだ、とジュリアは思った。もし、これまで誰もこの子を助けようとしなかったり、フランク・ウィーバーに会おうともしなかったなら、私が動くのがきっと一番良かったのだろう。

3.

 ジュリアはルーカスに伝えずに、パールマター・ロードへと向かった。そこはスクールバスの終点のため、ルーカスが家に帰るのは4時頃だと知っていた。授業が終わってすぐ学校を出れば、3時40分には着く。たっぷり20分フランクと話せるのだ。

 その日は金曜日だった。最後のベルが鳴ると同時に、彼女は学校を飛び出した。さびれた家々や鎖に繋がれた犬を通り過ぎ、コインランドリーやポール・ピザを通り抜けて、彼女は車を飛ばした。他に車が走らない道は、とうに廃止になった駅へと繋がっていた。
 線路を渡って森に囲まれた道を通り、そして別の道へと入る。道に廃屋が立ち並ぶのを見て、彼女は歯が抜けた顔を思い浮かべた。

 そこがパールマター・ロード、別名マダーズだった。18番地のルーカスの家は2階建ての灰色の建物だった。玄関ポーチには陥没孔が開き、道は伸ばしっぱなしの雑草に覆われてどこを通り抜ければ良いのかわからなかった。
 ジュリアは適当に路上に駐車して、家に近寄った。近くで見れば、家のひどい状態がよく見えた。近所の家はまだ、少なくともまだ生活の痕跡があった。ポーチには子供の玩具が置かれ、窓にはカーテンが掛かっていた。ルーカスの家の庭は何年も草が刈られた様子もなく、窓には板が打ち付けられていた。
 なにかの間違いなのだろうか? 彼女は周囲を見渡した。
 辺りは静かだった。虫の声や、森の中の鳥のさえずりが聞こえた。そして、犬……犬?
 いや、この辺りには犬がいない。レックスフォードの家には必ず犬が飼われているみたいだったけれど、マダーズのどこにも犬はいなかった。けれど、この家からはペットの匂いがした。ルーカスの体からかすかに匂っていたあの匂いだ。彼は確かに、「ペットは飼っていない」と言っていたのだけれども。

 彼女は誰かが自分を見ているのに気づいた。
 いつからそこにいたのだろう。隣の家のポーチに、高校生くらいの若い男がいた。オキシコンチン中毒のような、うつろな目をしていた。
「そこでなにをしてる?」
 彼が言った。
「ウィーバーさんに話があるんです」
 ジュリアの声は、自分で思ったより上ずって、弱々しかった。彼女はもう一度言った。
「フランク・ウィーバーさん。このお家にいらっしゃいますか?」
 じっと男はジュリアを見つめていた。よく見れば、彼は最初に思ったほど若くはなさそうだった。20歳以上、いや、おそらくはもっと上かもしれない。
「そこから出ていったほうが良い」
 男は言った。
「その、私は学校の教師なんです。ルーカスの担任で……」
「そうか。警告はした」
 そのまま男は自分の家に入っていった。ジュリアは彼の後を追いかけてドアをノックし、フランクについて尋ねようかとも思ったが、やめた。彼が怖かったし、フランクも怖かった。この場所に長くいると、正気が削られそうだったのだ。

 彼女はルーカスの家の玄関に近づき、ドアベルを鳴らした。
 中からは何の音もしなかった。
 それから、最初は躊躇しながら静かに平手でドアを叩き、少しずつ叩く強さを上げていった。
「ウィーバーさん? いらっしゃいますか?」
 返事も物音もしなかった。が、ドアの向こうに誰かがいて、自分の存在に気づいているような嫌な感覚があった。彼女はふたたびドアを叩いた。
「もしもし? 誰かいませんか?」
 まだ音がしない。
 彼女は1歩後ろに下がった。そこで、窓が内側からでなく、外側から打ち付けられているのに気づいた。一番近い窓に近づくと、板がかなり雑に張られており、板の位置がずれていたり、釘がおかしな角度で打たれていたりした。
 まるで子どもがやったように。
 ずれた板の隙間から、彼女は家の中の暗闇を見つめた。

 闇の中の影の1つは、人の形をしていた。

 ジュリアは背中が冷えるのを感じた。それは15フィート離れた場所に立って、彼女の方を見ていた。もしくは、ドアにコートが掛けられているだけなのか。
 いや、人影はわずかに動いた。近づいてきたわけではない。ただ、体重移動させただけだ。それはただ立っていた――そして彼女を憎んでいた。悪意を放っていた。

 麻痺が去り、彼女は熱いものに触ったかのように後ろに飛び退いた。ポーチの端に立って、ガタガタ震えていた。首の後ろに日差しが当たり、自身を怖がりで想像力の強い子どものように感じさせた。
 怖いよお、お化けを見たよお。

 辺りにひと気はなく、静寂に包まれていた。彼女はもう一度窓のそばへ近寄って、覗き込んだ。
 ……人影は消えていた。同じ場所に影は残っていたが、それはもう、ほかの影と区別がつかなかった。

 しっかりしなさい。
 彼女は自分に言い聞かせた。ここに来たのは、助けを求める子供のため。影を見て飛び上がるためじゃない。

 それにしても、ここはなにかおかしい。家の中には、人が住んでいるようには見えなかった。ポーチの階段を降りると、ジュリアは再び家を見上げた。二階の窓は打ち付けられておらず、そこには暗いガラスがあった。

 家の周りを慎重に歩いて――こんな事をしていていいのだろうかと思いながら――裏庭を覗いてみた。
 雑草が高々と生い茂る中に、ウィンドブレーカーのように光沢のある青い生地の端が見えた。テントだ。まるでキャンプにでも行くような、たるんだ青いテント。

 テントのフラップは開いていた。彼女は近づいて、ひざまずいて中を見た。キャンディの包み紙や、ピーナツバターの空き容器が目に入った。ベッドシーツには漫画のヒーローが描かれていた。『マイティ・ソー』がプリントされた、子供用のシーツだ。ペンや鉛筆、学校のプリントに使われる9x12の紙。そして学校の図書館から借りられた『ほえろサウンダー』や『テラビシアにかける橋』の本。
 そして隅には、見覚えのある、赤いストライプが入った白靴下が畳んで積まれていた。

 ――ルーカスはこのテントに住んでいるのだ。

 可哀想な子だ。フランク・ウィーバーはどこに行ったのだろう? 彼は自分の息子をここに捨てたのだろうか? それとも、ぐでんぐでんに酔っ払った夜に二度と帰ってこなかったのだろうか?

 帰るため、表へ回り込もうとしたところで、スクールバスの音が聞こえてきた。反射的に彼女は身を隠した。
 バスからはルーカスと、彼より年上の男の子2人が降りてきた。年上の子どもたちは荒れた通りを去っていき、ルーカスは1人で家へと向かってきた。
 彼は反対側から裏庭に回り込んでいった。ジュリアは足音を殺して、彼がテントに入るところを観察した。
 しばらくして、ルーカスはソーのシーツを片手に、もう片手に他の洗濯物をまとめて、家の反対側から戻っていった。痩せた小さな背中が、小さくなっていった。コインランドリーに行くのだろう。

 彼がたった1人で生活しているのは明らかだった。ジュリアはこれから自分がすべきことを考えた。まず児童保護サービスに連絡しなければならない。それから郡にも協力要請をしないと。
 ルーカスの姿が見えなくなると、彼女は自分の車に向けて歩いた。
 途中で、首の後にチクチクした――絹のスカーフが当たっているような――感覚があり、彼女は家を見上げた。口を閉じた貝のような、石の棺桶のような家だった。

 2階の窓のあたりで、人影が動いていた。

 子供の影だった。それも、ルーカスより小さな子供。5歳位で、親指を吸っているようだった。窓から離れたのか、影は消えた。

 トッド。弟だ。

 彼女は玄関ポーチに戻って、ベルを鳴らし、
「トッド!」
と呼びかけた。
 返事はなかった。けれども、確かに彼女は子供の影を見た。彼は底にいるのだ。
 彼女はまたドアを叩いた。返ってきたのは静寂だった。板張りの窓を覗き込む。誰もいない。だが、猫のように足音を殺して、小さな影が視界の中に滑り込んできた。
「トッド!」
 彼女は叫んだ。
「私はルーカスの学校の先生なの! 中に入れて!」
 やはり返事はない。玄関のドアに手をかけたが、鍵がしっかりとかかっていた。
「トッド! 話したいことがあるの!」
 中から子猫の鳴き声のようなものが聞こえてきた。最初は小さな音だったが、少しずつ音が大きくなるにつれ、子猫ではなくて、子どもの泣き声だと分かった。寂しさと恐怖ですすり泣く音だった。

 ここに入らないと。あの子を助けないと。

 ドアを叩いた。
「私の声が聞こえる!? ドアを開けて!」
 泣き声は家の奥深く、おそらくは地下から聞こえてきた。遠くから聞こえる声は、パニックを起こしているような、ヒステリックなものだった。
 ジュリアはドアに体当りした。あの家の中ではきっと、恐ろしいことが起こっている。子どもになにか起こったのだ。狂気を引き起こすような何かが。
「今行くから!」
 ドアは開かなかった。荒々しくあたりを見回すと、草むらの中になにか鋭いものが見えた。錆びた、長い金属片で、おそらくは車から落っこちたものだろう。
 彼女はドアの隙間にそれを差し込んで、力を込めて引っ張った。朽ちかけて乾いた木から、古くなった鍵が抜け落ちて、扉は内側に開いた。

 同時に泣き声が止んだ。

 悪臭を放つ暗闇の中で、ジュリアは耳を澄ました。心臓の激しい鼓動が、耳と、喉と、左胸の下で響いた。
 熱っぽいほどに感じていた、家の中に入りたい、そして子どもを助けたいという思いが、今は冷め始めていた。本当にあの泣き声は聞こえたのだろうか?
 いいや、確かに聞こえたのだ。確かに子供の影を見たのだ。この家にはきっと子供がいて、その子はおそらく怯え、苦しんでいるだろう。

 けれど、どうしてそれなら、今こんなにも静かなのだろう。

 家の中の空気は重かった。彼女はシャツの首元を引き上げて、口を覆った。何かが腐ったような臭いがした。壁の中に動物か何かがいて、少なくともその1匹は死んで腐っているようだった。
「トッド?」
 彼女の声は空気の中で消えた。窮屈な玄関の中に彼女はいた。左手にキッチンとシンクがあり、古びた食器が並んでいて、何もかもがホコリの層に覆われていた。右手にはリビングがあった。小さな影が走るのを見た場所だ。
 リビングに入ったジュリアは、灰褐色のラグを踏んだ。隅には酒瓶が転がり、床はネズミの糞にまみれていた。壁に張られたレッドスキンズのカレンダーは黄ばんでいた。
 コーヒーテーブルの上には、スープ皿が置かれており、その中には黒い苔が詰まっていた。その横には赤土の人形が3つ並んでいた。人形の頭は不釣り合いに大きな動物のもので、多分ヤギを模しているようだった。
「トッド?」
 彼女はもう一度名前を呼んだ。
 テーブルの上には、随分昔に黒くなったような何かで五芒星のシンボルが描かれていた。星にはまだマークがあった。頂点のそれぞれに、ヤギの目のような絵があった。

 恐怖が彼女を襲った。なにか、自分が悲惨な間違いをしでかしたような気分だった。
 ここに来るべきではなかったのだ。

 自分の肌が粟立っているのに気づいた。同時に、何かが近くにいるという予感を再び感じた。板張りの向こうにいると想像した影のようなものが、近くにいる。いいや、本当は想像などできていなかったのだ――あの悪意、純粋な輝くような憎しみを。

 それは彼女の後ろに立っていた。残忍なことをしたくてたまらない、圧倒的な欲求を発散していた。人を切り刻み、冒涜し、苦悩を吸い込みたいという欲求。

 彼女は後ろを振り向いた。何もなかった。そう、何も。彼女は家から逃げようと思った。しかし、リビングルームの先には、小さな人影が入っていった、もっと暗い部屋があった。入り口に向かって、彼女は一歩踏み出した。扉の先には、光の届かないダイニングルームが繋がっていた。彼女は中に入らず、覗き込んだ。

 2つの死体があった。

 男と、小さな子供。どちらも、床に丸まっていた。死んでからかなり時間が経っている。枯れ葉のようにカサカサで、ほとんどミイラのようで、顔はどこかおかしくて……。

 突然、背後の気配が、耐え難いほどになった。まるで今、彼女の方に何かが寄りかかっているかのようだった。大きな顎が鎖骨の上に乗って、息が首に掛かる。

「アト、イッポ」

 ささやくような声がした。彼女はおこりに罹ったように震えた。何をやっているのかわからなくなり、パニックを起こして家から飛び出した。芝生の上で携帯電話を手にとって、息を呑む。圏外だ。
 あの家のせいだ。彼女は考えた。家の中にある何かしらが、きっと信号を妨害しているのだ。

 通りの半分まで行ったところで、ようやく携帯が繋がった。

4.

 保安官の名前はドリュー・イーストン。思慮深そうな痩せた男で、深いカラスの足跡があり、穏やかな笑みを浮かべていた。こんな日でなかったら、彼を魅力的に感じたかもしれない。
「ここで待っていてくれ」
イーストンが言う間に、更に2台のパトカーがやってきた。おそらく、レックスフォードの警察官の半分がここに来ていた。
「さて。中に入って何があるか見てこよう」

 彼女はパトカーの横で待ちながら、しびれを切らしていた。耳元であのささやきが聞こえていた。男の声で、荒っぽく、しつっこかった。
 保安官は数人の代理をつれて、家の中に入り、そのうち1人が戻ってきた。顔は灰色で、口をこすり続けていた。

 やがてイーストン保安官が出てきた時、彼はもう微笑んではいなかった。一気に年をとったように見えた。
「あんたの言ったとおりだった。死体は2つ。フランク・ウィーバーと、息子のトッドだろう」
「どうしても……理解できないんです。ルーカスがなんで誰にも言わなかったのか……」
 ジュリアの疑問に、イーストンは答えた。
「郡が自分を連れ去っていくのが怖かったんだろう。そういうことは、この辺りじゃ他の子どもにもよく起こっているから」
 彼は周囲を見渡した。何人かの住民が、家から出てパトカーを眺めていた。
「ケニー、コインランドリーに行って子どもを連れてきてくれ」
 イーストンが部下に命じ、ジュリアの方を見た。
「ルーカスが見つかるまで、私がここにいても構いませんか? それまでの間教えてほしいんです。ここで何があったのか。一体どうして彼らは死んだのか」
 イーストンはため息をついた。
「あくまでも推測だが。フランクは息子に殺鼠剤――大きな箱に入ってるやつだ――を飲ませて、それから自分も同じものを飲んだ。その後何が起こったのかはわからんが、多分たっぷり一年は誰にも気づかれず放置されていたようだ。ああ、くそ、なんてこった」
「その……私、家の中から泣き声を聞いたんです。それから、動き回っている人影を見たような……」
 考えるな。あくまでも見たものを話せ。
 イーストンはおかしな顔をした。
「いや、他には誰もいなかったぞ。あちこち探したからな。まだ見てないのは、地下室だけだ」
「どうして?」
「頑丈なドアがあって、鍵がかかっていた。鍵を探してるんだが、見つからなかったら鍵屋を呼ばないといけない」
「そこに誰かいるのでは?」
「それなら、随分静かにしてることになるな」
そう言いながら、彼は首を振り、ゆっくり息を吐いた。
「どうしたんです?」
ジュリアは尋ねた。
「……25年間、俺は警官をしてきた。若くして死んだ人間も少しは見てきたよ。でも、これは……この場所は何かがおかしいな」
 ジュリアは頷いた。彼女は知っていた。

 アト、イッポ。

 イーストンは嫌々ながら家の中にまた入っていった。しばらくすると検死の車が到着し、白いユニフォームを着た検死官が死体袋を運び出した。

 小さい方の死体袋を彼らが車に積み込んでいる時、ジュリアの背後の森の中から、足音――柔らかくてひび割れたような音――が聞こえてきた。彼女は悲鳴を上げて、振り返った。

 それはルーカスだった。近道をして森の中を通ったようで、そのため警察は彼を見つけられなかったのだ。彼は『ソー』がプリントされたシーツをぎゅっと握りしめて、死体が運び出されるところを呆然と眺めていた。
「何を……やってるんだ!?」
 上ずった声で彼は尋ねた。
「お父さんとトッドを見つけたんだよ」
 できるだけ優しい声でジュリアは言った。
「あなたが独りぼっちで頑張っていたことはよく知ってるからね、もう大丈夫、私達は……」
「あの人達は何をしてるの?」
「ルーカス、いつから独りぼっちだったの? 教えてくれない、いつからたった1人で生きようとしていたの? どうか教えて、ね」

 ルーカスは聞いていないようだった。彼はふらふらと数歩歩き、バンに乗せられる小さな黒い死体袋を信じられないものを見るような目で見つめていた。
「あの人達は2人を外に出したの?」
ルーカスは言った。
「外に出してしまったの?」
「落ち着いて、ルーカス。誰もあなたを連れ去ったりしない。あなたはずっと……」
「奴らにそんなことさせないで!」
 彼の表情は悲痛なものだった。選択の余地がない絶望を突きつけられた者の顔だった。

 そんな思いを子どもにさせてはいけない。

 ジュリアはルーカスの前に立ち、視界を遮った。肩に手をおいて、目の高さを彼に合わせた。
「大丈夫」
ジュリアは言った。
「辛かったでしょう。私には想像もできない。でも、私はあなたのためにそばにいるから。約束する。わかった?」
 ショック状態が収まり、彼の目に理解の色が浮かんできた。彼は頷いた。
 ジュリアは再び言った。
「約束だよ」
 彼はとても静かに答えた。
「すごく怖い」
 ジュリアは思わず、彼をぎゅっと抱きしめた。

 ジュリアは、ルーカスから聞こえないように気遣いつつ、イーストンと小声で話した。イーストンはルーカスに、優しげな口調でいろいろと質問をしていたが、ほとんど反応が帰ってくる様子はなかった。
「彼はどうなるんですか?」
「とりあえず、親戚の誰かが引き取れる状況かを確認することになる。叔母さんとか、婆さんとか、そういう相手がいればな」
「もし、誰も親戚がいなかったら?」
「あー……」
 イーストンはきまり悪そうに言った。
「ま、その場合も別の選択肢があるさ。例えば、ほら、良い里親は探せば見つかる」
「とりあえず、土日はどうしますか? あのテントで眠らせるわけにはいかないでしょう」
「ああ……」
 保安官がその質問を想定していなかったのは明らかだった。
「……そうだな……モーガンタウンまで連れていくつもりだったんたが、あそこにも今晩預かってくれるやつがいるかはちょっとわからんしな……」
しばらく口ごもると、イーストンはようやく言った。
「ううむ……とりあえず、誰か子どもを預かれるやつがいないか、知り合いに聞いてみて――」
「私が預かります」
ジュリアは言った。
「フィールディングさんの裏のコテージを借りていますから。余ってる部屋もありますし」
「そうか!」
イーストンは言った。
「そうだよな、グレイ先生は彼の担任だしな。よし、そうしてくれ」

5.

 ジュリアはルーカスをコテージへと連れて行った。
 車に乗っている間、彼は何かを探しているかのように、窓から木々の間を見つめていた。遠くでかすかにサイレンが鳴っていた。レックスフォードは谷間の町なため、音がよく響くのだ。
「なにかラジオでも聞こうか?」
 他に何を言っていいのかわからなかったので、ジュリアはそう尋ねた。
 彼のような経験をした子どもに何を言えるだろうか? できるのは、とりあえず彼を安心させてあげることだけだった。
 たとえ何をしても、彼にはたくさんのセラピーが必要になるに違いない。
 いずれにせよ、ジュリアが何を話しても、ルーカスは聞いていないようだった。彼は窓の外をただ見つめていた。それから、まるで何かが追いかけてきているかのように、ときおり首をねじって、肩越しに車の後ろを見ていた。

 帰宅した時、家主のエレインはプラスチックのゴミ箱を車道の端へと置くところだった。彼女は背が高く、短髪で、ハスキーな笑い声を上げて、ぼんやりした笑顔を浮かべていた。彼女は『ヴァンダル』とロゴがプリントされた、色のあせたTシャツの裾で手を拭っていたが、ジュリアはそれが、彼女が昔所属していたバンドだとほとんど確信していた。ついでに、彼女が今でもたっぷり大麻を吸っていることも。
「あら、この子は? あなたの生徒さん?」
「ええ、ルーカスって言うんです。今週は私の家に遊びに来ているんですよ。ね、ルーカス?」
 ルーカスはエレインを眺めて、「うん」とだけ答えた。
「ルーカス、エレインは別のおうちに住んでいるの。ほら、あそこ」
 ジュリアは母屋を指差した。
 エレインは見たところ、ルーカスに少し戸惑っているようだった。が、彼女はルーカスを手招いた。
「よろしくね。……ここに来たなら、1つだけ私のためにやってほしいことがあるの。いい?」
「何?」
 少年は言葉少なに尋ねた。
「辛くても、目をそらさないこと。できるかな」
「わかった」
「いい返事。じゃあ、もう心配しなくてもいいよ」

 ジュリアは母屋を通り過ぎて、コテージのそばに車を駐車した。もう、すっかり暗くなっていた。家に入ったルーカスは、すぐに玄関の扉に鍵をかけた。それから、家の中を一周して、窓という窓にも鍵をかけていった。

「晩御飯はピザでいいかな?」
 ジュリアはルーカスに聞いた。彼女はできるだけ、ルーカスの心をほぐそうとしていた。彼女はテレビを持っていなかったから、ノートパソコンで『怪盗グルーの月泥棒』を再生して、ルーカスと並んでソファで見ていた。彼はソファの上で体育座りをして、手を足に巻きつけていた。
「外に出たくない。ここで何か食べるものはないの」
 ルーカスは答えた。
「かまわないわ、テイクアウトできるから。ソーセージとチーズ、どっちが好き?」
 冷蔵しておいて、朝ごはんにもピザを出そうと思った彼女は、Lサイズを2枚注文することにした。朝ごはんにピザを食べるのが嫌いな子どもなどいないだろう。
 彼と一緒に座ってみて、ジュリアはルーカスの鶏がらのような肩と浮いた骨、やせ細った体をあらためて認識した。彼を助けたい、守りたいという気持ちが以前にもまして強くなっていた。あの生活ぶりを知った今では、重篤な栄養失調を患っているのではないかと思えて仕方なかった。
 明日には病院に行って、医者に見てもらおう。いや、今すぐ病院に行ったほうが良いかもしれない。

 だが、ルーカスをこれから病院に連れて行って、彼の最悪の週末をこれ以上悪くするのも嫌だった。映画はいいところだったし、ピザは頼んでいたし、そして休日診療ができる病院へは車で片道1時間はかかるのだ。
 ただ、明日のために準備することはできる。ジュリアはキッチンへと携帯電話を持って向かった。イーストン保安官の番号を登録しておいたのだ。

 ずいぶん待たされて、彼はようやく電話に出た。
「……誰だ?」
 彼は荒く息をしていて、背後では大きな音でサイレンが鳴っていた。保安官自身が運転をしているのではないか、とジュリアは感じた。
「ジュリア・グレイです、保安官。ルーカスの健康状態がずいぶん悪いみたいで。多分栄養失調みたいで。無理もないですよね、今の生活を考えたら――」
「ああ、分かった。明日病院に連れて行く……」
「ええっと、その……大丈夫ですか? まるでまた何かあったみたいな……」
 ジュリアの質問に、彼は答えた。
「バラード・クリークにいま向かってるんだ。あそこで何人か怪我した人がいるらしい――それもひどい怪我を」
 ひりついた声は、マダーズに現れた頼りになりそうな警察官と同じ人物が発しているとは思えなかった。
「俺はそっちに行かなきゃならない。それと、ウィーバーの家のことなんだが、その……ここで話したことは内密に頼む。あの家の地下室に入った。で、そこで動物が何匹も殺されてるのを見た」
「動物……ですか。どんな」
ルーカスに聞こえないように、小声で彼女は尋ねた。
「犬や猫、主に犬だ。首輪やタグが付いているものもあった。ああ、くそ、神よ、あんなもの今まで見たことがない。ありゃまるで……雑巾みたいだった。ねじれて、めちゃくちゃで……」
「めちゃくちゃって……」
「ああ、そうだ。雑巾を固く絞るときみたいに、犬や猫をねじって、中身を全部絞っちまったみたいだった。首輪やタグがついてるものもあった。しかも……中には割と最近殺されたやつもいた。多分1週間か、それ以下しか経ってないような」
 ジュリアはリビングを振り返った。ルーカスは映画を眺めていた。
「どれくらいの大きさの動物だったんですか……」
 彼女はつぶやくように言った。電話の向こうでは警察無線が聞こえていた。
「小さい。小型犬と猫だ……おい、グレイ先生。俺は地下の動物に何が起こったのかは知らない。が、あの子を家に置いておきたくないなら、俺が預かる。警察署に連れてきてくれ。分かったか?」
「また電話します」
 彼女は静かに言った。

 ジュリアは電話を切り、リビングルームを振り返った。ルーカスはもう映画を見ていなかった。彼はこちらを見ていた。
 学校で、まるで彼が臭いかのように、生徒が彼に近づかなかったのを思い出した。でも彼は臭くなかったのだ。彼からはペットの匂いがした。

「雑巾を固く絞るときみたいに、犬や猫をねじって、中身を全部絞っちまったみたいだった」

 ジュリアは痩せこけた腕と白い小さな手を見た。
 彼にはそんなことはできない。たぶん、おそらくは。
 彼女はルーカスの元へゆっくりと歩いていった。彼は彼女のことを見つめ続けていた。隣に座ったジュリアは、彼の目を見た。
「ルーカス……あなたのお父さんと弟は、いつ亡くなったのかわかる?」
「話したくない」
 彼は言った。
「必要なことなの。――どうして亡くなったの?」
「話したくない」
 彼のつぶやきは、ほとんど消え入るようだった。
 ジュリアはルーカスを見た。彼のことをシャイで繊細な子どもだとジュリアは思っていた。けれども、それはもっと別のものじゃないだろうか。もっと冷酷で、は虫類のような心を間違って解釈していたんじゃないだろうか。彼女は映画の『悪い種子』を思い出した。それとも、『禁じられた遊び』だったか。教師になりたての頃、誰かがそういう映画についてジョークを飛ばしていたっけ。
「……ルーカス。地下室で……動物が見つかったのよ。何のことだか分かる?」
 ジュリアはつかえながら言った。
 返事はない。
「どうして動物が地下室に入ったのか、分かる?」
 返事はない。
「あなたが……そこに置いたの?」
 彼はゆっくりと、首を縦に振った。彼女はルーカスの腕をつかんだ。硬い骨の感触がした。
「ルーカス……もしあなたが答えてくれなかったら、私、あなたのことを助けられなくなる。どうか、どうか本当のことを教えて――誰が地下室で動物を殺したの?」

 彼はただ、じっと彼女を見つめていた。

 夢の中にいるみたいに、何も考えることができず、彼女は立ち上がって後ずさった。
 エレインの家の犬が吠えているのがおぼろげに聞こえたが、しばらくすると2匹とも黙ってしまった。それからは、再生されっぱなしの映画から、あざわらうかのような音声が聞こえていた。
 ジュリアがキッチンへと戻るのを見届けて、ルーカスは窓の外を見た。もうすっかり暗くなっていた。

 ジュリアはもう一度イーストン保安官に電話を掛けた。今度は3コールでつながったが、つながると同時に、電話口にいる保安官の背後から凄まじい叫び声が聞こえてきた。性別は分からないが、少なくとも人間の声で、悲鳴なのには間違いなかった。
「あ……あの悲鳴は誰!? 一体何が起こっているの!?」
膝ががくがくして、足下がおぼつかず、パニックになりながらジュリアは聞いた。
「グレイ先生、後でかけ直してくれ!」
 保安官は声を荒げた。
「バラードで何人も人が……殺されたんだ」
 "殺されたんだ"という言葉の前には、少しだけ間があり、それはただの殺人ではないことを表していた。もっとひどい、多分、異常なことが人々にふりかかったようだった。
「多分何か……凶暴な動物が逃げ出したみたいで、それがどこにいるのかわからないんだ」

『大きなおおかみと小さなおおかみはきょおけんびょうにかかっていました』

 バラードクリークの綺麗な芝生の上に、ズタズタにされた人間の体が赤いラグマットのように転がり、そしてそれがタオルを絞るようにねじられてゆく、鮮烈なイメージが彼女を襲った。
「保安官、ルーカスのことですが……」
「今そんな時間がない! ドアにしっかり鍵を掛けておいてくれ!」
「はい、もう閉めて――」
言い終える前に電話が切れた。

『そして、二人はまちに行って人げんを食べることばかりかんがえるようになりました』

 電話を見ると、なぜか圏外になっていた。まるで、ルーカスの家の中のように。同時に、やはり家の中にいた時のように、皮膚が粟立つのに気づいた。
 ルーカスを再び見ると、窓の外を眺めながら、彼はソファの端を強く握りしめて、半ば白目を剝いていた。彼が犬なら、きっと背中の毛が逆立っていただろう。
「ルーカス」
 ジュリアはささやいた。
「何を見ているの」

 その時、叫び声が外から聞こえてきた。エレインの家がある方角だった。あまりにも生々しくて聞き慣れないものだったから、ジュリアは最初それがエレインの悲鳴だと気づけなかった。彼女はドアに向かいかけたが、ルーカスがしゃくり上げるような声で叫んだ。
「ダメッ! 外に出ないでッ!」
 彼女が躊躇したのは良いことだった。なぜなら、表で何か動くのが見えたからだ。ルーカスも同じように動くものを見て、窓から後ずさった。

 そこには子どもがいた。小さくて黒く、草の上でおかしな動きをしていた。それはジュリアがルーカスの家で見た、小さな子どもの影と同じシルエットをしていた。
 けれど、違う点として、その頭からは木の枝のようなものが生えていた。それは、まるで鹿か何かのような枝角だった。
 影は親指をしゃぶりながら、草むらの暗がりの中をぴょんぴょん蛙のように飛び跳ねていた。遊んでいるのだ。まだ苦痛に満ちた叫び声がエレインの家から聞こえていたが、その影はちっとも気にしていないようだった。
「ルーカス……あれは何?」
 ジュリアのこわばったささやきに、ルーカスは答えた。
「トッド」
「――トッドは……あなたの弟はもう亡くなったのよ」
「よく知ってる」

6.

 エレインの悲鳴が止んだ。永遠に続いているように思えたが、実際はせいぜい15秒か20秒くらいだったろう。

 庭にいた小さな子どものようなものは飛び跳ねるのを止めた。それが立ち止まってエレインの家の方を向いたので、家から漏れる明かりがそれを照らして、ジュリアははっきりとその顔を見ることになった。蝋細工のように青白く、奇妙な球根のようにゆがんだ形をしていて、異常に巨大な狂ったような目と、飢えに耐えかねているように指をしゃぶり続けるよだれで濡れた口をしていた。月が隠れ、再び顔が闇に隠れた。あまりにも衝撃的で、現実味のない光景だったので、ジュリアは自分が子ども時代に見たホラー映画のせいで頭の中で幻覚を作り上げたのだと思いたかった。

 エレインの家の明かりはいつの間にか消えていた。消灯するには早すぎる時間だった。子どもの影――トッド――が裏口を見つめるうちに、裏口のドアが開き、人の形をした、しかし人よりも巨大な何かの影が現れた。
 それは、ルーカスの家で、釘付けになった窓を最初に覗いた時に見た影だった。底知れない悪意を放っていた影。彼女にささやいた影。

 アトイッポ。

 ジュリアは小さな影と同じように、大きな影もまた、ギザギザの、まるでオークの葉のように割れた角を持っているのを見た。それは子どもの影の方に歩いて――いや、歩いているという表現は正しくはないかもしれない。それは地面に足を付けずに動いていたから――、手を子どもの方に差し伸べた。小さな影はその手から何かを食べているか、舐めているような動きをした。

 それが何なのかは、ルーカスに尋ねる必要はなかった。
 それはフランク・ウィーバーだった。

 フランクとトッドはコテージの方に向き直った。暗闇の中でおぼろげな2つの顔は、グロテスクで、ピエロのように邪悪だった。
「ルーカス」ジュリアはささやいた。
「あれは――一体何がしたいの」
 返事は小さすぎて、ぴったりとくっついていなければ聞こえないほどだった。
「腹を空かせてる。あいつらは、いつも腹を空かせてるんだ」

『そして、二人はまちに行って人げんを食べることばかりかんがえるようになりました』

 そいつらは、まるで憎しみに満ちた像のように庭に立っていた。ジュリアは既に、そいつらが一般的な「食べ物」を食べているわけではないことを理解していた。肉を食っているわけではなくて、誰かの苦痛を食べているのだ。

「なんで……あんな風になったの」
「父さんがやったんだ……死んだら、ああなるように……」
消え入るような声だった。
「父さんは知らなかったんだ……死体が家から出されるまで、その場にとらわれてしまうってことを……」
「動物をあいつらにやってたのね。家の中に閉じ込めて、餌を……」
「そうすることしかできなかった」
「それを、私たちが外に解き放ってしまった」
 ジュリアは言った。
 ルーカスは何も答えなかった。
 ジュリアは、どうしてこのことを誰かに相談してくれなかったのか、どうして警告してくれなかったのか、どうしてあいつらが来ることを言わなかったのか、と聞こうとして、やめた。自分でも答えはよく分かっていた。どうせ自分だって信じなかっただろうから。
「私たちに何か……できることはない?」
 代わりに彼女は聞いた。ルーカスはあごで窓の外を指した。
「あいつらは光が嫌いなんだ。でも、もうじき消えちゃう……」

 庭の2つの影はもう、じっと立ってはいなかった。
 小さな影は、まるでカートゥーンのキャラクターが誰かに忍び寄るような、大げさなつま先立ちの足取りで、遊び心たっぷりにコテージに向けて走ってきた。
 大きな影はその後ろを追いかけるように、地面から浮かんで、こちらへ滑ってきた。

7.

 ジュリアはパニックが体を満たすのを感じた。子どもの頃、浜辺で波にさらわれて転がされた時のことを思い出した。脳が酸素を求めて絶叫し、視界に黒い点が浮かび上がってきたときも、同じようにパニックになっていた。私は今、死ぬのだ、と。今はそれと同じ状況だった。

 悪夢の中の怪物さながらに、やつらはゆっくりとした動きでコテージに向かってきた。まるで散歩に向かう親子のおぞましいパロディのように、そいつらは楽しげな笑い声を上げていた。あれがコテージにたどり着いたとき、自分の命は終わるんだ、と彼女は思った。 ルーカスがかすれた声で言った。
「あいつらは僕を連れていこうとしてる、僕が行けばあいつらは消える、だから……」
「黙って!」
 彼女はヒステリックに叫んだ。彼女は必死で考えを巡らせていた。明かりが消えてしまうのだ。跪いて、玄関脇にあったテーブルの下を探り始めた。
 頭の中で、自分ではない何かが命じているような気分だった。(あの子を外に放り出せ……彼だってそうしてって言ってるだろう……放り出したら、その場から全力で走って逃げ出すがいい……)

 声を無視しながら、彼女は重くて大光量で、黒く塗られた金属のハンドルが付いたマグライトを取り出した。それと共に光が消えて、闇が押し寄せてきた。めちゃくちゃにライトを振り回すと、光は壁や天井を漂った。そして、光が窓の方を向いた時、窓のすぐそばにおぞましい顔があって、こちらを睨むのを彼女は見た。
 その目は長方形で黒く、山羊のようだった。小さい怪物はまるで独り言を呟いているように、しかし音を立てずに口をぱくぱくと動かしていた。
 マグライトの光が当たらなければ、そいつらはすでに家の中に入り、彼女に迫っていただろう。しかし、もうマグライトの明かりは点滅を始めていた。

「コドモ ヲ ヨコセ」

 ささやくような声だった。しかし、彼女はその声が高熱の蒸気のように鼓膜を焼き、脳を茹で上げるように感じた。悲鳴を上げて、手を跳ね上げた。光が一瞬、そいつらから逸れた――そして、そのときにはもう、そいつらは窓の外にはおらず、部屋に入り込んでいた。
 ライトの光に照らされて、部屋のそれぞれの隅に大きな影と小さな影が見えた。光が点滅するたびに、影は移動していた。ルーカスが悲鳴を上げ、そしてフラッシュライトの光が消えた。
 ジュリアは絶叫の中で、また頭の中の声がそそのかすのを聞いた。(この子をあいつらに渡して、この場から逃げだしちまえよ……)

 ヘッドライトの光が差し込んできたのは、そのときだった。
 もう、2つの影は部屋の中にいなかった。ピザの配達車のドアを開き、慌ててこちらに近づいてくる足音がした。
 ジュリアは配達員に警告しようとした。だが、その時にはもう、彼はドアベルに触れていた。同時に影が彼へ飛びかかり、悲鳴があたりに響いた。
 彼女は冷や水を浴びせかけられたような気持ちだった。自分は何をしていたのだろうか。ルーカスを化け物に差し出し、見捨てようと頭の中でも思うなんて。なんて恥ずかしいのだろう。
 グズグズ考えている暇はなかった。もう、ドアの外の悲鳴は弱々しくなり、ぞっとする、人間の体が雑巾のようにねじられて、骨や肉や腱が引きちぎれる音が始まっていた。緩衝材をねじったときの音に似ていた。
 音を聞いて、麻痺が解けたかのようにジュリアはルーカスの手を引いて走り出した。キッチンに駆け込むと、ガラスのサラダボウルに鉄の鍋、それから鉄のスキレットを取り出した。自分とルーカスの周りを囲むように、彼女はそれらを三角に並べた。机の上に置かれていた新聞紙を引きちぎって、マッチで火を付けて、鍋に投げ込む。
「紙をくべ続けて……火を絶やさないで」
 ジュリアはルーカスに新聞紙を渡した。今日、昨日、一昨日のたった3日分しか、新聞を残していなかった。あまりにも心もとない燃料だった。
 不愉快な音と、悲鳴の最後のひとしずくが止んで、小さな炎がルーカスとジュリアを照らした。紙をくべるたびに火は揺らめいて、部屋の中で犬のように駆け回る、トッドだったものを映し出した。

 キッチンの入り口にフランクの影が立った。ルーカスが自分の手を強くつかむのを、ジュリアは感じた。ほんの僅かの間、フランクだったものは彼女を眺めた。間で踊る火が、そいつのおぞましく膨れた顔を照らした。

「コドモ ヲ ヨコセ」

 フランクのささやきは、再び頭の中に高熱の蒸気のように潜り込んでいった。脳が霧に包まれてぼやけ、それと共にまたあの声が頭の中で響いた。
(ほら……現実的になれよ……あいつらはたらふく喰ったじゃねえか……エレイン、ピザ屋のガキ、バラード・クリークのペットと何人か……もう大体腹がくちくなってんだろうぜ……ガキを諦めたらあんた助かるよ……学校を辞めて故郷に帰って、幸せな人生が待ってるぜ……ガキをやっちまえ……朝まで生き延びたいんだろ……)

「ヒカリ カラ ガキ ヲ オシダセ」

 彼女は動かなかった。しかし、ルーカスを見おろした。彼を光の外に押しやるのは難しくはなく、その途端に怪物は去って行くだろう。フランクだったものの膨れ上がった顔は、弱々しい光の中でさらに膨らんでゆがんでいくようだった。

「コドモ ヲ ヨコセ。オレ ノ ムスコ ダ」

 ジュリアはルーカスの肩に手を置いた。彼の骨張った肩は温かかった。
 ルーカスは彼女を見上げた。彼はジュリアが自分を押すのを待っているようだった。

 ジュリアは頭を横に振った。

8.

 ジュリアが学校に来なくなったのを、最初は誰も気づかなかった。レックスフォードの町は、バラードクリークで起こった恐ろしい事件にショックを受け、それどころではなかったのだ。少なくとも6人の人間が殺され、さらにその倍の人間が行方不明になっていた。

 週明けに、3年生の授業を終えた後で、ブレット・ガウチャーは無断欠勤した彼女の様子を見ようとコテージにやってきた。そして、家の中にも入らず、悲鳴を上げて車に転がり込み、逃げ出した。
 玄関の前で、ポール・ピザの配達員と、店長のポールが転がっていた。いつまで経っても帰ってこない配達員にしびれを切らして、彼はコテージを訪ねていったのだ。彼らの死体は、人間というよりはできそこないのピザが地面にまき散らされたように見えた。

 その後、ようやくイーストン保安官はジュリアを見つけた。彼女はキッチンの床に倒れていた。そこには彼女しかいなかった。




「あの向こうにゃァよ、何人の目にも触れることのねえ場所がある――あの向こうに何が棲んでいるか、誰にもわかりゃしねえんだ」

――アルジャーノン・ブラックウッド『ウェンディゴ』(遠山直樹訳)

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