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「双子語」。


「双子語」とか「個人語」とかいう現象があるらしい。

「双子語」という現象がある。双子の実に40%に見られるという話もある。英語では、クリプトフェイジア(cryptophasia)という。これは、双子の間でのみ独自に使用される言語のことで、母語とは異なる、双子にしか通じない独特の単語や文法体系を持つ。

中野信子 「脳の闇」より


この独特な言語は、生まれてから間もなく周りの人が話す共通語を聞き学習するうちに消失してしまうようだが、それまでは確かに双子の間だけで通じているという。

どうしてこれに興味があるかと言うと、これはもしかするとキリスト教の中で話される「異言」に共通する現象ではないかと思ったからである。

ちょうど今日はペンテコステという、イエスの復活から50日後に起こった聖霊の下りと教会誕生を祝う聖日であった。
その中でよく語られるのが「異言」についてである。これはクリスチャンの中でも経験と意見が分かれる現象である。
しかし「双子語」という現象が存在するなら、「異言」も私なりに腑に落ちるかもしれないと思ったのである。

3種類の「異言」と呼ばれているものについて考えてみる。

まず、聖書の中で「異言」 "tounge" と呼ばれるものは2種類である。


一つはれっきとした言語なのであるが、喋っている本人がその言語を知らないにも関わらず、話しかけている相手の母国語で神の業について語ったという、ペンテコステに起きた出来事の中の「異言」である(使徒言行録 2:4)。これは御霊がその人の知らない言語を語らせることができたという現象で、これについて私は特に疑問はない。

2つ目は、御霊の賜物としての、超自然的言語である「異言」。
コリントの信徒への手紙1 14:2, 27-28 にあるように、"もし解く者がいない時には、教会では黙っていて、自分に対しまた神に対して語っているべきである" という類の「異言」。
繰り返すが、異言を解き明かしする人がいなければ人前で異言を話すことに意味がない、と言われている。

そして3つ目は、聖書にない「異言」。
これは宗教的恍惚におちいった人が一般的には理解できない言葉を止まらず喋り続けているという場合。私はこれは聖書的な「異言」ではないと理解している。なぜなら聖霊は秩序があり目的のある働きをするからである。けれど、これが気持ちが良いということは理解できる。自己の理性から解放された身体が自由に踊る。それ自体、別に何も悪くはない。


さて、私は異言を話したことも異言で祈ったこともないが間近で聞いたことはある。聞いていて、どこか同じようなフレーズが繰り返されていたのを覚えている。
しかし不思議だったのが、この2番目の「異言」を「訳す」ことができる人がいるという話であった。ずっと、ほんまかいな、と思っていた。

けれどもこの中野信子氏の著書を読んでいて、この世に「双子語」というものが存在するのであれば、「異言」を訳す人がいてもおかしくはないのかもしれない、と思ったのである。


双子がその魂を分け合った存在と仮定して、そのたましいを分け合った存在とはテレパシーのような2人だけに通じる会話ができると考えてみる。それならば、同じたましいを分け合っているクリスチャン同士に双子と同じことが起こってもおかしくはない。

すなわち「聖霊」と呼ばれているイエス・キリストの霊である。
イエス・キリストがこの世に存在する巨大な聖霊であるなら、クリスチャンの中にはその分身である「こだま」みたいなものが存在している。
つまりクリスチャン同士が、イエス・キリストの魂を分け合った双子ということになるなら、その間で独特の言語またはコミュニケーションが存在しうる、というわけだ。
少なくとも、永遠の命、聖霊を分け与えてくれた天のお父さんは、私たちの言葉にならないうめきの祈りをしっかり分かってくれているという真理は、私の中で確実となった。

いやはや、地球上の動物や人間というものはまだまだ謎に包まれているのだなあ。

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