いろんなことがあったけどみんなもとに戻っていく

今日のタイトルは、私の大好きなスピッツの、「ヒバリのこころ」という歌の歌詞の一節です。

前回のnoteにも書きましたように、とても苦しく、まるで砂を噛み締めるような日々も経て今、彼は自分が不登校であるということを受け入れ、積極的に不登校を選択し、毎日自分なりに楽しみを見出して、生活しています。

2年前に比べ、表情は随分と明るくなりましたし、一度は神経症と診断された心身症状も改善してきました。

元気だった頃の息子に「戻った」と言えるのかもしれません。

うーん?それは違うか。

不登校になる前から、それはもう既に幼稚園の頃から、我が家では息子の朝の行き渋りはいわゆる日課のようなものでした。我が家では彼が、朝行き渋るのが「普通」でした。私の方も決して気持ちの良いものではなく、毎朝、息子を園や学校に送り出した後の疲労感や徒労感はなかなか言葉にすることは難しいものでした。ですので、長年、毎日のように行き渋っていた頃の息子が、本来の息子だったかというと、そうでもないのです。これは当時は気付いていなかったけれど。当時はもう「そういうものなのだ」とか「そういう子なのだ」と思ってしまっていました。

ちょうど2年前、もう無理にでも学校に連れて行くということをやめました。そしてそれが定着してから、今、我が家はこの10年でいちばん平和かもしれません。無理やりに宿題をさせることも、何かで釣って学校に連れていくこともなくなりました。そのために私の労力を使い果たすこともなくなりました。

以前、息子に「なんで学校に行けてたのだろうね?」と尋ねたことがあります。

その時、彼は「普通の人のフリをしていた」と答えました。もう1年ほど前になるでしょうか。

息子は、学校に行けなくなった時、しきりに「僕は普通じゃない」とか「なんで僕を普通に産んでくれなかったの」ということを言っていました。「同じパパとママから生まれて、妹たちは普通なのに、なんで僕だけ?」と。それはとても悲痛な叫びにも聞こえました。後々、詳しく書きますが、彼はクラスメイトにいじめられていました。そのことで心にひどい傷を負いました。

あなたにとって学校って何だった?と聞いたら「収容所」と答えました。思い返した時に、残っているのは「恐怖」だと。

私も、それから発達障害に関して勉強をし直し、親の会や不登校関連のイベントや講演に参加して、いろいろな人のいろいろな意見を聞きました。その結果、「学校に無理に行かせることで、この子を損なってしまうなら、もう行かなくて良い」という答えにたどり着きました。実は、頭では「学校が全てではない」とわかっていても、実際には「行けるようになったらいいな」という思惑やメッセージが本人に伝わってしまっていた時期もありました。そんな時はやはり息子の体調が上向くことはあまりなかったのです。でも、「あー、もう!!学校にはやれねぇわ!」と心の底から思う出来事があり、自分の中で見切りがついた時がありました。「行かなくていいんだよ」って言いつつ「でもやっぱり行けたらいいな」と思っていた母親から、「行ってくれるな」に変わった瞬間がありました。そしてその瞬間から、少しずつではありますが、我が家の状況は上向いてきたかと思います。薄皮を剥がすような変化なので、今、よくよく振り返って見るとわかるような変化です。当時はなかなかその兆しにも気付くことができず、いつもどこか気持ちの晴れることのない日々でした。

そんな日々から、今のように「もとに戻る」のに2年。「もとに戻る」というか「本来の息子が損なわれない日々」が訪れています。もちろん、抱える課題は色々とあって、勉強が進まないとか、本来であれば学校で得られる様々な社会体験が得られにくいとか、運動不足になる、とか そういうのは枚挙にいとまが無いほど山積しています。でも、本人の生存を日々心配しないといけない日々の辛さを思うと、今のは「安定」と言ってよく、そしてこの「安定」や「安心」の中でしか子どもたちは「何か新しいことをやってみようかな」という気持ちになれないのではないか、と息子を見ていて思います。

無理やり学校に行かせようとしていた日々は、母親が自分の存在を脅かす存在であり、唯一と言ってもよい理解者たりえる人間が自分を脅かす存在であっては、息子もさぞかし気が休まらなかっただろうと。息子にとっては、学校に行っても死ぬし、学校に行けない自分は死ぬしかないんだ、というくらい追い詰められた日々だったかと思います。

私は私で必死でしたが、その必死さのベクトルが息子に向いていたのではなく、自分の立場や世間体や学校の圧力から逃れる方向に向いていて、さらにそれに気付けずにいた。頑張り方を間違えていた。

でもその間違いは、今でなら、必要な間違いであったと思います。

ある程度の衝突は、おそらく必要なものだと思うのです。でも、そこで一生埋め合わせることのない亀裂を生んだり、お互いに精神を病んだり、最悪、取り返しのつかない事態になったりするような、そんな衝突は避けたい。避けることは可能だ、と思います。そのため自身の体験を書き残しておきたいと始めたのがこのnoteです。

息子は、今では自分に自閉スペクトラム症という名前が付くということはうっすらと受け入れているようです。一定の割合で自分のような「族」がいて、その族はスキルの割り振りがとても偏っている、という理解をしているようです。発達の凸凹を、我が家では「スキルの全振り」と呼んでいて、本来なら、いろんなスキルをある程度バランスよく割り振りするところを、それをせずに、何かに特化した割り振りをされて生まれてくるという理解です。それに加えて、感覚がとても敏感で、大半の人が気にならないことが気になってしまったり、環境によるストレスを受けやすかったりする。自分はそういう「族」なのだと。

そして学校に行かなくても死にはしない。学校に行けない子には行けない子の世界があるし、現段階では社会的な補償は受けにくいけれども、不登校でも友達はできるし、不登校でも勉強はできる、ということを彼が自分で体験している最中です。

このnoteでは今後、不登校になったきっかけやその反省、また、息子のように発達障害と診断はされていても「ぱっと見、とてもわかりにくい」タイプの子どもの抱える苦悩等を記していこうと思っています。できるだけ、息子本人の言葉も紹介したいと思っています。


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