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【読書ノート】「正欲」朝井リョウ

読んだ本の気になる部分を書き留めていきます。
今回採り上げる本は、
『正欲』
著.朝井リョウ です。

誰もが抱えるズレが描かれている。

そんな風に感じた本です。


✅本書を手に取った切っ掛け

Amazon Primeで「桐島、部活やめるってよ」を見返して、朝井さんの本が読みたくなって手に取りました。

同調圧力

目に見えないヒエラルキー

秩序が壊れてしまうことの恐怖

「桐島、部活やめるってよ」で感じたテーマは、この本にも流れていると感じました。

✅書き留めたところ① 美人投票が分からない

 テキストを棚に仕舞いながら、大也は、Z世代に生まれた幸運に思いを馳せる。もう十年、二十年早く生まれていたら、今より何倍苦しかっただろう。世界には自分と同じ性的指向の人間が”存在する”事実すら知ることができないなんて、考えただけで頭が割れそうだ。
・・・
 スマホを手にするまで、特にSNSに触れるまで、大也はずっと、自分のような人間は世界で一人だけだと思っていた。自分だけが圧倒的に間違っていて、その間違いは絶対に隠さなければならず、世界のどの方角に対しても異性の人間に性欲を頂くふりを続けなければならないと思っていた。

「正欲」 p.325

逆に、自分の指向を認識してしまう不幸もあるのではないでしょうか。

私は経済学部でしたが、大学生になってから、しばらく「美人投票」という言葉の意味が分かりませんでした。

有名な経済学者のケインズは、玄人筋の行う投資は、投票者が100枚の写真の中から最も容貌の美しい6枚を選び、その選択が投票者全体の平均的な好みに最も近かった者に賞品が与えられるという新聞投票に見立てることができるとした。
各投票者は、自身が最も美しいと思う写真を選ぶのではなく、他の投票者の好みに最もよく合うと思う写真を選択しなければならないことを意味する。
株式投資に関しても、市場参加者(=投票者)の多くが、値上がりするであろう(=容貌が美しいであろう)と判断する銘柄(=写真)を選ぶことが有効な投資方法であるということ。

美人投票/証券用語解説集

「美人は、誰が見ても美人だろ」

大学に入るまで、自分の見方と大きく異なる見方があることに気が付くことが出来ていませんでした。

自分が好きなタイプの美人が、
他人が好きなタイプの美人と異なることに、
私は気づいていませんでした。

おそらく、高校生の時まで、あまり他人と本当の意味でのコミュニケーションをとっていなかったことが原因だと思います。

大学に入って、寮での生活を始め、
今までに経験がなかった体育会の運動部に入部して、
初めて、自分とは異なる見方があることに気が付きました。

趣味が違うというよりも、本質的に異なる考え方の人がいること。

自分が心から面白いと思う
「映画」「ゲーム」「本」を、
友人に見て貰っても、
「まるで面白いと感じない」という回答を貰ったり、

そもそも、言葉が通じない。

そんな経験は、大学に入って初めてでした。

「まるで面白いと感じない」
という言葉には、
全く悪意がなく、
心からそう思っている、
ということが伝わってきます。

社会人になっても、この傾向は続きましたが、
世の中、そんなものだっと思っていました。


このズレが個人の中で完結している場合は、
「正」「誤」
は発生しないが、

繋がりを求めて、外と繋がった時、
そこに、コミュニティが生まれ、
「正」「誤」
が発生する。

だったら、他者と繋がらずに、
自分が好きなことは、自分で完結させればいい。

そんな選択肢を自分の中でとっていたように感じます。

✅書き留めたところ② "性的"とは他者を前提にすること

 この世界にはきっと、二つの進路がある。
 ひとつは、世の中にある性的な感情を可能な限りすべて見つけ出そうとする方向。規制する側の人間ができるだけ視野を広げ、”性的なこと”に当てはまる事象を限界まで掘り出し、一つずつに規制をかけていき、誰かが嫌な気持ちを頂く可能性を極力摘んでいく方向。
 もうひとつは、自分の視野が究極的に狭いことを各々が認め、自分では想像できないことだらけの、そもそも端から誰にもジャッジなんてできない世界をどう生きていくかを探る方向。いつだって誰だって、誰かにとっての”性的なこと”の中で生きているという前提のもと、歩みを進める方向。

「正欲」 p.360

”性的なこと”は
コミュニケーションを伴う、
他者の存在を前提としたものであることが
この本の興味深いところです。

二人以上の人間が集まって
コミュニティが出来上がってしまうと、
そこにコミュニティとしての「正」「誤」が生じる。

コミュニティを分断させることで、
従前の「誤」を「正」として捉える
新たなコミュニティを生むことが出来るけれど、

結局は、
二人以上の人間が集まってできたコミュニティがある限り、
どこまでいっても、細かい差分の先に正誤の判断は現出する。

規制をかけることは、
コミュニティを分断し続けることで、
それって、限界があり、
不可能なものではないでしょうか。


✅書き留めたところ③ 幻想を共有する

未だに結婚してるってだけで社会に紛れられる瞬間いっぱいあるし。職場でも面倒なこと聞かれないし、変な被害妄想に陥るような視線を向けられることも減った。なんかおいしいものを見つけたときに二人分買って帰ろうかなと思えるだけで、なんだろう、あー死なない前提で生きてるなって感じられるし、将来のこと考えて上下左右わかんなくなるくらい不安になる瞬間があっても、その不安を共有できる人がいるって思えるだけでちょっと楽になるし・・・ほんとに、色んなところで、こういうことか!って思う。

「正欲」 p.373

私たちは、集団を形成して生き残ってきた生物です。

集団は「正」「誤」の判断を共有することで成り立つ。

だからこそ、私たちは、集団内で幻想を共有します。

この幻想は、「物語」や「ルール」という言葉で呼ばれますが、
この「物語」や「ルール」の中で、
コミュニケーションをとるからこそ、
お互いに分かった気になり、コミュニケーションが成立する。

しかしながら、ITC技術の進化が、
コミュニティを細分化し、
かえって生きづらい世の中にしてしまっている。

そんなことを感じました。


✅読後メモ SNSの存在

この本では、SNS、特にyoutubeの存在が鍵になっています。

ひとりひとりの指向が、
SNSで外に開かれた時、
そこに「正」「誤」の判断が生じてしまうこと。

特に、SNS上での「動画」や「画像」として開かれた時、
そこに誰かの欲望が投影されてしまうこと。

その投影された「欲望」は、
情報の発信者からはコントロールできないこと。

そして「欲望」を持つ主体者自体にも
その「欲望」がコントロール出来ないこと。

そこに規範を導入しようとすると、
生きづらさが発生すること。


倫理的なものは、
生得的なものであるように感じられるけれど、

それは、社会規範に基づくもので、
過去から人が作ったもの。

であるにも関わらず、
そこに慣性が発生することで、
人は、正しい、間違っているを
人に押し付けてしまう。

もしかしたら、
その状況は対話によって
変えていくことができるかもしれないけれど、

正、誤

を決めようとすると、
コミュニティを分断し続けるしかない。

SNSの発展は、
コミュニティの分断を可能にしたが、
これが、かえって、
大きな世界との分断を生んでしまう。

分断を続けても、
コミュニティ内での凝集性は高まるが、
外の世界からの疎外感からは逃れられない。

結局、人は、
大きな物語を許容せずには、
疎外感から逃れられない。

そんな雑記を書き留めておきます。

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