ピコピコ中年「音楽夜話」~オザケン「天使たちのシーン」と浪人時代
「あ…あんた、何やってるの?」
私の部屋の扉を開けた母がそう質問した。
「あ、うん。…ちょうど今花火大会やってるから、部屋暗くして見てたんだ…」
母の疑問ももっともである。
窓が開け放たれた私の部屋は真っ暗。そこそこのボリュームで流れている小沢健二「天使たちのシーン」。ゆったりとしたマイナー調のメロディに、囁くように歌う小沢健二の歌声。窓の外には遠く遠くに輝いている山形花火大会の打ち上げ花火。暗がりでよく見えないが、部屋の床に横になって泣いているように見える予備校生の息子。
仮にカワイイ愛娘ちゃんが、そんなシチュエーションでいたとしたら「ホラ!とりあえずホットミルクでも飲んで!パパに何があったのか話してみなさい!」と慌てて台所にでも連れていく状況である。確実に「何かがあった」案件である。
しばらく無言だった母は、静かに何かを察したのか「あ、そう。花火綺麗に見える?」とヤンワリ話をそらし、ジッとこちらを見つめながら「…花火に満足したら、ご飯食べなさいね」と言い残し、部屋の扉を閉めてくれたのだった。
1993年9月にリリースされた、小沢健二の1stソロアルバム『犬は吠えるがキャラバンは進む』。歌詞カードには
と書かれていた。
フリッパーズギターを解散し、ソロ活動となった小沢健二がどんな音楽を届けてくれるのかとワクワクしながら購入したアルバム。その中でも小沢健二本人が推す「天使たちのシーン」、やはりこの曲が私のココロに刺さった。そして時間の経過、私の精神状態の変遷を経て、刺さった曲はゆっくりとゆっくりとココロを深くえぐってきていたのだった。
大学浪人時代。
今思い返してみると、私のココロは暗黒期真っ盛りであったように思う。
精神的な疾患と日々真剣に、それこそ身を削って闘っている方からしてみれば「何をそんなココロがちょっと風邪ひいた程度のレベルで…」と鼻で笑われてしまうかもしれないが、鬱々とした精神状態が続いていたように思う。
自身の変なコダワリから、合格するはずもないレベルだった大学を受験し不合格。長谷川家の家計の負担にならぬよう…と思うのであれば、身の丈にあった公立大学を受験するべきであった。その結果の大学浪人。
バンカラな校風の男子校だっただけに、勉学以外に没頭し大学浪人の排出率も高かった。とはいえ、結果として長谷川家のお財布から「仙台の予備校で勉強するための全費用」を捻出させることとなってしまったわけで。
始発電車で山形から仙台まで通学。もちろん定期代も長谷川家のお財布から出ている。そして予備校の国公立大コースの授業料・講習費用・教材費用。朝食は時間が早すぎることもあり、母が毎日おにぎりを握ってくれたが、昼食はさすがに準備しきれんと外食費用も出してくれた。
予備校に通い始めた当初は申し訳ないという気持ちが強く、ドラマ「予備校ブギ」や、原秀則先生の漫画「冬物語」をバイブルに懸命に勉学に勤しみ、高校時代の不勉強っぷりをジワジワと取り戻していった。
しかし「慣れ」とは本当に恐ろしい。
今なら「正常性バイアス」とでも言うべきか。わざわざ仙台まで通うことが「当たり前」になってきた頃、申し訳なさは徐々に薄れ、同じ高校の浪人仲間と、枯渇していた欲を満たすかのごとく「息抜き」というには息を抜き過ぎな「遊び」に興じていったのだった。
遊び。そこは、さすが山形県民からしてみれば大都会の仙台である。仙台駅から予備校に辿り着くまでに、ゲームセンターが4つ。パチンコ店が2つもあったのだ。
授業が遅く始まる日には、始発で仙台に到着している時間的な優位性を活かし、パチンコ店の行列に並んだ。当時はモーニング(パチンコ機の電源を入れた朝イチ、非常に当たりやすい確変状態になるというサービス的なもの)全盛期。台数が限られていたモーニング機「綱取物語」に座ることができれば、確実に所持金を増やすことができるという夢のような時代だった(一応学年的には19歳の学年のため年齢制限の面はご容赦を)
綱取物語で所持金を増やすことができた日は、ラーメンにチャーハンやら炒め物をプラスして豪勢に食べてから予備校の授業へ出席。
授業が終了すると、自習室へ向かうべき足は自然と「ゲーセン」に向かい、当時熱狂的な盛り上がりをみせていたストⅡやSNKモノの格闘ゲームを友人がプレイするところを鑑賞。格ゲー下手な私は、いかに1プレイ50円のゲームで長くプレイを続けることができるかにチャレンジし、ただただ無駄にボンバーマンの腕前だけが上達していった。
そんな日々を過ごしていると、ある日突然訪れた「虚無感」。
自分は何をしているんだろう、と自責の念にかられた…わけではない。モラトリアム(執行猶予)に疲れた、というものちょっと違う。大学時代のモラトリアム期間は、それはそれは永遠に続いてほしいぐらいに楽しく過ごすことができたが、予備校時代のそれは勝手が違っていた。
幸いなことに(もしくは不思議なことに)成績は上昇していた。だがしかし、それでも確実に合格を担保してくれるようなものではない。続いていく自堕落と勤勉、二足の草鞋。同じ高校、そして同じ予備校のクラスに通う布袋寅泰好きのギタリストK君と過ごすのは楽しい。それでも日々、胸中に溜まっていく発散しようのないモヤモヤとした感情。
それは「閉塞感」という表現がピッタリかもしれない。
その感情にフォーカスしたあたりから、モヤモヤは鬱々へと変化していった。表面上は機械的に日常を過ごし、友人と笑いながら語っていたが、切れかかったような感情のスイッチ。山形より華やかな都会の仙台に来ているはずなのに、周囲の色が少し薄くなったように思えた。
人の脳とは面白いもので、この時期の日々の事柄を手繰ってみても、霞がかかったようにボヤけていて詳細に思い出せない。やらなければならない事とやりたい事を淡々とライン作業のようにこなしていたからだろうか。
1999年、ノストラダムスが言うように本当に世界が終ってくれてもいいなぁ…。自身の精神状態だけの話なのに、そんな全世界を巻き込んだ不謹慎なことを考えていたことは覚えている。
何だか、もう、全て終わりにしてもらっても構わないという捨て鉢な気分だったのかもしれない。だから自身で「終わり」を選択する(間違った)勇気を発揮するでもなく、他力本願に「終わり」を願ったのだろう。
そんな時期、小沢健二「天使たちのシーン」という曲が存在してくれていて、本当に良かった。いや、助かった。助けてもらった、と思っている。
普遍的な視点で語られる、人と人との関りで生まれ育っていく愛すべきサークル(繋がり)。まさに天上に住まう天使たちが「人類」という愛すべき存在に普遍的な言葉で語り掛けているような歌詞は、感情がオフになり、主観というよりも客観中心で過ごしていた私のココロにジャストフィットした。
「真珠色の雲が散らばってる空に 誰か放した風船が飛んでゆくよ
駅に立つ僕や人混みの中何人か 見上げては行方を気にしている」
仙台駅前、誰かが放した風船を見た時。
「真夜中に流れるラジオからのスティーリー・ダン 遠い町の物語話してる」
勉強もたいして手につかない深夜、スティーリー・ダンのお気に入りアルバムを再生した時。
「太陽が次第に近づいて来てる 横向いて喋りまくる僕たちとか
甲高い声で笑いはじめる彼女の ネッカチーフの鮮やかな朱い色」
予備校のクラスで、ちょっと可愛いなと好意を寄せていたボーイッシュな下の名前も知らない彼女が、赤いネッカチーフをしていた時。
完全に「天使たちのシーン」は「私のための」歌だった。
何か(神様)を信じるためには、強さが必要で。生きることを諦めてしまわぬように、聴き続けなければならない歌だった。一人真っ暗な部屋で、花火を眺めながら聴いていると、自然とオフだった感情のスイッチがオンになり、涙がこぼれ落ちてくる歌だった。
はい。
今回は、自分を助けてくれた1曲にのみフォーカスして、ダラダラとお送りしましたピコピコ中年の「音楽夜話」。
オザケンこと小沢健二さんに関しては、ソロ活動で発表していった1st、2ndアルバムと私の精神状態の推移がかなりリンクしていたアーティストです。だもんで、次に書くであろう暗黒の予備校時代終焉もオザケンネタになりそうな気配。
それではまた次の「音楽夜話」でお会いしましょう。凍えないようにして 本当の扉を開けよう、カモン!(天使たちのシーンより)
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