人生イージーモード

 いつかの記事に書いた記憶もあるけれど、「あなたって人生イージーモードだね」と言われたことがある。高校生の時だった。誰に言われたかは覚えていないけれど、その言葉だけは強烈に覚えている。

 その時何を思ったっけ。何にも分かってないな、とは思った気がする。ただそんなことないよと笑って返事をしただけだっただろうけれど。
 その相手がなぜそんな言葉を発したのかはなんとなく分かる。成績が全ての進学校で、わたしは軽々と好成績を収めているように見えただろうから。休み時間や放課後は誰かとだらだらしているし、軽音部でなにやらライブとかしてるらしいし、なのに成績はいい。自分がこいつだったら人生楽勝なのに。そう思われていたって不思議じゃない。

 でも残念ながら、人生はそんなに簡単な話ではない。たまたま高校1年の時に勉強法の本にはまって、受験は3年後のくせにずっと受験勉強をしていた。確かに半ば趣味と化していたから楽しかったのだけれど、別に何もしていない訳ではない。勉強が楽しいと思える性質に生まれたことそのものが運が良いとは思うものの、一度聞いたことは忘れないみたいな特殊能力がある人間ではなかった。

 それに、幼い頃からわたしは是が非でも良い大学に受からなくてはならない理由があった。大学進学を機に実家を出たかったのだ。親元を離れるにはある程度以上の偏差値の大学に行く必要があった。そうでなければ地元の大学で十分だと親に言われていたから。

 そうして大学に入って、はたから見れば「人生イージーモード」のルートを送っていただろう。しかしわたしにはそんな感じなんて少しもなかった。他の人と自分は違う気がするという悩み、そして機能不全家庭で育った後遺症。いつしか「普通」の人生なんて無理だと思うようになった。

 小学生くらいの頃、父親に「お前には普通の会社員になるなんて無理だ」と言われた。組織の中では上手く立ち回れないだろうというような意味だったと思う。今思えばそれは父親の欠点をわたしに投影していたように感じる。同時に、「お前なんかが研究者みたいになって成果を出せるわけがない。俺と同じように何者かになるのを諦めろ」というようなことも言われた。ダブルバインドめいたその呪いは、無意識に進路について影響を与えていたのだろう。研究の世界に残るのは現実的ではないし、かといって企業に勤めてやっていける気もしない。そんなふうに感じて、就活に全くやる気が出なかった。

 なんやかんやあって、別の分野の勉強をし直しているし、今度こそ研究をやってみたいと思えている。しかし残されたうつ病と不安症、そして積み重なったトラウマが足を引っ張るように感じている。

 先日会った高校同期に、軽く家庭環境のことを話したら「なんかハードモードだね」と言われた。すぐに「人生イージーモードだね」と言われたときのことを思い出した。彼女が昔イージーモードだと言った人ではない、と思う。けれど、みんな好き勝手言いやがってという感情が湧いてきたのは否定できない。その瞬間の誰かの切り取られた一面だけを見て、人生勝ち組とかイージーモードだとか、ハードモードだとかレッテルを貼る。それがいかに馬鹿げたことか身を以て感じた。

 わたしだって他の人に対して、ああ人生の「良い」とされるレールに乗っかってるんだろうな、と思ってしまうことがある。けれどその人それぞれにいろんな悩みとか問題とか、逆にあんまり「普通」じゃない理想とか、そういうものがあるのだろう。いや、ないかもしれないけれど、絶対あるとかないとか決めつけるものじゃない。

 人間って分かり合えないのだ。だから他人からのレッテルなんてどうでも良いのだけれど、あんまりにもみんな好き勝手にレッテルを貼っては去っていくので、すこしだけ失望しています。

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