「考えない」ことは良いことなのか

 わたしは考えることが好きだ。取り留めのないアイデアも、人には言えない妄想も、そして自分の過去も。

 わたしが学生生活に馴染めなくなり、不登校になってうつ病と不安障害と診断された。その前後で、「わたしは人と違う気がする」「なぜか辛い」ということについて考え始めた。

 最初は人に怒られるのが怖い、というのが悩みだった。他人が怒られているのを見るのも嫌だし、誰かが不機嫌そうにしているだけで無理。同じようなことを感じているのかなとインターネットを見ていると、「HSP」という言葉を見つけた。なるほどわたしはこれなのかも。そこでインターネットやSNSで色々検索したり、本を買ってみたりした。心を落ち着ける方法みたいなアドバイスも載っていた。けれど、あまり効果は感じられなかった。

 やっぱり自分はおかしいんじゃないかと思って、カウンセリングを受けるようになった。そこでは不安を受け流す方法を習った。けれどそれも上手くいかなかった。
 途中で、自己肯定感が幼少期の経験に関連しているらしいと知って、それを調べ始めた。たくさんの心当たりがあったからだ。毎日のように不機嫌で、週に何度も怒鳴る父親と暮らしていたから。

 それで自己肯定感を上げるみたいな本とか、いわゆる「毒親」関連の本や情報を探した。それで、たぶんこれが今のわたしを形作っているものなんだと思った。

 それを母親に伝えたら、こんなに子どもたちが傷ついているとは思わなかったと言われた。弟も不登校になり、そしてその理由を母親には伝えていなかった。まだ話してはいないだろうけれど、わたしと似た理由が要因のひとつにはなっていると考えているみたいだ。

 もし、母親がもっと早くこのことに気がついていたら。もし、わたしがもっと早く助けを求めるべきだと気づいていたら。今の状況は全く違っていただろうと思う。

 そして、少なくとも今、精神科やカウンセリングで不安定な自分と向き合うことが出来ているのは、わたしが考えて迷走してとりあえず答えらしきものを見つけたからだと思う。

 主治医はあまり考えすぎないように、特に一人では、と言う。でもわたしの中には考えなかったときに訪れるかもしれない悲劇の方が、考えて落ち込むより何倍も怖い。実際、考えてnoteに色々書いたり本を読んだりして、何かしら前に進めているんじゃないかとも思う。

 一方で、確かに過去のことに拘りすぎたり、やたら落ち込んだりすることは悪い影響がある、というのも分からなくもない。でもそれをしないようにするのは難しい。日常の至る所に、父親に怒鳴られた記憶、母親に守ってもらえなかった記憶のトリガーがあるから。電車で乗り合わせた親子、疲れた顔のサラリーマン、突然の大きな音、新聞紙、掃除機、そのほかたくさん。可能な限りそれらを遮断しようと思うと、家に引きこもって何かに依存しなくちゃならなくなる。趣味や勉強に打ち込んで他のことを考えられないくらい疲れ果てて眠る。もしくはゲームやYouTubeで時間を潰しながら酒で気絶するように眠る。

 でもそれは母親がした失敗と同じ道を辿ることになると思う。母親は違和感には気がついていたのに、子どものためと自分を騙し、そして仕事に打ち込んで父親との会話を減らすことでその違和感を無視してきたのだ。その結果が今だ。また同じように苦しむのはごめんだ。

 だから、考えないようにしよう、というのはできない。もっと客観的にとか、建設的に考えよう、というのなら分かる。でも考えないというのは目隠しをして人生という橋を渡りましょうと言われているのと同じように感じる。少なくともわたしにはそんなことできない。

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