わたしはどうしてまだnoteを書いているんだろう

 このアカウントで投稿を始めてから1年半以上になる。最初はすぐに飽きるだろうと思っていた。それが気づけば200記事以上も書き、まだ飽きる気配もない。

 もともと文章を書くのが好きだったのはある。でもそれなら考えたことや読んだ本や観た映画の話をしていれば良かった。そうではなくて(それもしているけれど)、危険を犯して個人的な過去の話ばかり書いているのはなぜなのだろう、と今さら思った。

 noteに文字を綴るのはわたしにとって衝動だ。だから入力が面倒なスマートフォンで書いていることが多い。衝動だから、どうして、なんて思わなかった。
 特定されるようなことをわざわざ公開設定にしていていいのかな、とは何度も思って、一度は非公開にしたこともある。けれど結局、いまそうであるように誰にでも見える状態にしている。

 こんなことは、本当は、精神科の診察室やカウンセリングルームだけで話した方が良い。守秘義務が守られる安全な空間だから。そしてわたしには幸運にもそのどちらの環境も持っている。それなのにわざわざ危ない橋を渡る。それどころか、秘密の場所であるはずのこれらの密室で話したことを全世界に発信することすらある。

 わたしを担当してくれた心理士は今までで三人いる。最初の人は、たぶん若くて、そしてとても教科書通りに話を進める人だった。わたしにとってそれは苦痛だった。その人はわたしの過去の話すらほとんど聞き出そうとせず、不安を減らす方法ばかりたくさん教えてくれた。なんだか説教されている気分だった。ちゃんと練習したらできるはずなのに、できないあなたが悪いのだと。もちろん心理士の人は怒ったりしない。でもそれが苦しくて、そのままフェードアウトしてしまった。

 次の人は、色んな知識があるんだろうなという雰囲気の人だった。この人も認知行動療法を、教科書通り進める人だった。たまにおすすめの本を教えてくれて、それは良かったけれど、認知療法ってやつはわたしに合わなかった。続けていれば良くなると言われたけれど、それを信じられなかったし、よくなる前に心が折れてしまった。この心理士の人との付き合いが一番短かった。

 三人目はいまカウンセリングをしてくれている人だ。これまでとは違ってわたしが思いつくままに話すことを聞いてくれる。何か名前のついたことをしてわたしを良くしようとはしなくて、そこはいいなと思っていた。けれど、やっぱりわたしの過去の話は反応に困るのか、わたしがわがままなのか分からないけれど、否定されるように感じることが多かった。もっと人を信じよう、助けを求めよう、こうやって前向きに解釈しよう。なんだかわたしを「あるべき姿」の枠の中に押し込もうという感じがする。最近はカウンセリングに通うたびに辛くなってしまう。だからたぶんこの人も、そろそろわたしの担当「だった」人になるだろう。

 精神科の主治医はふたりいた。とはいっても最初の人は診断書を出してもらっただけで治療らしい治療を受けてはいない。初診で父親の職業やわたしの経歴を聞いて「ああ、そういう感じね」と勝手に決めつけられた記憶だけ残っている。病院に行くのが苦痛で数回キャンセルしたあと、こちらもフェードアウトしてしまった。

 今の主治医は元気な人で、正直苦手なタイプだ。先生や上司だったら確実に嫌っていた。けれど派手におかしなことを言うわけでも変な処方をするわけでもない。なんなら、言えば大抵欲しい薬は貰える(強いやつは無理だろうなと思って聞いてみたことがないから、もしかしたら断られるかもしれない)。毎回死なないでねと約束させられるのが苦痛だから、今度から頷かないでおこうと思う。薬だけ貰えればそれで十分なのだ。


 そんなわけで、結局わたしには過去のことを吐き出すに十分な場所がないらしい。それに最近やっと気がついた。カウンセリングで満足していればここにたくさんの文章を残したりしないはずだから。
 スマホのメモ帳や秘密の日記に書くでもなく、こうして公開しているのも、わたしがわたしの話を「外に出した」と実感する為だと思う。閲覧数が増えて、誰かにスキを押して貰えることで、少しずつ少しずつ、昔溜め込んだものを外に出せている。

 でも、たぶん対面で直接受け止めてくれるのとは少し違うから、あるいはわたしが溜め込んだものが多すぎるから、だからまだこうして記事を書いているのだろう。そしてこれからも書くのだろう、他の人から見れば同じような記事を。

 いつかこのアカウントのことも忘れられる日が来るのかな。でもきっと、すれ違ったたくさんの人に貰った優しさは残っていると思う。

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