不機嫌が支配する

 ボスの機嫌が悪いからちゃんとしてね、気をつけてね。

 僕を気遣って言ってくれた言葉だろう。それは分かる。けれど僕にとってそれは眼前に銃を突き付けられたのと同じ恐ろしさなのだ。

 かつて僕の家は不機嫌に支配されていた。父親の不機嫌に。家族の誰もがその機嫌の良し悪しで全てが変わってしまうことを理解し、そのために言動を制限し、そして様々なことを我慢してきた。

 それがどれ程の犠牲を生んだだろうか。父親以外の家族は皆、それぞれ一度は自分の描いていた将来を諦めた。学校を中退したり、仕事を退職したり。そして僕は精神疾患になり、今でも通院して服薬している。

 そんな世界で暮らしたことのないひとは、きっと不機嫌の本当の恐ろしさを知らないのだろう。だから軽々しく気をつけてねなんて言えるのだ。本当に恐ろしい場所では、そんな忠告さえ水面下で行われ、口に出されることはない。口は災いの元だから。口にしただけで、恐怖が全身を駆け巡り身動きが取れなくなるから。

 僕はもう、あんな場所に戻りたくない。思い出したくもない。だから本当でもそんなこと言わないで。嘘でいいからここは大丈夫だって言ってよ。大丈夫じゃなくなったら、そのときは僕を殺して。不機嫌に支配されるくらいなら、命を捨てるくらいなんてことない。

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