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自分の気持ちを大事にする前に自分の気持ちが分からない

 「自分の気持ちをいちばんにね」
 そうカウンセラーさんに言われた。だから頷いた。そのときは、心の底から頷いた。

 けれど一歩カウンセリングルームの外に出ると、はて、自分の気持ちなんて今まで分かったことがあっただろうか?と思った。物心ついた頃から親の顔色を窺っていた。不機嫌になると恐ろしい父親の機嫌を取っていた。人が嫌な気分になることそのものが、わたしの嫌なことだった。わたしは嫌な思いをしてとても辛かったから。他の人にはそんな気持ち味わって欲しくないでしょう?だから自分より他人が優先なのが、わたしの通常運転で。

 みんなが出来るだけ快適に過ごせるように。不安にならないように。嫌な気分にならないように。いつもにこにこ笑顔で。話しかけられたら楽しそうに話す。誰かが困っていたら出来るだけ助ける。
 自分が傷ついたって、他の誰かが傷ついてなければそれでOK。逆にわたしが傷ついたって話して誰かを傷つけたくないから黙っておく。わたしが「そうしたい」からそうする。自分の気持ちに蓋をする。だって嫌な気持ちにさせたくない。黙っていればいいだけだもの。雄弁は銀、沈黙は金。

 そんなことしていたって、誰もわたしに感謝なんかしない。もちろん、わたしはやりたいからやっているので、アピールなんかしないし、出来るだけさりげなくするから。大袈裟な心配や面倒を見ることは、逆に大きなお世話かもしれないからしない。だからわたしの存在は気付かれない。

 そうやって、誰かが傷つくからやりたくない、それがわたしの本心だ、と思っていたら、それ以外の感情が分からなくなった。そうしたらまさしく八方美人となり、気付かぬ間に誰かを傷つける。あなた私を信用してくれないのねと傷つける。いちばんしたくなかったことをしてしまう。そもそも誰がどんなことに嫌だと思うかなんて、本人に聞かなきゃ分かんないのに。わたしはわたしの勝手なエゴで、みんなが嫌な思いをしませんようにと自分の感情に蓋をしてきた。


 そんなことを考えるたびに、小野不由美の「黄昏の岸 暁の天」に出てきたある隠者の言葉を思い出す。


「民の幸いを言うなら、貴女様ご自身も幸福でなければなりませぬ。貴女様一人が全てを背負って苦しむのなら、民の全てが幸せではないことになる」

新潮文庫 小野不由美著「黄昏の岸 暁の天」335ページより

 わたしが傷ついてもみんなが嫌な気分にならなければそれでいい。でもそうしたら、わたしの願いは永遠に叶わない、のかもしれない。「わたし」が「みんな」の中に入っているのだとしたら、わたしも幸せにならなければ、傷ついたら癒やされなければならないから。

 キリストは人々の罪を贖い、救うために磔にされた。それは彼が神の子であったから、「みんな」の中には入っていなかったから、だから可能になった神話なのかもしれない。「とくべつ」になることで、「とくべつ」が一人だけ苦しむことで、ほかの「みんな」は幸せになる。

 そしたらやっぱり、わたしも幸せにならなくちゃいけない。そんなことの前に、わたしだって幸せになりたい。感謝されたい。嫌な気持ちになりたくない。傷つきたくない。
 だからわたしの「本当の」気持ちを知らなくちゃいけなくて。でも今までみんなが嫌な思いをしませんようにという祈りで蓋をしていた感情を、簡単に感じられるようになんてならない。

 あなたはどう思ったの?これは好き?嫌い?傷ついた?疲れた?むかつく?濁流のように押し寄せてくる外部からの刺激に、わたしの応答速度は間に合わない。すべてをひとつの処理に流し込む。「いま視線の中にいるひとが嫌な思いをしないこと、それがわたしの望むこと」

 本当は、小さな頃に感じたことを思い切り表現して、何を感じてそれがどんな言葉に当てはまるか学ぶのだろう。わたしにはそんな機会など与えられなかった。すべては祈りに置き換えられた。いつも微笑む女神になりたかった。けれどそんな、細い細い柱一本の上に積み重ねられた人生は、あっさりと壊れてしまった。

 やっていることは大人びているのかもしれない。けれど中身は幼児ほどにも成長していない。正確には、幼児がたどる成長過程をすっ飛ばして、見かけだけの大人になってしまった。ただのハリボテ、ドーナツに開いた穴。だからわたしは人間のように見えて人間ではなくて。やっぱり「みんな」の中に入ってないことにしようかなんて思う。


 周りは当たり前のように、成長すべき時に成長したものだと扱ってくる。それが苦しい。周りの世界は、わたしにとってあまりにも複雑で、奔流のようで、ただ流されているだけで。

 自分の感情を見つけるまで、ひとりでゆっくりしていたい。刺激の少ない世界で、自分の為に、自分の好きなことを。


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