まごころを、きみに

 ダニエル・キイス作「アルジャーノンに花束を」の感想です。ネタバレあり。


 僕は幼い頃から賢かった。多分そう思う。知能指数でいえば、主人公のチャーリイが生まれ持ったものより遥かに上のものを授かった。
 そして、僕はどことなく孤独だった。子どもたちの遊びが下らなく思えた。先生の言うことを聞かないわがままな子どもたちのことを馬鹿だと思っていた。そして寂しかった。僕のことを誰も分かってくれないと思った。
 僕は怒られるのが怖かった。それはチャーリイと同じだと思う。怒られること、それも養育者から強く怒鳴られることは、子どもにとって本能的な恐怖なのだろう。
 僕は知能を利用して、大人たちを騙すことにした。外で遊んでいるフリ。おままごとに参加しているフリ。ひとりぼっちじゃないフリ。保育園は楽しいというフリ。大人たちは簡単に騙されてくれた。

 それでも、「いい子にしていないとお前の居場所はないぞ」という脅しはいつまでも僕の心の中に暗い影を落とした。


 「アルジャーノンに花束を」はきっと、知的障害者への差別や、行き過ぎた科学の犠牲者とか、真の優しさとか、そういったことに目を向けられることが多いのだろう。だからそういうことは他の誰かに語ってもらうことにして、僕は僕とチャーリイのことについて語ろうと思う。


 「幼い子ども」というのは不思議な存在だ。知識は全然なくて、周りの力を借りなければ生きていけない。それなのに、いやそれだからこそ、自分を生かす存在に対して持てる全ての能力を使って気に入られようとする。それが本能なのだと思う。
 僕は父親に怒鳴られるのが怖かった。見捨てられるのではないかと思った。ちょうどチャーリイとは反対だ。母親はそんな父親に抵抗してくれた。チャーリイの父親みたいに。でも彼と同じく、言い合いになり、最後はヒステリックに叫ぶ方に屈していた。怯えながらそれを耳にしていた僕は、ああ僕を守ってくれる人はどこにもいないのだと理解した。
 夜毎聞こえる話し合いという名の喧嘩が怖かった。必死に目を瞑り寝たふりをしていた。チャーリイと同じだった。そこで交わされた言葉を理解してしまった分だけ、傷は浅いのだろうか、深いのだろうか。それは分からない。たぶん傷がついた場所が違っていて、痛みの種類も違っていて、比べることは出来ないのだろう。

 僕は勉強が好きだった。今でも好きだ。そう思っている。新しいことを理解するのは楽しい。知能が向上していったチャーリイも、きっと同じように感じたと思う。しかし時々怖くなるのだ、その原動力は、両親に見捨てられたくない、という不安から来るものではないのか?と。僕は本当は勉強なんて好きじゃないんじゃないか。
 チャーリイがあれほど字を読み書くことに執着したのも、母親が言い聞かせたことが理由のひとつなのだと思う。

 どんなに賢くても、或いはそうでなくても、子どもにとっては家庭と学校が世界の全てだ。よその家と自分の家を比べることは難しい。ずっと受けてきた扱いが不当なものかどうかについて気がつくのは難しい。僕もチャーリイと同じように、後からされたことの意味を理解して悲しみと怒りが湧いた。過去のことについて何度も何度も夢を見る。あの時何をされたのかについて。過去を変えられないことがあまりにも虚しい。

 いつになっても、ひとりぼっちだったこと、ひとりぼっちであることは辛く思える。僕は母親に「賢く生まれて良かったでしょう」と言われた。何も分かっちゃいないと思った。標準から外れるということは、どちら側に外れるにしても、十字架を背負うことだ。どちらも体験してしまったチャーリイの心の傷は計り知れない。

 それでも、自分と同じ目に遭う人がいなくなりますようにと祈り、そして小さくだけれど行動を起こす。チャーリイと同じように。彼ほど爆発的な発見や貢献もない。彼のように終わりが見えている訳でもない。薄暗い道をゆっくりゆっくりと、正しいのかもわからないままに進んでいる。


 まごころを、きみに、同じように苦しむきみに、同じような傷を抱えたきみに捧げる。きみが望むならうつくしい花束で傷あとを飾ろう。きみの涙を宝石にしよう。世界のどこかの、僕と同じようなきみに。僕は身を捧げよう。

 世界に傷つけられて見捨てられても、まごころを、きみに捧げよう。

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