自分の首を絞める努力

 僕はたぶん、努力していない、という状態を知らない。何かに夢中になり続けていた、というのと似たようなことではあると思うけれど。

 幼い頃、そもそも保育園に行くのは努力だった。僕に課せられた義務だと思っていたから。行かないという選択肢はないと思っていた。だから行きたくないけれど努力して保育園に行き、出来るだけいい子にして、先生の言うことをきちんと聞いていた。

 それと同時に、家庭の中でも努力していた。具体的には親を怒らせない努力。わがまま言わない、機嫌を察する、太鼓持ちをする。家庭を平和に保つための、幼いなりの努力だった。

 小学校に上がってしばらくは同じだった。そこに弟の面倒を見ること、勉強や習い事を頑張ることが加わった。家庭内を平和に保つことについては一層努力した。怒りの矛先が自分に向かないようにすることにも。

 小学校高学年、そして中高は、何より勉強を頑張っていたと思う。楽しんでもいた。しかし努力でもあった。頑張っている自分というものに酔っていたのかもしれない。一方でこれだけやっていれば良い、というものがあるのは楽だった。何も考えない努力というのは楽ではある。
 部活ではギターを弾いていたけれど、それも努力していた。基礎練やら新しいテクニックを習得することやら音楽理論を齧ってみることまで。楽しい、というのはあったけれど、これもやはり自分に努力を課すということ自体に何かの満足を覚えていた。

 大学では少し怠け始めた。というより、身体がついていかなくなっていった。それでもサークルのまとめ役をやったり、練習もみんなよりは頑張ったりしたと思う。研究室に配属されてからはみんなより頑張っていない自分が嫌だった。だから自分を追い込むみたいに14時間くらい研究室にいる日もあった。そしてまた身体が追いつかなくなって休んで、自分を責め続ける。

 今も結局おんなじだ。自分自身が抱えている問題に気がつき始めていても、やっぱり努力しようと思う心はなくならない。
 鬱なんて頑張るほど悪化する病気だ。でも努力してなきゃ不安で、不安障害の方が悪くなる。努力してない自分に存在価値なんてないと責めてしまう。

 でも頑張るほど、周りの人は「この子優秀なんだ」「病気はそれほど悪くないんだね」「真面目ないい子だね」という評価を下される。そしてそれは僕を苦しめる。助けて、というひとことを言い辛くさせるから。本当は嘘ついてたんです、真面目なんかでもなくて、努力はもうできてないんです。ごめんなさい。でも謝る勇気も助けてって言う勇気もない。だから自力でどうにかするしかなくて、また努力のループに嵌ってしまう。

 こうやって、精神疾患をある程度オープンにし始めた僕が無駄に足掻いて努力しているのは、周りにも悪いことだと思う。もしほかの精神疾患を持っている人が、「とひろさんは頑張ってるよ。あなたも出来るでしょ」なんて言われてしまったら。それは僕の馬鹿みたいな強迫じみた努力のせいだ。

 でも全部捨てたりなんかできない。今さら開き直って何も頑張りませんなんて出来ない。だってやりたいと思ってやってることだってあるもの。でもそう思って努力すると、やっぱり「頑張っている人」というレッテルを貼られる。そしてその期待を裏切るまいと苦しい自分を閉じ込める。助けてという言葉を飲み込む。もう頑張れないという声を無視する。

 こうして、努力はどんどん僕の首を絞めていく。

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