小さく重なっていく
振り返ると、親にされた今までのことをひとつひとつエピソードとして書き出してみても、何か小さなことのように思える。今も覚えているくらい辛い仕打ちだったはずなのに。
たぶんそれは、あの時感じていた空気から切り離されているからだろう。何を感じて生きていたのか、当時と同じように感じることはもうできない。
日々怒鳴られるかもしれないと怯えていた。そこに、なにか「頼みごと」をされても、それはわたしにとって強制だ。ちょっとした家事の手伝いだって、断れない状況でそうされたらストレスが溜まる。
小さなため息ひとつ、疲れたと言うひとりごとひとつが、わたしに重くのしかかった。口答えすることさえ自らに禁じていたわたしが、「それってわたしのせい?」なんて聞き返すことは不可能だった。
でも、こう書いていて、やっぱりされたことひとつとっても酷いことってたくさんあるなと思った。それは父親にされたこと。反対に、母親にされたことはひとつだけ見ればおかしなことではない。ちょっと洗濯しておいて、ご飯炊いておいて、他の家族のぶんの食事を出しておいてね。仕事で疲れてるからあとでね。一日でいいから休みたいな。そんな言葉のひとつひとつは、普通の、ごく普通の「お母さん」だって言うことだ。けれど日々のストレスと戦っていたわたしにとって、それは積み重なっていき、決して消えないものだった。
こんなことを書いているのは、「あなた夜泣きがひどくて大変だったのよ」と母親に言われて腹が立つ、という言葉に対して色々な意見があったからだ。家庭がそれなりに平和であたたかいものだったひとにとっては、「お母さんは自分のために頑張ってくれたんだ。ありがたいな」と受け止められるかもしれない。反対に、子どもの頃から日々生き延びるのに必死な家庭なら、「わたしが悪いってこと?赤ちゃんの頃なんて覚えてないのに。育ててくれなんて頼んでない」と感じられるかもしれない。わたしは後者のタイプで、そして自分がそう感じるのはおかしいと思っていた。みんな親に感謝するのに。けれど、そうでもないひと、わたしと同じ感じ方をするひとがいるのだと知り、またやっぱり親に感謝するひともいるのだと知って、感情は人それぞれなんだと分かった。そこに良いも悪いもないのだけれど、そう思った理由が自分の中で分かれば納得できる。
決してお母さんに感謝していないわけでもない。とてもひどい親だと思っているわけでもない。それでもなんとなく不快に思ったり、罪悪感を覚えたりする。その相容れないような感情を抱えているのはすこし苦しい。だから出来れば、自分にとって納得できる理由が欲しい。
わたしだって、お母さんという存在に全幅の信頼を置きこの世の愛の根源を感じてみたかったんだけどさ。
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