利右衛門
シリーズ:「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」 第二十四回 飯盛城の山下(さんげ)「北条」を考える(その3) ネガティヴではなく、建設的に、潰すのではなく、生かして
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シリーズ:「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」 第二十四回 飯盛城の山下(さんげ)「北条」を考える(その3) ネガティヴではなく、建設的に、潰すのではなく、生かして

利右衛門


①はじめに

②潰される“危機感”から

③幼少期から振り返ってみる

④「城郭談話会」を離れる

⑤物集女城跡第3次調査第3トレンチの誤解を解く

⑥エピローグ

①はじめに

[仁木宏教授は“ラスボス”ではない]

実は今年になって、本当に偶然ながら、ある知人が仁木宏教授(大阪市立大学)に近い筋におられる事を知ったので、その方にかなり無理を申上げ(汗)、思い切って11月末に本稿(第22、23回分)を仁木宏教授に見ていただきました(滝の汗)。

素人である拙論を「読め」などとというのは、誠におこがましいかぎりですが、本稿が「“無城下町論”の否定」になっている以上、やはりお知らせしておくのが“筋”だと思ったからです。黙って「背後から襲う」ようなカタチにしたくなかったのです。

加えて“事実関係”に誤りがあってはいけないので、これまた幾分厚かましくも、自分にとっては「査読」のような意味合いも意識しておりました。

さらにもうひとつ、「重要な要素」がありました。

仁木宏氏は「飯盛城・無城下町論」の最初の提唱者でもあられるので、本稿においては一見「ラスボス」(すみません…)のように見えるのですが、実はそう単純ではなく、仁木氏のご見解と、本稿の主張とはある「ねじれ関係」があるのです。

仁木宏氏や天野忠幸氏による「飯盛城・無城下町論」は、いわば「山麓の複数の集落群」が城の「城下機能」を分散、負担した概念となっています。

とりわけ仁木氏はその中でも「中垣内、野崎、北条」の三集落に関しては具体名を挙げて強調しておられます。さらに2020年の「総合調査報告書」P239に述べられている

「北条は飯盛城の西直下にある。谷筋を急登すれば、城の中枢部に直接アクセスできる。」

という1行に至っては、まさに「本稿の主旨」そのものでもあるのです。

仁木氏と本稿との違いは、仁木氏が「北条」を他の二つの集落と「同格」の様に併記されているのに対し、本稿では「北条」を「メインの山下(町場)」としていることです。

しかしながら、「北条推し」でもあられる仁木氏もまた、「北条」の小字「市場」を見落しておられることは、これまでの御著作の記述から窺え、そのことは去る2020年11月22日(~12/6)にyoutube上でも公開された「関西城郭サミット2020」の動画中の「コメント」においても「確信」を得たので、私としては、もはや拙論の情報を「基礎資料」として仁木氏にお知らせする「義務感」をも感じるに至り、上記の知人に「かなりの無理」をお願いして拙論を読んでいただいた、という次第なのでした。

加えて「飯盛城」は、今や「国指定史跡」への申請の秒読み段階という状況下でもあるので、もし「文化庁」の公認下において「飯盛城には城下町が無かった」という文言が加えられたら、もはや取り返しがつかなくなる「危機感」を感じたからでもありました。

「川西市史」、「猪名川町史」でも明らかなように、「公的機関」というものは、一旦正式に活字化されたものをなかなか撤回しない傾向があるからです。

なお「無理をお願いした方」に、電話で仁木宏教授の反応を伺ってみたところ、“悪からぬ??”印象ではあるようですが、果たしてどうなることでありましょうか。

(つづく)←続かなかったりして(汗)

②潰される“危機感”から

[飯盛城下に関わった経緯]

ともあれ、“飯盛城シリーズ”も、予告を入れて、早くも4回目です。

正直、自分自身「何をやっているんだ俺は?!」という感じです。

私は一人静かに「摂津・塩川氏」のことだけを研究したかった人間で、「飯盛城のような大物」などとは決して関わるまい、とずっと目を背けてきたからです。

しかしながら、ここ「足掛け13年もの間」、特に高槻市(現・文化財課長)の「中西裕樹」氏の著作において「山下町」が塩川氏の城下町起源であったことを“否定”するような記事が「4編」ばかり出版され続けてきました。

(第18回連載では失念していましたが)どうやらその初出は「信長の城下町」(仁木宏・松尾信裕編、高志書院、2008年8月)という本でした。

「信長の城下町」というタイトルに、私が反応しないはずはありません。しかしながら、同書内における中西裕樹氏の「畿内の都市と信長の城下町」という論考のP243図において、塩川氏の「山下町」が「完全スルー」されており、これは私としては「えっ…」という感じでした

というのも、既に平成10年(1998)に出版された「ひょうごの城紀行(下)1998版」中の「山下城」の項のP65に、執筆者であった故・角田誠氏のご好意により拙図(近代以前の周辺復元図)が掲載されているからです。

ひょうごの城山下全体

「下財屋敷(現、下財町)」周囲の「アミ」の部分は、江戸時代末の天保期の町絵図に描かれた、銀や銅の製錬に伴う鉱滓(カラミ)の捨て場所です。

ちなみに昭和23年の米軍の空中写真と比べてみると、こうです。

ひょうごの城+空中写真2

「ヴィスタ」(近世の城下町プランに多用される「見通し」の技法)も明瞭です。「Aより」の古城山は「模型との合成」です。

獅子山ー大道ヴィスタ

こうした「平面プランの情報」は、中西裕樹氏もご存知の上での「城下町起源の否定」というわけです。またこの地形模型も「パテ塗り以前」の段階でしたが、「城郭談話会」他でも発表、公開していました。

正直私は、この

「拙図や地形模型を見て、山下町が“城下町起源”だと理解しない人は皆無だろう」

とタカをくくっておりました。

「だって、小学生にでも判るじゃないか!」

と頭から信じ込んでいたのです。

しかし私の予測は甘かったようです。

実際には、少なからぬ「城郭研究者」が決してそうは思わなかった、というわけだったのでした。

[「城下町研究者」は異端?]

おそらく多くの「城郭研究者」の方々は、これまで「“縄張図”にあまり反応しない」多数の歴史学者や考古学者に出会って「えっ、どうして?…」と不思議に思われた経験をお持ちかと思います。

ただ、私は「城」も「都市」も「平等に好き」でした。

ですから、大人になってから「城下町図に反応しない城郭研究者」が多いことを知って「えっ、どうして?…」と不思議に思った次第です。

私はこれまで1度も「千田嘉博」氏にはお会いしたことがありませんが、千田氏が1980年代末に地籍図から「小牧城下町」の存在を提唱された時、多くの反対意見に叩かれた、という噂は聞いたことがあります。私も「自分の経験」に照らし合わせて「さもありなん…」と思いました。

確かに一部の「城郭研究者」の中には、まるで「城下町の研究」そのものを憎んでいるのではないかと思えるほど、「調べもせずに、頭ごなしに否定してくる」人達がいます。

[再び潰される?危機感]

後述しますが、私は西暦2000年頃から「東谷ズム」イベントに呼ばれるまでの14年間、私は殆んど「発表の場」から遠ざかり、あたかも「世捨て人」の如く沈黙していました

中には私が「この世から消えた」かと思っておられた方もいたようです。

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今回は、恥をしのんで、そうなってしまった経緯をお話します。

なぜならこれもまた、研究史上における「史実」だからです。

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要するに、私が「発表の場」から姿を消して8年後、という中での「2008年8月」の中西裕樹氏による「畿内の都市と信長の城下町」(「信長の城下町」高志書院)における、「山下町の完全スルー」であり、この本は、自分の成果が「"無かったこと"にされている」事態(後述)に気付かされた「初出」でもありました。。

ただ、既に連載第十八回(リンク)でも指摘したように、中西裕樹氏はこれまで「山下・城下町起源説」を否定する「理論的な根拠を呈示されたことが1度も無く」、相変らずの“頭ごなしの否定”、もしくは“スルー”といったレベルです。

しかしながら、中西氏ご自身は社会的には、特に「高山右近」関連の研究で、どんどん著名になられる一方でした。

そして私は2014年の「第3回、東谷ズム」から、「復帰」したのですが、昨年、2019年8月、中西裕樹氏の「戦国摂津の下克上」(戎光祥)が出版され、再び「山下町」が「城下町であった可能性を断定的に否定している記述」に接し、「このままでは俺、「また潰される」な…」と、もはや“危機感”を覚えたので、“スランプ”を経たのち、防衛上立ち上がらざるを得ず(第18回リンク)、その勢いで中西氏による「飯盛城」の「無城下町論」まで攻めこむに至った、←(今ココ)というわけなのでした。

(「仁木宏」教授、「天野忠幸」准教授には、トバッチリ(汗)だったかもしれませんが)

なにしろ当方は無名です。相手は公人であり、NHKの全国番組「歴史秘話ヒストリア」にも出演されている「高山右近」の権威です。

世間が「どちらの意見を信じるか?」は明白でありましょう。

「黙っているだけ」で、私が自動的に「ウソつき」になってしまうのです。

[“有名どころ”に否定されたら、教育委員会も相手にしない?]

加えて、少なくとも本稿の内容は、2020年12月15日現在も、「川西市教育委員会」や「猪名川町教育委員会」にも「ずっと黙殺」され続けています。かつては「表採遺物」や「地形模型」の寄贈までしたのですが…。

昨年、連載第18回(リンク)で紹介した獅子山城(いわゆる山下城)の「矢穴石」なども、川西市教委に見に来て頂けるように電話で要請したのですが、その後返事もありませんでした。

またこれは、“被害妄想”かもしれませんが、私は、これら公的機関による「沈黙」、「無視」が、高槻市の公人であり、「戦国期摂津研究の第一人者」でもあられる中西裕樹氏の著作やご発言に影響されている可能性もあるのでは、と「疑心暗鬼」もならざるを得ませんでした。

要するに「八方塞がり」の状況です。

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なお、「山下町」が塩川氏による「織豊城下町起源」である証拠は非常に豊富であり、そのことは連載第10回(リンク)でまとめています。

加えて本稿においては「山下城」(やましたじょう)という「後世の通称」が「議論に不適切」であるためこれを避け、「高代寺日記」(内閣文庫)の編者が築城時の当事者の日記から引用したと思われる「獅子山城」(ししやまのしろ)に基本、統一しています。

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③幼少期から振り返ってみる

[9歳の頃、聞かされた“城”の記憶]

上記において

「だって、小学生にでも判るじゃないか!」

などと書きましたが、ちょっと、これまでの「長~い経緯」を振り返ってみたいと思います。

私は元々西宮市今津の出身なのですが、その当時近所にいた“幼なじみのE君の一家”が川西市・山下町近くの「大和団地」に引越したので、9歳の頃から家族ぐるみでしばしば当地を訪れていました。

ちょうど「大和団地」でテレビドラマ「マキちゃん日記」(宝塚映画)のロケをしていた昭和45年(1970)年の頃です。皆で「マキちゃんの家」を見学に行ったりもしました。

そしてある「夕方」だったように記憶していますが、E君のお母さんから「昔、山下の近くの山には「お城」があって「お殿様」もいた」という話を聞かされました

「えっ?どこに?」

と尋ねましたが、それはE君のお母さんも知らず、ただ暮れなずむ遠くの山々が見えるばかりでした。

大和団地より北西

(このあたりか?大和団地から山下、笹部方面を見る(2018)。実際の城山は右端)

おそらく本シリーズは、この「9歳の時の謎」が最大のモチベーションになっています。

釜瀬夕景1

これはこの時の「記憶の心象風景」から作ってみた、連載第16回の冒頭画像(リンク)です。

[小4の頃、彦根の「城下町配置図」にときめく]

この「山下の近くの城」は、その「存在自体が謎」のままで、ましてや「城下町」にまで思い至ることはありませんでしたが、それとは全く別に、この少し後に「城下町の全体配置図」というものに出会いました。確か小学校4年の時(1971)だったと思います

近所に住む、中学校を卒業したTさんから、使い古しの「地図帳」(帝国書院のハードカバー)を貰ったのです。それは、小学校の地図帳よりもぶ厚く、「詳細な内容」だったので私はエキサイトしました。

そしてその末尾近くに、カラー図版の小さな「彦根の城下町」の全体図があったのです。

それはおそらく天保年間の絵図等を元に作成されたもので、その整然とした配置に「なんてきれいなんだろう!」を心奪われました。

時代はまさに昭和40年代中盤の「公害」の最盛期。「都市」といえばまず「無秩序で汚いもの」を連想する中、彦根の都市図は、あたかも別世界の「小宇宙」という感じで心に刻まれました。

(その当時は知る術もありませんでしたが、その地図の区画の中には「彦根藩の足軽」だった自分の曽々祖父の家もあったことを三十数年後に知ることになります。そして、ウチは家督を継ぐと「利右衛門」という名前を襲名していたらしい、ということも。)

このほか、父親の持っていた「ロードマップ」(1971年刊)もまた、お気に入りでした。その末尾には全国主要都市の「拡大図」が列挙されており、「お城のある町」の地図には、大抵「堀」などの城の区画が描かれているので何度も何度も眺めたものです。

私は「城下町」という世界に、最初「平面プラン」から入ったのです。

[初めて買った“専門書”も“城下町もの”だった]

中学2年の頃(1975)から“戦国の山城”を一人で訪れるようになりますが、なぜか滋賀県の「有名どころ」ばかりを訪ね、かつての「山下の近くの城」のことは殆んど記憶から消え去っていました。

その当時、“背伸び”して買った「初めての専門書」が新刊の助野健太郎・小和田哲男著「近江の城下町」(桜楓社、1975)でした。著者の一人「小和田哲男」さんは「若手研究者のホープ」なんて紹介されています。

同書で初めて目の当たりにした「漢文」(翻刻)に面喰らい、不思議な「耶蘇会日本年報」の引用文にもワクワクしました。

また、同書には「安土山下町」や「八幡山下町」の名前も登場していましたが、その名前が川西市の「山下町」と結びつくまで「二十数年」もかかってしまいました

また、いわゆる「縄張図」に出会ったのも中2の時でした。

近所の公民館に古びた「日本城郭全集」(「大系」の前のシリーズ)があったのです。これまた衝撃的!な出会いで、当時はまだ「ゼロックス」(コピー機)さえ知らなかったので「半透明の包み紙」と色鉛筆を公民館に持ち込み、「トレース」してノートに貼って整理したりしました。

同書で知った「生瀬城」(西宮市)なんかも「絶対に見たい!」と思って、友人を誘って「琴鳴山」の採石所の中に入り、岩場を登ったりしました(汗)。偶然ながら、そこは映画「隠し砦の三悪人」のロケ地の近くでもありました。(結局「城跡」は見つからず、全然別の場所でしたが)

これを読んでおられる古い「城郭研究者、愛好者」の方々もまた、似たような経験をされてきたのではないでしょうか。

[先駆的研究者、谷口義澄氏も「山下町」を「城下町」と見ていた]

さて、一般にはその存在さえ知られていなかった「山下城」(本稿では獅子山城)を、「縄張図という視覚情報」と共に全国区に知らしめた「日本城郭大系 第12巻・大阪、兵庫」(新人物往来社)の功績は非常に大きいと思います。

ともあれ私は「日本城郭大系」の「山下城」の記事を見た時、忘れていた9歳の「記憶」が一気に甦って「あの話は本当だったんだ!」と久々の衝撃を受けました

また記事に掲載されていた「縄張り図」という「平面プラン」がなによりも有り難かった。

モヤモヤと深層意識の中に眠っていた「謎」が、一気に「具体的な造形物」に変身したわけですから。

谷口義澄氏図

画像は「山下城」の記事を書かれた故・角田誠氏から頂いた(城郭大系の縄張図を描かれた)「谷口義澄」氏による、「大系」に掲載されなかった「鳥瞰図」と、向山、山下町を含めた「全体配置図」などです。

特に「全体配置図」(上中央)の方は後年、この「谷口図」を知らずに私自身が作成し、角田誠氏執筆の「ひょうごの城紀行(下)1998版」中の「山下城」に掲載された拙図とほぼ同じレイアウトであることに気づかれるかと思います。

ひょうごの城山下全体

これらの資料から、谷口義澄氏もまた、「山下町」が「城下町起源」だと推測されていたことは明白です

と、いうか、「城と町との配置」を見れば「まずそう考える方が当然」なのです!。

しかし、おそらく谷口義澄氏も角田誠氏も「川西市史第2巻」を参照されたうえ、「城下町」に関する記述が一切無かったことから「う~ん?…」という感じで引き下がられたのではないでしょうか?

④「城郭談話会」を離れる

[「談話会」には「獅子山城」が準・織豊系であった資料を提出していた]

なお、私は1994~1999年にかけて、お世話になった「城郭談話会」には、「獅子山城」(いわゆる山下城)の主郭で表採した瓦(織田信長時代の元亀~天正初頭の技法を持つ「丸瓦」、「平瓦」)の資料を既に作成、配布していました。

これは三田市の「山崎敏昭」氏が同会でなされていたことを、「見様見真似」で試みたことです。

私の場合は幾分「自己流」ながら、実測図や拓本、ステレオ写真などですが、「平瓦」の「広端部」と「狭端部」を逆に記しています(汗)。

また、この時既に「山下城」という名称に抵抗感があったと見られ、「多田城」(ただのしろ)の名称を使っています。

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そして「瓦」は、同城が決して「天文十年(1541)の築城当時のまま」ではなく、「織豊期に改装を受けている」ことを示す遺物でした。

加えて他の、「石垣の痕跡」の存在や、「山下町、下財町に分かれた2元的な都市区画」、町が「天正二年成立と記された史料」といった情報などから総合的に判断すると、当地は「塩川長満」時代における、城と町がセットになった「織豊期城下町」起源であることはもはや明白でした。

[20年前、「城郭談話会」を離れてしまう]

しかしながら、私はやはり「毛色の違った変わり者」だったのでしょう。

どうやら「思考回路」が他の方々と大分違うせいか?「城郭談話会」の方(参加歴としては先輩にあたる)と2度ばかり、感情的なトラブルがありました。いずれも「公務に属する」先方からの城跡の「模型製作」を依頼に関するもので、「研究」とは一味も二味も違う「復元という行為」に関する「スタンスのギャップ」が主な要因でした。

実は「復元における“客観性”」とは、「意匠」「造形」「創造」「シミュレーション」「印象」「心理」といった「統合的要素」にまで踏み込むもので、「研究」「分析」「解明」といった「分解的要素」とは180°反対のベクトルを伴うものなのです。

こうした「芸術論」の領域にも属する「ニュアンス」を、「学者」「研究者」の方々には中々理解してもらえず、当方も思わず言葉も荒くなり、そうした気まずさもあって、かつ、おそらく自分の味方は居ないであろうとも察し、結局同会から足が遠のいてしまいました。

一旦離れてしまうと、もはや再参加が非常に億劫になるという「悪循環」に陥りました。

加えて当時、「表採遺物」を提出、寄贈した「川西市教育委員会」のある方からも、非常に「失礼」な対応を受け、私は「遺物を寄贈した」こと自体を今でも後悔しています(註:現在おられる方ではありません。また故・祭本敦士さんでもありません)。

それやこれやが重なって、結局私は半ば鬱状態に襲われ、大人げもなく、連絡もせずに「引篭もって」しまったのです。社会的には「欠礼」や「不義理」をしてしまったわけでした。

ともあれ、原因そのものが上記の如く、非常に「説明困難」な領域に属するものなので、これまでどなたにもその「経緯」などは話してはおりません。

[運命?いきなり舞い込んできた「桔梗紋瓦」発見の知らせ]

これもまた「運命」でしょうか。幸か不幸か、その直後の平成12(2000)年に山下町の「藤巴力男」氏から、城の「主郭北東寄り」における「植樹」の際、これが出土したという連絡を頂いて超驚きました!!

第4回挿図桔梗紋1108転載

それは塩川氏の「祖先」である「源頼光伝承」に由来する、おそらく「日本最古の家紋瓦」でした。

(一般には「美濃・土岐氏」がルーツであるかのように「誤解」されている「桔梗紋」と塩川氏との関連性については、連載第17回(リンク)の第3章「桔梗紋と城」で述べています。)

第17回桔梗紋比較アイキャッチ

「またなんというタイミングか…」とは思いましたが、やはりこれは「あまりにも貴重な資料」でもあり、兎にも角にも「拡散すべき緊急情報」と判断しました。

これを黙秘している事は「研究者としての誠意に欠ける」と思ったからです。

私は重い腰を上げて、慌てて瓦の実測図を作成し、拓本や詳細なステレオ写真なども多数添えて、また今回の「不義理」「欠礼」のお詫びも込めて「中井均」氏をはじめとする、「城郭談話会」の主に「考古学系の複数の方々」に、この瓦の資料を郵送しました。

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しかし「時、既に遅し」だったのでしょう。もはや殆んどの方からご返事も頂けませんでした。

(確か〇〇氏(お名前を伏せた方がいいと判断しました)からはご丁寧な礼状を頂きました。また「高橋成計」氏(「高代寺日記」をご教示頂いた恩人でもある)には、”曲者”でもある私に、なんとかお付き合い頂いております。)

なおこの瓦は、私とは別に、発見者である藤巴力男氏もまた「川西市教育委員会」に働きかけたようですが、結局、動いてはいただけなかったようです。

[想像以上に厳しい裁定]

翌2001年春、偶然というか必然というか、京都市の「山科本願寺南殿」の「発掘調査・現地説明会」において「中井均」氏ら数名の「城郭談話会」の方々をお見かけしたので、私は緊張しながら近づき、昨今の不義理をお詫びしたのですが、中井均氏からは

「君がこの間送ってきた資料やけど、他の者にも「あれは無視するように」と通達しておいたから」と告げられてしまいました。

どうやら「欠席裁判」があったのでしょう。

また、「離反した理由」を尋ねられることもありませんでした

実はここ数年来、「中井均氏には、何となく嫌われている気配」を実感していましたが(後述)、今回も、私とモメた相手方(中井氏の言わば"弟子筋"で、その現場にもいた)の言い分だけを聴いて裁定された、というわけでした。

ただ、私個人へのペナルティ自体は覚悟していましたが、「桔梗紋瓦」の存在そのものを、「他の方々にも“無視せよ”と指示」されたという「中井均氏のご判断」は、想像以上に厳しいもので、私の理解を超えたものでした。

桔梗紋瓦は私ではなく、「地元の方」が発見したものです。

しかし、この「判断」はその後「20年間」は貫かれて現在(2020年12月19日)に至っており、「城郭談話会」の誰もこの「桔梗紋瓦」等のことは口にしなくなりました。

(これとは別に、提出した「瓦」の情報が生かされなかった点においては、「川西市教育委員会」の対応も全く同じでした)

[今や研究者にも忘れられて…]

近年においても「中井均監修」の城郭談話会による「図解・近畿の城郭Ⅱ」(戎光祥、2015)における「山下城」の項(「中世城郭研究会」の「西股総生」氏執筆)は、山上の「土の城」における戦術論に留まり、「瓦」どころか「石垣痕跡」、「城下町」に関する情報もまた、一切、記されていません。塩川氏滅亡時の状況説明も「多田雪霜談」がそのまま用いられているという有り様です。

現在「山下城という遺跡」に対する「最も信頼出来る文献」がこの「近畿の城郭Ⅱ」であるとすれば、非常に情けない限りです。

なお執筆者の「西股総生」氏は「関東」の方でもあり、おそらく「瓦出土」の情報もご存知なかったと思われ、ごく短期間の調査による報告、執筆であるのはむしろ「お気の毒」ですらあります(「監修者」である「中井均」氏の役割って、いったい何なのでしょう?)

(なお、私は個人的には「西股総生」氏の著書「城取りの軍事学」(学研パブリッシング)における、「再現シミュレーション」を重視した「現実的な考察の方法」、あるいは「Ⅲ号突撃砲」や「海防艦」を例に用いたユニークな例え話、また別著「戦国の軍隊」(同)における氏の「兵種別編成論」などに非常に感銘を受けている者でもあるので、この点“複雑な思い”です。なお、西股氏とは1度だけ、1994年暮にお会いしている筈なのですが、残念ながら自分の記憶自体が飛んでおります。)

一方、「中西裕樹」氏も実は、私が「城郭談話会」時代に配布していた、少なくとも上記の「丸瓦、平瓦」等の資料を御存知(お忘れでなければ)のはずなので、中西氏が「山下城」に関する記述において「瓦」の存在に一切触れられていないのは、やはり上記の「中井均氏による通達」が想像以上に「徹底したもの」であり、「城下町の復元図」も含めて「私が出した情報が全て」抹殺されてしまった、かと推察されます。そうでなければ、集団特有の「自発的な"同調圧力"」というやつでしょうか。

別に中井均氏ご本人が黙殺されるのは、全く「個人の見解」なので、もちろん、何ら問題はありません。

私が気になるのは、むしろ、他の方々に対して「無視せよ」という「指示をされた」ことです。

比較的「自由な空気」を重んじていた(と思えた)「城郭談話会」でしたから。

[加藤理文氏の御著作にも複雑な思い]

加えて「織豊期城郭の瓦」の研究者と言えば、私は1度もお会いしたことがありませんが、よく中井均氏の"盟友"と表現される「加藤理文」氏が有名です。

本稿でも第17回(リンク)において、加藤氏の「織豊権力と城郭 瓦と石垣の考古学」(高志書院、2012)から度々引用させて頂いております。

しかしながら、加藤理文氏は同書において、「家紋瓦」の「最古の事例」を、織田信雄段階の清須城における「織田木瓜」紋(筆者注・天正十四~十八年)とされ、また「家紋瓦の成立については、豊臣政権による大坂城、聚楽第、伏見城下の城下屋敷建設であることはほぼ間違いない」と記されています。なお、森島康雄氏(聚楽第と城下町)が推定された聚楽第城下町の成立期は「天正十九年」です。

これらの年代は、塩川氏の「桔梗紋瓦」のおよそ12~20年も後にあたります

ここから塩川氏の「家紋瓦」が如何に「突出した早期」であるかもお判りいただけるかと思います。

そして今現在(2020年12月20日午前4時)、私が気になっているのは、「中井均氏が、加藤理文氏に対しても、未だに「あの桔梗紋瓦の資料」を見せてないのだろうか?」ということです(少なくとも、私に「返送」されてはおりません)。

これは「研究者としての、誠意」に属する意味において !

なお、あの瓦は、別に「未公表資料」ではありません

本日、12月20日(日曜日)開催予定の「お城EXPO2020」における「中井均、松田直則、加藤理文3氏による対談「信長・秀吉時代の瓦と地方への波及」(2020年12月20日15:50~16:50、1週間、有料配信あり)に、「家紋瓦の年代観」が語られたりしないだろうか?。

⑤物集女城跡第3次調査第3トレンチの誤解を解く

[1617会 京都例会のお誘いを辞退する]

2001年春に中井均氏から「桔梗紋瓦ほか一切の拙論」を「抹殺」された時、もちろん、驚きはしましたが、実は「もの凄く驚いた!」という程ではありませんでした。それには伏線もあったからです。

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また、それとは別に、去る2020年11月26日、冒頭でご紹介した「仁木宏教授」との「仲介」をお願いした方から、2日後の11月28日に開催予定であった「第72回1617会 京都例会 山城国乙訓(おとくに)物集女城と、物集女荘・物集女氏」という、研究者の会合の案内状を頂きました。

この会合にはその「仲介の方」と「仁木教授」も参加されるので、これは、大変ご親切にも私と仁木教授を「引き合わせる」というご配慮もあったのでしょう。

しかしながら、私は「千載一遇」の、この貴重な申し出を辞退せざるを得ませんでした。

他の場所であればともかく、何の因果か、「物集女城跡」(向日市)は、私にとって「因縁の場所」なのです。おそらく心拍数さえ高まり、絶対に「精神の冷静さ」を保てない場所。

加えて会合のプログラムには「中西裕樹氏による講演」まで含まれていました。

仲介してくれた方には、本当に誠に申し訳なかったのですが、仁木教授と初めてお会いするには「最悪のシチュエーション」が想起されたので、ご辞退申上げてしまいました。

これはあるいは「失礼」でもありましたので、私としては、やはりその経緯を説明しておく必要を痛感しました。

その「因縁」とは、今から24年前に遡ります。

[「物集女城第3次調査」の解釈を求められる]

平成8年(1996)12月末頃、「物集女城跡」(向日市)の東南角に位置する「物集女城第3次調査」(向日市埋蔵文化財センター)の「第3-3トレンチ」(3トレ)において、私は調査担当の「中塚良」氏から「遺構をどう解釈するか」と意見を求められました。

当時私はアルバイトでしたが、既に前年度(1995)における物集女城跡の「第2次調査」(担当・國下多美樹氏)に「補佐員」として実務に参加していました。

中塚良氏は「地理学」のご出身で、かつ地層の「詳細な断面観察・記載」をされる方でもあり、私が「地質学の出身」であり、かつ、「城跡を研究」していることの両面を尊重してくれたのでしょう。

「物集女城跡」は天正三年(1575)に「細川藤孝」に滅ぼされた西岡衆、「物集女宗入」の「平城」の遺跡で、主郭東側の「堀と土塁」が比較的明瞭に残っています。

この「3トレ」は主郭の東南隅近くの、水を抜いた「水堀の底」に設けられた調査区のひとつで、物集女地域の現場では初めて見る、長径60~20cmの「巨礫群」(亜角~亜円礫)を伴った遺構が出土していました。「いったいこれは何だ?!」というわけです。

[「破城痕跡」か!]

それは発掘調査終了後、あるいは終了直前の「小雨の日」でした。当時私は別件の室内作業に忙殺されていた頃です。

雨の中、現場に案内されると、中塚氏はトレンチ(調査区)のブルーシートをめくって、件の「巨礫群を伴う遺構」を見せてくれました。私が観察に要した時間は10分くらいだったと思います。

この「遺構」は、私には、

「まず東側の城内から巨礫群を含む土が落下して、礫は堀底近くに雑然と転がり、次にその上から土(確か「木片」(折れた板材)を含む)が崩落してきて、堀側に向けて傾斜した状態で覆っている」

ように見えました。

なお、「物集女」の地は、断層変位で上昇した「向日丘陵」の東裾に張り出した「氷河期の(旧)扇状地」(低位段丘)にあたり、同地を構成する地質はすべて「丘陵を構成する大阪層群」から供給されたものです。

「物集女」においてはそれまで合計7~8ヶ所の、発掘現場や工事に伴う「立会調査」の現場を見ていましたが、このような、長径20cm以上の大きな角礫群は見た記憶がありませんでした

(私はちょうどこの頃「向日市埋蔵文化財調査報告書第44集」中の「中海道遺跡第32次調査」の項において、調査担当の梅本康広氏のご好意から「物集女の扇状地」に関する小論を執筆させて頂いておりました)

ともあれ、巨礫自体、物集女周辺には極めて稀な存在と思われ、(古墳などから転用する?のでなければ)、3.5km西側の山地からわざわざ採取してくる必要があると思われ、要するに物集女において「巨礫は貴重品」なのです。

そして、遺構が「基本土造り」である「城郭」のものであることを鑑みれば、この岩石が「虎口」(城門)など、城の「最重要部分」に用いられたものであった可能性があります。

既に事前の地形調査の段階から、主郭東南隅のあたりは「虎口」があったのではないか?と「予測」されていたことからここに「3トレ」を設定したわけで、「虎口」に由来するであろう「巨礫群」の検出は、いわば「大当たり」に近いという朗報でもありました

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「土の城」の「虎口」に「大きな岩石」が使用される、その「最大の理由」としては、私は「西股総生」氏が提唱される「門柱と土塁の隙間の三角形を埋めるもの」(城取りの軍事学)という解釈を支持しています。

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そして「物集女氏滅亡」後の廃城時における「破却」において、「虎口」を人為的に破壊する際、先ず最も重たい「石」が真先に落下して堀底に転がり、次に崩された「土塁」の土や、門などの「建材」(木片)が「大石」の上を覆ったという、「破城痕跡」ではないか?というのが私の解釈でした。

私のこの「解釈」には、その3年前の平成5年(1993)、某社における「肥前名護屋城博物館」に展示するジオラマ製作の取材時に、「破城」による「崩落石垣」を目の当たりにして衝撃を受けた(連載第18リンク)という、自分の経験も大きく影響していたでしょう。

中塚良氏も、この私の解釈に「感銘を受けたように賛同」してくれ、「破城痕跡」にほぼ決定という矢先のことでした。

[突然くつがえる解釈、「地業」だって??]

数日後のある日、中塚良氏から「今日、「中井均」さんが来られて、「破城説」は「やめとき!」と言われたので、ボツになった」旨を、「きまり悪そうに」言い渡されました。

中井均氏によれば、石は「地業(地盤改良)に伴う「捨て石」を用いた“土留め”」であり、それを覆う土は「地盤改良されたテラス」(張り出し部)を構成するものだ、という解釈でした

要するに土塁の外側の「テラス」(張り出し部)を築くための造成工事「地業」だというのです(?)。

驚いたことに、結局、「概報」において「石」は「置かれたもの」「埋め込まれたもの」と「断定的」に記されてしまいました。

私の唱えた「破城痕跡」に関する見解は、その可能性をも含めて概報から一切消えたのです(!)

物集女イラスト2

また、私が向日市埋文を離れた2年後である1999年頃?に作成された「復元イラスト」(上、國下多美樹監修)においては、この「遺構」が、あたかも「地業」であったかのように手が加えられて、「石」が「整然と置かれているかのように並べられ」、しかも「別の場所」に描かれています。

下図は「復元イラスト」に加筆したもの。

物集女イラスト

イラスト(CG)を作成されたHさんによると、監修の「國下多美樹」氏から「中島康隆さんの「破城説」は間違いだと判ったので、このように描いて欲しい」と指示されたそうです。でも、石を動かしていいものでしょうか?

石は「城側の裾野に並んで」などおらず、堀の結構中央寄りに「固まって」いたはずです!!

この「3トレ」の「巨礫群を伴う遺構」は、結局現在に至るまで、報告書(2003、2019)においても、この「中井均氏による見解」を「全面採用」した「地業の遺構」という解釈のみが、断定的に記述されています

(なお、現在「物集女城跡」を担当されている「中島信親」調査員は、これより後に主要担当になられたので、ことの経緯を直接にはご存知ないと思われます)。

私は「地業説」に対して「ありえない」とまでは言えませんが、そもそもこの「第3次調査・第3トレンチ」という調査区自体が「あまりにも狭小」なものなので(後述)、いずれの解釈にせよ、「ひとつの解釈に断定する」という行為そのものが既に「科学的」ではありません。

両方の解釈の可能性を併記した上で、「今後の課題である」とするのが「学問」でしょう。

加えて、「中井均」氏(当時米原町教育委員会?)は、かつて向日市埋文にも在籍されていた「職場の先輩格」でもあり、何よりも当時既に全国的に著名な「中世城郭の権威」でもあられたので、私にはこれらの処置は、「向日市埋文による“政治的判断”か」という印象でした。

ともあれ、この4年後である2001年に中井均氏から「君の“桔梗紋瓦”の報告は、談話会の他の者にも「あれは無視するように」と通達しておいたから」などと言われた時は、この「破城説抹殺」以来の「デジャブ感」があったわけです。

この2001年の場合は、私の獅子山城・山下町関連の研究成果自体が、あたかも、明治政府による「越後・長岡城クラスの破城(!)」を受けて「無かったこと」にされてしまったわけでした。

[近江・鎌刃城の発掘現場にて]

なお、現在とは違い、「1996年末当時」は、石垣を人為的に崩す「破城論」というものが、まだ一般的には普及していませんでした“一部の先進的な人達が唱えている”(註)といった感じだったのです。

(註 : 伊藤正義「城を割る 降参の作法 2」、藤木久志編、朝日百科「歴史を読み直す15  城と合戦」(1994年2月刊)所収

私は1996年末当時の「中井均」氏もまた、「破城論」そのものを受け入れておられなかったのではないか?とさえ思ったものでした。「異端っぽい説」という具合に。

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なお、私が「破城論」に全く「抵抗感」を感じなかったのは、繰り返すように平成5年(1993)に、模型上でありながら、激しく破却された「肥前名護屋城」の「石垣の復元」にたずさわっていたからだと思います。

製作時には「詳細な石垣の復元図」さえなかったので、不明な部分は「宮武正登」氏(当時名護屋城博物館、他に頼れる人が居なかった)に電話で質問したり、意見を聞いたりして判断、復元、したという、模型自体が"手探り"の製作だったのです。

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しかしながら、中井均氏ご自身はこの2年後(1998)からの「鎌刃城」(滋賀県米原町)の発掘調査において、膨大に検出された「破城遺構」の事を大々的に発表されたので、これまた私には「えっ…」という感じで絶句しました。

実は私は1998年だったか?「高橋成計」氏に連れられて、中井均氏による「近江・鎌刃城」の発掘現場を見学に訪れています。私は「2年前の物集女城の件」を中井氏には何も言いませんでした。

この時、中井均氏が、「鎌刃城」の石垣が人為的に崩された「破城遺構」のことを、私と高橋成計氏に説明した際、「破城」という単語を言うところで、一瞬だけ「声が小さくなった」ことだけはハッキリと覚えています。

[2020年12月16日、初めて物集女城の「報告書」を見た!]

私は「中塚良」さんには他にも色々と「恩義」もあって、大変複雑な思いです。

しかし、やはりこの「物集女城跡第3次」だけは忘れられず、2018年に中塚さんとメールでやりとりした際も、思わずこの件を蒸し返して「今の貴方はどう思うか?」と訊いてみたのですが、「わからない…」と逃げられてしまいました。

この「物集城跡第3次調査」は、当時「概報」(現地説明会のものだったか)のコピーは貰っていたものの、石が「置かれていた」などと表現されているシロモノでもあり、その後2003年に刊行された報告書「向日市埋蔵文化財調査報告書・第60集」なども、全く見る気さえ起こりませんでした。

しかし本件を書くにあたり、やはりその「必要性」を感じ、つい1昨日、(2020年12月16日)向日市立図書館に出向き、ドキドキしながら初めて閲覧してみました。

物集女城3次

画像は上記「概報」および「第60集」よりピックアップ、一部加筆、彩色したものです。

さて皆さん、この堀底の「石」、はたして「置かれたもの」、「埋め込まれたもの」に見えますでしょうか。

「地業」であれば、もっと城内寄りに「均等」に配置されていると思うのですが。

そして、おそらく、2020年の現在であれば、かなり多くの方が瞬時に「石」が堀底に落下した「破城遺構」と判断すると思います。

「破却されて堀底に転がっている巨礫群」なんて、今や城郭における「発掘調査の定番」ですから。

そして左上の「地層断面図」もまた不思議です。

この現場は、堀の水をポンプで除去しながらの「ジュクジュクの土層」相手でもあったので、「分層が困難」であるというハンディは私も実感しましたが、やはり「どこが本来の堀の輪郭であったか」が曖昧なままです。

私は「箱堀」や「薬研堀」の例を出すまでもなく、城郭の堀の底断面がこれほど「ダラダラ」した「シャープでない」という例は異常だと思います。

物集女城3次断面図アップ

この「地業説」だと、「堀底面」が「第2層と第3層の境界」ということですから ! (赤点線)。まるで「親水護岸」ですね。

私の「破城説」ですと、「堀底面」は「第3層と第4層の境界」であり、「堀の西端(城内側)」は「さらに西(左)であり、いまだ未検出」ということになります(青点線)。

PC291147trim説明

加えて「地業説」であれば、「堀の西肩」は「地業以東(右)」となるわけですから、平面配置図における「堀」の記し方とも既に矛盾が生じています。

なお、「左下の2つの図面」は拙作のものです。

これは昭和56年(1981)に作成された「物集女城跡実測図」(向日市史・上巻、等高線表現)をベースに、この「第3次調査」の1年前である1995年10月26日~12月4日の「第2次発掘調査」の際に、私が地表面を観察していわゆる「縄張図」風に表現した「現況地形の概念図」で、今回かろうじて報告書にも加筆・採用されていた事を知りました(懐かしい!)。

物集女城3次地形概念図

なお、櫛状の「ケバ線」は「城の切岸」という意味ではなく、あくまで「現況における急斜面」を表現しています。

そして本図において「最重要」な情報は、「3-3トレ」の西側、城内の「張り出し部」の右に、私が記載した矢印「→」と「同心円弧」を組み合わせた記号です。

これは、城郭研究者がしばしば用いる記号でもありますが、「遺構」を表わすものではなく、この場合は「土が西→東」に移動したという「崩落痕跡」を伴う「緩斜面」を記載、表現したものなのです。

加えて「張り出し部」の堀側(西、南、東)における「輪郭の丸さ」もまた、近畿の城としては「かなり異常」です。

これらから総合的に鑑みると、この「張り出し部」は、「崩土が扇状地状、円弧状に拡散した破壊に伴う地形」ではないか、という「印象」が、既にこの1995年末の時点から漠然とあったわけです。

そして私が翌年の「3トレ」において、石や土が「西→東」に崩落した「破城痕跡」だと診断したのは、この前年度における「地表観察」もベースであったというわけなのでした。

ついでながら、もう1度、1999年頃の「復元イラスト」を見てみましょう。(このギャップ…)。

物集女イラスト2

ともあれ、本章冒頭で述べた、2020年11月28日の「1617会  物集女城と、物集女荘・物集女氏」の会合において、「仁木宏教授」とお会いする事を、ご辞退申し上げたのは正解でした。

仁木宏氏は確か以前、中井均氏と「物集女城」に関する共著も出されていたはずであり(「京都乙訓・西岡の戦国時代と物集女城 」2005)、いきなり「初対面」の私が我慢出来ずに「上記の経緯」を短時間で口頭説明したところで、かえって当方の信用を失うだけだと思われたからです。

[2019年にも「(総合)報告書」が刊行されていた!]

実は一昨日、図書館の次に寄ってみた「向日市文化資料館」において、なんと昨年度(2019)にも、新たに「物集女城跡」(向日市埋蔵文化財調査報告書・第113集)というものが公刊されていることを知って(!)、あわてて再び図書館に舞戻り、それも閲覧してみました。

というのは、やはりあまりにも「理不尽」である例の「地業遺構」の判定に対して、ひょっとしたら「見直し解釈」がなされているかも?という「往生際の悪い期待」があったからです。でも、相変らずの記述でした。

しかしです!36ページ末における例の「地業痕跡の見解」に「ひき続くかたち」で、38ページに「驚くべき記述」があったのです(中島信親氏執筆)。

それは例の「張り出し部」に関する、初めて聞く情報を紹介するものでした。

「内郭南東隅部には、現況で東西約20m、南北約15mの南に拡がる平坦地がある。これを「張り出し部」と呼称しており、「虎口」(出入り口)あるいは「横矢がかり」(防御・攻撃用施設)と解釈されていた。第3-3トレンチはこの「張り出し部」の東に位置し、確認された地業痕跡は「張り出し部」東斜面の崩壊を防ぐ土留め工と評価された。なお「張り出し部」について、第4次調査で限定的な範囲の調査ではあるが、近世の遺物が出土しており、その存否が疑問視されていた。最近、周辺住民により、「張り出し部」は土塁を破壊した土で整地したことが判明した(註1)。よって物集女城存続期に「張り出し部」は存在しなかったと判断する。

やっぱりそうだったんだ!

そしてこの中島信親さんの「文章構成」、なんか「暗喩」が込められていませんか?。「コレは書けないけど、どうか察して欲しい(汗)」という具合に…。「隣の机」あたりの中塚さんも「実はあの時なぁ(汗)…」とか“助言”してくれてません?(この部分は、フィクションであり、実在の人物、団体とは一切関係がありません

[38年間も忘れられていた証言]

なお(註1)を参照すると、78ページの下に「向日市教育委員会渡辺博氏のご教示による」とありました。

この「渡辺博」氏とは24年前、「向日市文化資料館」におられた時分に、当時「立会調査班」にいた私と、別件で1~2度だけ僅かな接触がありました。ともあれ、この「土塁を崩したという情報」は今回初めて知って驚いたので、やはり詳細を確認したいと思い、さっそく「向日市教育委員会」に電話をしてみました。

24年ぶりにお話しをさせていただいた渡辺さんご本人から事情を聞いてみると、渡辺さんは「松崎俊郎氏(懐かしい)、ポール・ブランデンブルク(?)氏」と共に、前述の、昭和56年(1981)作成の「物集女城跡実測図」の測量調査を担当されていた、ということでした。

「土塁を崩した」という住民の方の証言も、その調査時(1981)に得られたものだったのです(2019年の報告書における「最近」とは、「38年前」のことでした)。

しかしながら、この情報が1995~96年の「第2次、3次発掘調査」を含む、物集女城の研究、考証に全く採用されてこなかった事が、渡辺さんとしても非常に不本意であったので、今回の「物集女城跡」(2019)の刊行にあたり、執筆者の「中島信親」氏に要請して上記の「証言のくだり」を加えてもらい、P33の「周辺調査配置図」も幾分「丸みを除去した」復元的要素を加味した表現となった、ということでした。

画像27

なお、「第3-3トレンチ」における、私が「破城」(西からの崩落)ではないかと解釈した遺構自体は、出土遺物から、この「近現代の土塁破壊」よりも古い「廃城時の事象」であったかもしれませんが、であるとすれば、「城内を外側に崩す行為」が複数回「繰り返されてきた」のかもしれません地層断面図に見られる「崩落」(と私が解釈した)の痕跡もまた、時期差を伴う「複合的」なものである可能性が加わったわけです

(また、私が想定している「石垣を伴った虎口」は上図↑の「地」の文字の周辺、ということになります。)

ともあれ、「渡辺博氏による1981年の聞き取り情報」と、私自身による「1995年の地表面観察」、及び「1996年の遺構解釈(破城)」の3つの現象が、全て「城内から外(堀)側に土や石を押し出して崩落させた」という点においては「一致」をみたわけです。

なにやら、私には「24年間の胸のつかえ」が7割方は消えましたね。

渡辺博氏には深い感謝の意を伝え、電話を切りました。

[モズメとキツキを繋ぐもの]

ふと思い出したのですが、私は平成五年(1993)の「肥前・名護屋城」ジオラマの直前に、「豊後・杵築」(大分県杵築市)の「城下町模型」の製作を手がけていました(きつき城下町資料館蔵、縮尺1:300)

こちらもまた、「身をすり減らす」ものでしたが、私にとっては、子供の頃から憧れていた「城下町全体」を製作する初の仕事であり、言わば「ここ一番!」の仕事でした

「杵築城跡」は今年、令和2年(2020)3月10日、国指定史跡に指定されました。もし、あの「城下町模型」がこの「指定」の一助となっておれば、これほど嬉しいことはありません!!

そして今、手元に画像が無いので「画像検索」をしてみたら、なんと「中井均氏がこの模型の解説をしている画像」がヒットして、非常に気分を害しました…。

とりあえず、「じゃらん」のサイトから「みっちゃん」さんという方の画像をお借り申し上げ、挙げさせて頂きます。

杵築1

実は、この近世の「杵築」(木付)という町の土台を築いた重要な一人が、「細川忠興」の家臣として「木付城」に入部した城代「松井康之」という人物でした。

そうです!。彼こそが、天正三年(1575)年に「細川藤孝」の命により、「物集女城」の最後の当主であった「物集女宗入」を「勝龍寺城」に「誘殺」した男です。

「秦氏の末裔」を誇った西岡衆のひとつ、「物集女氏」は、ここに滅亡しました。

加えて偶然ながら、私は江戸時代を表現したこの「杵築城下町」の模型中においても、「破却を受けた松井時代の木付城跡」(台山)を表現していました

しかも「とにかく天守だけは欲しい」という当時の「杵築市さんのご要望」(汗)と、納期直前のゴタゴタの中での建築資料の不備が重なって、不本意ながら、江戸期には無かった、文禄頃?の「天守」(意匠は想像、台山の先端部)を「江戸期の城跡に置く」ハメとなりました(いつでも取り外せます)。

再び「じゃらん」の「みっちゃん」さんの画像から拝借するとこんな感じです。岬状の台山が、近世初頭に破却された「城跡」であり、「杵築(木付)城」の主要部は江戸時代以降、その北西裾の「陣屋」(台山の後ろ)に移りました。

杵築2

何の因果か私は、「物集女宗入を殺害した人物の城」においても、「不本意な破城跡」にたずさわっていたのです。

なお、この模型全体には、私が城郭談話会の一部の方に理解されなかった、例の「復元論の手法」を込めています。

そして「物集女城跡」の「3-3トレ」の「堀底の巨礫群」が、本当に「破城時の遺構」であるとすれば、この「破却」を執行したのは、乙訓郡を支配する「細川藤孝」の配下であったはずであり、或いはそれは「松井康之」の担当だったかもしれません。

ひょっとしたら、一連の私の不幸は、あるいは「物集女宗入」のタタリだったのかも?

ともあれ、あの「巨礫群」は「物集女宗入」の「滅亡を象徴」する、いわば彼の「墓石」のようなものではないでしょうか。

幾分遅ればせではありますが、無念に死んだ「物集女宗入」にも「想いを馳せて」本章を締めくくります。

⑥エピローグ

[リハビリを経て「取出」を構築する]

2014年、14年間ばかり“沈黙”していた私に「再開の場」を与えてくれたのは、山下町の「藤巴力男」さんと「東谷ズム」さんでした

そして「東谷ズムホームページ」において2016年から開始したシリーズ「塩川氏の誤解を解く」は、私にとっていわば「社会復帰」、「リハビリ」のようなものでした。実はまだまだ「不義理」のお詫びが済んでいないのですが。

ともあれ、「後期・塩川氏の歴史」に関しては、間違った「通説」の大修正が必要であり、かつ、公的研究者のバックアップも得られぬ身とあっては、“町興しサイト”の連載でありながら、「長文で論拠の城郭」を築き始める必要があったのです。

それを知ってか知らでか、2019年8月の「中西裕樹」氏(城郭談話会出身)による「戦国摂津の下克上」中で、城下町等の「全否定」及び「瓦情報の黙殺」(P10、P102)という攻撃 を久々に受けたので、「また来たか…」と“一旦のスランプ”を経て「防御」→「城外へ出撃」→「遠征」へと勢い余って、目下「飯盛城下」に攻め入っているところです。

これもまた、「摂津・塩川氏のタタリ」でしょうか?(タタラれ過ぎ)

しかしながら、中西裕樹氏にしろ、仁木宏教授(汗)にしろ、私にとって「ラスボス」ではありません。

すでにおわかりかと思いますが、私にとって「ラスボス」とは「中井均・滋賀県立大学教授」なのです

「大手!」

去る2020年11月22日(~12/6)にyoutube上でも公開された「関西城郭サミット2020」の動画中の「コメント」のラスト近くにおいて、「中井均」滋賀県立大学教授が「飯盛城の西側」にも「石垣遺構」の残存を予測され、三好長慶が「城を河内平野側に見せ付けていた」見解を述べておられたのは、私にはとても印象的でした。

中井氏は基本的に「飯盛城の大手は東側」と主張されているにもかかわらず、やはり「大局的には西側が表」と意識しておられることを意味するからです。

なお、「西側の石垣検出」そのものは今後の課題としても、中井均氏が現在主張されている

「三好長慶は城を河内平野側に誇示していた」

というご見解に対しては、なんの因果か、本稿は「否定」どころか、むしろ「サポートしている」という位置関係にあるのです

北条石寺比較note

そうです。第22回の末尾⑧章で述べた「津の辺の北」―「天満宮」―「千畳敷」を結ぶ「見通し(ヴィスタ)」の存在です。

「北条」における「市場川」-「高櫓」ラインもまた同様です。

おそらく中井均教授のご見解のように、城内の「千畳敷」等にはやはり「三好長慶の居た主殿」があったことでしょう

それは「飯盛千句」を開催出来るような「眺望の良い」、ということは「二層以上」もしくは「懸造」など、「麓からも見映えする」という、ひょっとしたら「天守の祖形」のようなものであった可能性さえあるでしょう。

おそらく「主殿」の位置は、「ヴィスタ」から逆算して、条里制における「讃良郡」の「四条」と「五条」との境界線である「東西に伸びる条里境道の東延長上」辺りにあえて「計画的に設定」されたものと推測されます

加えて、飯盛城の「外港」である「津の辺」から、山下(町場)である「北条」へ向う「アプローチ」上でもある、この「主殿へ向けたヴィスタ」を伴うプラン(設計)こそ、まさに「当地には既に、"近世城下町"へ向けた萌芽があった」といえるのではないでしょうか。

また、すでに「仁木宏教授」が提唱されたように、確かに「大城下町」は造営されませんでしたが、少なくともその「基本グリッドの線引き」だけは確立していたわけです。

当地は平安中期以来?の「条里地割」も存在しているので、「都市建設」が比較的容易であることが予測され、三好氏も「政治的な余裕」さえあれば、「新都市建設」をも将来的に視野に入れていたのではないでしょうか。

もし仮に「三好長慶」が長生きし、「三好政権」が安定していたならば、当地はそれこそ、「天野忠幸」氏が紹介されたごとく、世界地図や地球儀に「Imori」と記される「大都市」「首都」に発展していたかもしれません。(「摂津・塩川氏」としては不本意(汗)な事態ながら…)

[おわりに]

繰返しますが、目下、私はこの「ヴィスタ」を通じて、「中井均教授」のお説を支援している(汗)という、実に奇妙なポジションにおります

かつて私は「城は見せるものだ」ということを、中井均さんから教わりました。

第22回で多用した「馬蹄形」という言い回しもまた、中井さんの言い方を「真似」したものです。

本稿はその「応用例」の産物でもあります。

ともあれ、本稿は、僭越ながら、中井均教授のこのご主張にも、有効なサポートとなることを自負するものでもあります。

しかし、中井均教授は目下、「飯盛城跡専門委員」の「最長老格」でもあられるので、やはり20年前と同様であれば、「あれ(本稿)は皆で無視するように」との「ご通達」、もしくは「完全な黙殺」(あくまで本稿をご存知であればですが)を貫かれるのではないかなあ…とも思っております。

(つづく。 2020,12,20,05:16  12.26 瓦の資料画像追加 文責:中島康隆)

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利右衛門
腐れ縁で戦国時代の摂津・塩川氏の事を調べている歴史マニアです。川西市山下のイベント「東谷ズム」で「戦国1日博物館」というブースを担当しておりました。元・模型職人(紀州・手取城、豊後・杵築城下町、平安京&鳥羽離宮、etc…)