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歴史を踏みしめる【ムカサリ絵馬】その四 若松寺

 昼食では私にとっての旅の定番メニューであるラーメンを啜り、午後からは天童市にある「若松寺」へと向かう。時刻は正午を過ぎている。事前に若松寺へはメールで連絡をさせて頂いており、一時頃にお話を伺うと約束していた。
 さて、東根駅から電車で移動すること凡そ三〇分。天童駅に着いた。天童市は将棋の駒の製造、生産で有名であり、温泉の評判も良い。改札を出ると、「『歓迎』湯のまち天童 あなたの度に、王手」と書かれた横断幕に目を惹かれる。巧い事、言ってみたキャッチコピーだ。駅の一階には「天童市将棋資料館」もあり、将棋がお好きな方には聖地と言えるかもしれない。

天童駅の改札前

 階段を下りると、タクシー乗り場がある。事前にタクシーの手配をしようと数日前に近くのタクシー会社に連絡したのだが、「その時間ですと、予約なしでもタクシーは待機してるので乗れると思いますけど」と言われ、予約は取らなかった。辺りを見渡すと、タクシーは停車していない。話が違うぞと思いながら、改めてタクシー会社に配車を依頼する。すると、数分後に向かうとの返答があり、遅刻はせずに何とか若松寺へ向かえそうでホッとした・・・。

「お待たせいたしました。どちらまで?」

 将棋の駒が車の屋根上部に付けられた、ユニークなデザインの天童タクシーさんが迎えに来てくれた。男性のベテランドライバーに行き先を告げ、車は山奥へと進んで行く。

天童タクシーの車の上部

「昔はねえ、寺まで上がる道路がなかったから。歩いて階段上ってたんだよ」

 アクセスしやすくなったことで、全国からムカサリ絵馬の奉納の為に来られる方や見学者がやってくる現状を、ドライバーさんの一言が物語っていた。ムカサリ絵馬からは、人と人との結びつきを大切に捉える独特の風習や歴史を学ぶ機会を得ることができる。
 若松寺は天童駅から東北東に位置しており、車で凡そ一五分で辿り着く。古参道を逸れて、山を切り拓いた湾曲した一本道を進むと、車は拓けた駐車場に停車した。

「ありがとうございました。この入り口の右手の建物の中に古めの絵馬があるからね」

 流石はベテランのドライバーらしく、お寺の事情もご存じであった。後ほど見学するとしよう。ドライバーさんに御礼を告げて、復路の配車もお願いしておいた。まずはざっと境内を散策して、本坊に向かい、お話を伺うことにした。気付けば雨も上がっていた。

正面玄関

 正門を眺めると、寺が山中に位置するので生い茂った木々のほうが視界の大半を占める。入口は何とも、こじんまりとしており、境内にある各御堂が入口からそれぞれ距離があるので、一見、古風な寺という印象は受けない。門を跨ぐ。いつの間にか雨は止んだが風が強い。奥に見える本坊までは石畳の一本道が伸びているが、吹き抜けるように向かい風が厳しい。
 ムカサリ絵馬が奉納されている建物以外にも、見どころがいくつかある。まず、入ってすぐ左手の子育て地蔵堂だ。女性の胸部だけが象られた銅像と呼ぶには程遠い像が、参拝者が撫でることができるように上向きに安置されている。縁結びの御利益や生命の尊さを感じるスポットが入口すぐ隣にあるというわけだ。
 今回はムカサリ絵馬が趣旨なので、その他の国指定重要文化財や市指定有形文化財の詳述は割愛させて頂くが、もう一つだけご紹介しよう。絵馬が奉納されている本坊が「あの世での縁結び」を表すのであれば、境内入り口右手に伸びた階段を上がった先にある若松寺観音堂(記事タイトルの画像)は「この世での縁結び」を表している。室町時代後期に建立された国指定重要文化財であり、建築の観点からも見応えがある。一つの境内で現世とあの世が隣り合わせになる構造を体感して頂きたい。
 観音堂で参拝した後は、階段を下りて、いよいよ本坊に向かう。ホームページやパンフレットに祈願所とも表記されたこちらでは、御守りの販売や御朱印を戴ける寺務所が併設されている。お賽銭を入れて手を合わせる。これで御挨拶は済んだ。早速、どなたかに声を掛けよう。そう思って人を探していると、呼び出しベルが受付窓口に添え付けられているのが目に入った。押そうか迷っていると、引き戸の勝手口に人影が見えた。紛れもない、各メディアで取材対応をされていて、今や有名な鈴木教務がいらっしゃった。

「初めまして、御連絡させて頂いた東郷ですが」

「あーどうぞ、靴脱いで中入ってください」

本坊

 本坊に招き入れて頂き、部屋をじっくり、三六〇度見渡した。映像で観たことはあったが、やはり実際に見ると寄り添う感情が生まれる。絵馬と額縁が掲げられた様子は、儚さと御遺族の愛に溢れた空間だ。午前中に訪れた黒鳥観音堂とはまた異なる印象を受けた。

 ここで、若松寺の歴史を簡単に記しておきたい。開山は凡そ一三〇〇年前に遡る。飛鳥時代の和銅元年(七〇八年)に行基がこの地を訪れたとき、山の東方から聞こえてきた鈴の音を頼りに山上に登ってみると、眩しいほどの三十三観音の御影を拝した。そこで行基は開山を決意したとされている。
 その後、平安時代の貞観二年(八六〇年)に、立石寺を開山した慈覚大師(円仁和尚)が、御堂を現在の場所に移して大規模な造営工事を行った。また、この時期には宗派は法相宗から天台宗となり、開山の行基菩薩と中興の祖・慈覚大師が崇められるようになった。
 室町時代に入り、西国の観音巡礼信仰が東国にも普及し、若松寺は最上三十三観音の第一番札所となった。つまり、「第十九番札所」の黒鳥観音堂と同じ巡礼信仰のルートの一つである。

「どうぞ、じっくり見てから、質問でもなさって下さい」

 一度、座敷に腰を下ろさせて頂いたが、再び立ち上がり、観察することにした。(続く)

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