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忘れ物番長

自由と放埓の日々が終わりを告げ、ベルトコンベアに乗せられるようにしていつの間にか義務教育なるものに組み入れられたが、およそ小学校に入学してから忘れ物をしなかった日はない。授業に使う教材をマトモに揃えていったためしがない。いつもいつも向こう三軒両隣に座るクラスの皆さんのものを借りて毎日を楽しんでいた。




学ぶこと自体には大変興味があるので、授業を猛烈な熱量で夢中になって聴いている。そのためかテストの点は総じて良好で、授業態度なんぞは、指名してくれなくても挙手しつづけるほどの積極性を維持しているから、教師はそのギャップに困惑し随分と扱いに困っていたようである。
そんなある日、はじめての授業参観なるものがあった。




自宅に帰り歓び勇んで母に知らせると、都合が悪い、となんともつれない返事ではないか。それではと、父の帰宅を待ち直談判した。熱のこもった交渉は実を結び、父が仕事の合間を見つけて顔を出す、との了承を取りつけた。今考えてみれば何が嬉しかったのかさっぱり理解ができないが、とにかく、そのときは飛んで喜んだものだ。




そうこうしているうちに当日となり、普段小学校で見たことのない大人たちが廊下に溢れる。神聖な学び舎に似合わぬ世間話がやかましい。教室のストーブにのったヤカンからは湯気が立ち昇っている。廊下には授業で描いた絵が飾ってあり、教室の後ろには親たちが観れるようにと作文や工作作品が掲示してあった。父がようやく教室にのっそりと姿をみせたのは、授業が始まってからであった。




絵や工作をこよなく愛する息子の作品には、金賞がついていた。父はゆっくりと作品たちを堪能するとようやく前を向く。さぞ喜んでいるに違いない。父のプライドをくすぐっているのに違いない。息子として誇り高き瞬間である。しかし事態は急転する。その後も遅れてきた親たちが次から次へと教室になだれ込み、父は押し出されるかたちで教室の脇へと移動した。そしてそこには、生徒の名前が並んだ棒グラフが掲示してあったのだ。




父はグラフに息子の名前を探す。グラフをじっくり眺めたのち、ゆっくりと振り向いた肩は細かく揺れている。あろうことか涙流して笑っているのである。棒グラフの題名は「忘れ物表」であった。ぼくの名前のところだけ棒グラフが上限を振り切り、堂々3列目から4列目を伺う勢いをみせている。遠目からもわかるほどにぶっちぎりの一位であった。




定期的に実家の父と母と食事を共にするようにしている。親子3代の語らいの時間は、それだけで楽しく貴重なのであるが、ひとつだけ困ることがある。齢86才になる父は、ぼくが子どもに説教めいたことを云うたび、ここぞとばかりに「忘れ物番長」について面白可笑しく披露しはじめるのだ。我が子たちは、今まで偉そうに説教をたれていた親をまじまじと眺め、ぷっぷーと肩を震わせるのだ。まったくもって、困ったものである。

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