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努力

日本人は「努力ネタ」が大好物ですね。努力については諸手をあげて褒めたたえる。涙ぐましい努力に感動したがる。
生来、怠け者のぼくにとっては、周囲の発するこの「努力すべき光線」がハタハタ迷惑だ。迷惑なだけで済めばいいのだが、危険ですらある。決して言い訳ではない。
なにが危険か。それは、努力は必ず報われる、という一見美しい考えそのものだ。




努力は必ず報われるのだと信じれば、信じ続ければ報われるのだとするならば、報われないことの原因は本人にあることになる。つまり、希望が成就しないのは、社会的地位が低いのは、所得が低いのは、本人の努力が足らないからだということにつながるのだ。自己責任論ってやつですね。これは頻繁に目にする、ありがちな誤りである。




新約聖書のマタイ福音書に「持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう」なる一文がある。「マタイ効果」というコンセプトの名前の由来とされる。ニーチェによれば、ユダヤ教やキリスト教は、古代ユダヤ人がローマ人から耐えがたい差別を受けていたからこそ生まれたそうであるから、昔の人も社会的成功が努力の差によるものでないことはわかっていたのだろう。



更に進化生物学者、生物地理学者のジャレド・ダイアモンドはその著書「銃・病原菌・鉄」の中で、現在の白人有利な世界は、努力や能力の差によるものではなく、年代的地理的に歴史上「たまたま」有利なポジションにいた人種によって形成された、と結論づけている。なんとまったくの偶然によるものであると述べているのだ。努力でどうにかなる問題ではなかった訳である。生まれてきた時点の環境が、その後の運命を大きく左右するのだ。



どん底から努力で這い上がった物語には、たしかに心を揺さぶられる。しかしわざわざ物語となって広く喧伝されるのは、それがほとんどありえない出来事であるからでもある。だからむやみに、努力すればなんとかなるとか、弱者に対して努力が足りない、とすることは大変乱暴な考え方だといえるのだ。努力をしなくても何かを達成できると云っているわけではないが、努力を始めた時の立ち位置や周囲の環境、個体の特徴などによってその結果は大きく変わることは事実である。




更に重要なのは、努力を語る前には是非「何について」努力するのかを語るべきだ、ということである。心から夢中になれる「何か」。それこそが方向性と推進力を与えるからである。それを知るのは、その当人以外にいない。もし、それを己のうちに見出せたなら、矛盾しているようだが、そこに努力などというものは存在しないだろう。
好きなことに夢中になっている人は、自分が努力しているなどとは決して思うはずがないからである。

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